素直になれない人々
王都フルヴィアルの東にある湖で起きた誘拐事件。噂にもならずに掻き消えたそれは、犯人全員死亡で幕を閉じた。
それから一週間後の正午。
フルヴィアルでは、すべての時計塔が音楽を奏で始めた。少しずつ時間がずれてしまう時計を合わせるために、三日に一度、昼の十二時になると、時計塔は鐘ではなくオルゴールのようなメロディを奏でるのだ。それは音の高さが微妙にそれぞれ調整されており、王城から聞くとオーケストラが一曲を奏でたような、そんなハーモニーを楽しむことができるようになっている。
その曲の名前は「リー・ルゥー」と呼ばれており、住民はこの音を聞くことで、家庭用の時計を合わせるのだ。
そんな時計塔の大合唱を聞きながら、ルッテンベルク街の第三兵舎から金髪の青年が現れた。非番のために軍服ではない。襟付きのシャツに、黒のスラックス。靴はひも付きのものである。
ヴェルテードの王都は水路が多く、その街の名のついた大通り以外はどこの街も歩きにくいのが特徴である。しかし、王城からほど近い位置にある第三兵舎は大通りに面しており、青年は仕事上、土地勘に優れているので街歩きには問題ない。
それも今日の青年の目的は、行きつけの店で自分の武器の調整をしてもらうことだった。
「あの……」
歩いていると、途中で話しかけられ、足を止めた。
「ヴェーダ大尉でしょうか?」
「そうですが……あなたは?」
話しかけた女性は、斑のある金色の髪の両サイドを編み込んで、後ろで一つに束ねていた。彼女は長いローブを羽織っていたが、その下に覗いている服が、城で支給される侍女の制服だ。
「私はシスラと申します。姫様、えっとベラ様の侍女をしているのですが……実は、お話ししておきたいことがございまして」
「その前に、どうして私がヴェーダだと?」
「あ、さきほど第三兵舎を尋ねたところ、兵舎の門番の方が「リー・ルゥー」とともに出てくる金髪で緑色の髪の男がその人だとおっしゃったので」
バート爺さんだな。
イェンスはある特定の人物を思い浮かべた。
もう七十近い老人だが、かなり元気で、詮索好きかつ記憶力が異常に良い。イェンスが武器を調整する期間もばっちり覚えているのだった。
「その服を着ているということは、お仕事ですか? それもベラ絡みの?」
「はい。あ、いえ……姫様ではなく、オーガスタさんという姫様付きの主任侍女から申し付かってきたのですが」
「どうされましたか?」
「実は……」
侍女シスラは、約一週間前の王宮での出来事を語って見せた。
つまりベラとパーシバルが”運命の人”という単語ですれ違いを起こしたという話だった。
イェンスとしては、ベラがイェンスをルジェーナの運命の人だと断言したことが驚きだったが、シスラとしてはそこは大して重要な部分ではない。
それがイェンスにもわかっていたので、シスラを安心させるべく、大きくうなずいて言った。
「なるほど。それで、もしセネヴィル少佐がいらしたら、訂正しておけばいいんですね?」
「はい! 姫様はパーシバル様にはそっけなくて、言葉も足りなかったり余計だったり、いつも他人にしてさしあげているような自然な気遣いが全くできないのです。どうしてだと思われますか?」
「ど、どうしてと言われても……」
シスラの勢いに気おされて、イェンスは思わず一歩下がった。
「もちろん姫様がパーシバル様を気にかけていらっしゃるからです!」
シスラは全く持ってイェンスの意見など必要としていなかった。イェンスはその断言を聞いて、やはりそうかと思ったが、自分は何も言うまいと口を閉ざす。
「パーシバル様も姫様にぞっこんですよ。でも、パーシバル様も素直になれない上に鈍くていらっしゃるから……」
「鈍い?」
「ああ、もちろん姫様も十二分に鈍いんでしょうね。パーシバル様の好意に気づけないから、あんなにひねくれた態度をとってしまわれるんです。でもパーシバル様だって、運命の人と言われたら、誰にとっての運命の人か突き詰めるくらいの根性が必要だと思われませんか?」
話を聞く限りでは、明らかにベラの言い方に問題があったようだったが、イェンスはそれを指摘することはしなかった。女の話しに水を差すのは、火に油を注ぐぐらい危険な行為だ。
「まあ、それはいいです。それよりも、肝心なことはヴェーダ大尉のお気持ちなんです」
「私の気持ち?」
「万が一、姫様に好意を抱いていらっしゃるようでしたら――」
「――それはあり得ませんのでご心配なく」
イェンスとしては、この侍女に余計な心配をかけまいと思って即座に否定したのだったが、それはそれでシスラの気に障ったようだった。
「まあ、どうしてですか? 姫様は確かにおしとやかさは足りませんし、無茶で気まぐれなところもありますけれど、噂とはちがって非常に有能な方ですし、気遣いもできます!」
連射式小型銃を以てためらいなく狙撃できる女は、おしとやかさが足りない、というより皆無である。それに、どことなく支えどころのつかめない彼女は、少なくともイェンスの恋愛対象にはならない。
しかしそんなことを正直にシスラに言えるはずもない。相手は一応王女だ。
「美しく有能な方ではありますが、私には高嶺の花。届かない人に恋をするほど、情熱的ではないんですよ」
だからこんな風にもっともらしいことを言えば――
「それなら納得です。確かにそうですよね! それにパーシバル様がいらっしゃいますもの」
――シスラも納得した。
「では、私は戻ります。押しかけて申し訳ありませんでした」
「いえ。お気になさらず」
その優雅かつ完璧な礼は、王女付きの侍女として働いているだけある。シスラが王城の方へ戻っていくのを見届けながら、イェンスはもう一度ベラの発言を反芻した。
「運命か……。何を根拠に言ってるんだか」
その言葉を重く受け止めたパーシバルとは対照的に、イェンスはあまり本気にはしなかったのだった。
一方、ルッテンベルク街の大通りから外れた路地にある、一軒の香水屋。そこでは店の店主が淡い紫色の髪を一つに束ねて、店の掃除にいそしんでいた。
そこには当然のようにこの国の第三王女もいた。髪の染料が多少落ちて、地の銀髪が見え始めている小麦色の髪をきれいに結い上げている。混じりけのない銀色の髪は珍しく、身元が判明しやすい。そのため本当はもっと気を使って染めるべきなのだが、ベラという女は、そういうところはかなり適当だった。
「けっこうきれいになったわね」
「ありがとう。ベラも掃除が上手くなったね。本当は必要ない技術だと思うけど」
ルジェーナはそういうと、バケツに雑巾を浸して、それを思い切り絞った。そしてそのあとに丁寧にカウンターを吹いていく。
ベラは自分が使っていた雑巾をバケツに放り込むと、それをカウンターの向こう側にある台所へもっていった。そして流しに水を捨てると、裏口に出る。そして共同井戸にバケツを置き、ポンプを持ち上げて押して、持ち上げて押しての作業を何度か繰り返す。すると水があふれてきて、バケツに清潔な水がたまった。
本当は飲める上水道を掃除に使う必要はないのだが、水路の水はやはり清潔とはいいがたいので、ベラはこちらを使うことにしていた。
ベラがそのバケツの水をもって戻ると、ちょうどルジェーナがカウンターを拭き終えたところだった。
「店の掃除はもういいかな。あとは他の部屋をやるから、バケツはそこに置いておいて」
「わかった」
ベラはバケツを台所のすみにおくと、ゆっていた髪を一気にほどいた。ルジェーナはバケツに手を入れて洗ったあと、汚れた雑巾をそのバケツの中に放り込んだ。そして彼女もまたゆっていた髪をほどく。
「お茶にでもする?」
「いいわね!」
二人がそう言って盛り上がった瞬間、扉がきしむ音とともに誰かが店内に入ってきた。
ルジェーナは慌ててカウンターに出て、そしてその来客が分かった瞬間、しまったという顔をした。
「あなた……シルヴィア?」
蜂蜜色の髪が印象的な女性は、絹をふんだんに使用したワンピースに、茶色の革靴、そして手首には宝石のあしらわれたブレスレットをしていた。
前回この店に来てベラとやりあった時よりは、かなり落ち着いた声色で話し始めた。
「この前の彼女は店主じゃなかったのね」
「ええ。その通りよ」
台所側から現れたベラは、カウンターで立ち尽くすルジェーナの隣に立った。
「私、あなたのことを誤解していたみたいだわ」
「高飛車で金でなんでも解決できると思っている馬鹿な女? 間違ってないわ。私はどうしてもこの店の香水を手に入れたかったしね。それが祟って、誘拐される羽目になったけど」
「でも、あなたはタチアナをかばったと聞いてるわ。自分に関係ないからと言って、解放させたんでしょう?」
「そりゃあ、自分のせいで無関係の女の子が誘拐されて傷物になったら寝覚めが悪いもの。あの子から香水をとりあげることに抵抗感はなかったけど。むしろそれは今でも残念だわ。いくらでも出してあげたのに」
「あなたねえ……」
「しょうがないでしょ。私はこんなものよ。昔からね」
スカーレットは自嘲気味にそういうと、数歩歩いてルジェーナに近づいた。コツコツと小気味よい革靴の音が店の中に響いた。店の中は奇妙なほど静かで、砂時計の砂が落ちる音が聞こえてくるのではと錯覚させられるほどだ。
「私に会いたくなかったって顔してるわ。私はどうしても会いたかったのに。私のお気に入りの香水を、あなたなら再現できるんじゃないかと思って。持ってきたのよ」
二人が知り合いだということは聞かされていたベラだったが、どういう関係なのかは全く知らない。そのためかすか好奇心もあって、この場は黙っていることにした。
そのかわり、そっと端によって、カウンターに置いてあった砂時計を意味もなくひっくり返してみた。
「スカーレットは……知ってるんだよね?」
「ミル大佐の事件のこと? 知ってるけれど、私はあなたのお母様の無実を信じてるわ。だからこそ、あなたを探していたのよ」
彼女はそう言いながら、大きめの古い瓶をカウンターの上に置いた。
「私はルジェーナとしてここに住んでる。そしていくつか、追い求めているモノがあるの。それはシルヴィアだとバレると、すごく探しにくくなるものなの」
「わかったわルジェーナ。あなたと私は誘拐事件をきっかけに知り合った。それ以上でもそれ以下でもない」
冷静に話しているのを聞いていると、スカーレット・イーグルトンという女が、思っていたよりも物わかりのよい人物だということがベラにもわかった。
「でも、この香水と同じものを作ってほしいと頼むのは、かまわないでしょう? ルッテンベルクで一番評判の良い店だったから、あなたの店かもしれないと思ったの。あなたは絶対に調香師になると思ったから」
「その香水に似たものを作ることはできるけど、同じものになるかは保障できないよ?」
「知ってるわ。作り手が違えば、違うものになるんですもの。でも、これは……ユリアさんが唯一作ったあの香水に、とても香りが似ているの」
おもむろに、スカーレットは自分が持ってきた瓶のふたを開けた。そしてそれをカウンターに置き、ルジェーナのほうへと押しやる。
ルジェーナは何も言わずにそれを受け取ると、瓶の口のところで手を仰いで香りを確かめる。
「……確かに、お母さんの香水と、似てるかも」
「でしょう? やる気になってくれた?」
「これはしばらく預かってていいの?」
「もちろん。そのために持ってきたのだから」
「じゃあ、やってみる」
「よろしくね。どのくらいかかりそう?」
「三週間頂戴」
「わかった。じゃ、また来るわ」
ふとベラが入り口に視線をやると、大きな影が二つほどあった。さすがに誘拐されたことに懲りて、護衛を連れてきたのだろう。
スカーレットはこの前のあわただしい様子とは全く違った様子で扉に向かった。しかし何を思ったか、扉の前でくるりと向きを変え、なぜかルジェーナではなく、ベラをまっすぐに見据えた。
「私、最初はあなたのこと大嫌いだと思ったわ」
どこかで聞いたことのあるようなセリフだ。正確には、最近、ベラが似たようなことを口にした。
「シルヴィアの店かと期待したら違う人だし、私には香りの価値がわからないなんて言うし」
「ま、まあねえ……」
理由は特に説明されず、ルジェーナに追い払ってほしいと頼まれたのだから、あの場ではああいうしかなかったのだ。
それはルジェーナも負い目に感じているらしく、気まずげに視線をそらした。
「でも……あなたも救出劇に一躍買ってくれたそうね。正直、誰も助けてはくれないとあきらめていたの。だから……ありがとう」
彼女の白い肌がばら色に染まっている。めったに礼を言うことのないスカーレットは、気恥ずかしさで体が沸騰しそうだった。
「へえ、お礼も言えるんじゃない」
「きっと二度と言わないから!」
「そう。それでもかまわないわ。最初で最後の感謝は、今確かに受け取ったから」
「っ……! さ、さよなら」
スカーレットが勢いよく扉を開けると、いつもより激しく扉がきしんだ。
「またね」
「じゃあまた」
ルジェーナは笑顔でそういい、ベラは口の端を釣り上げて、一言ぽつりとそう言った。
スカーレットが去ると、店内は再び二人だけになった。さきほど気まぐれにベラがひっくり返した砂時計は、すでに砂が落ちきっていた。
「結局、シルヴィアだとばれたくないから、スカーレットに会いたくなかったの?」
「うん。彼女が入ってくる前から、香りで彼女だってわかったから、つい……ね」
棚に並んだ香料。そしてカウンターにある一つの香水瓶。その二つを見比べて、ルジェーナはふと真剣な顔つきになった。
ベラは調香師としての顔になったルジェーナを見つめると、そっと隣に並んだ。この顔になったときは何を話しかけても聞いてはくれない。
スカーレットとの出会いの話に興味はあったが、ベラは聞くのをあきらめ、もう一度砂時計をひっくり返した。
「こうやって戻せればいいのに……」
さらさらと落ちていく砂を見つめながら、ベラはそうつぶやいたのだった。