図書館にて
ヴェルテードの王城内にある、王立軍図書館。図書館と呼ばれているが、その資料のほとんどは、軍人及び王族しか閲覧することはできない、機密資料だった。
しかも、軍の所属や階級によって閲覧できる領域が変動する。
金髪の青年イェンスは、その緑色の目をぐっと細めて、棚の文字を辿った。
「ミル大佐……どうしてこの欄にないんだ? ああ、そうか……ファーストネームで並んでるんだな」
イェンスが探していた資料は、警察部隊の事件記録である。何故か時系列ではなく、被害者の名前で並べられているため、非常に分かりにくい。
「何をお探しかな? ヴェーダ大尉?」
ぽんと肩に手を乗せられて振り向くと、そこにいたのは見知った女性だった。
「ミーナ、いや、ハーシェル少尉。久しぶりだな」
「ミーナでいいよ、イェンス」
イェンスと時同じくして軍に入隊した彼女は、士官学校からの付き合いである。
短い肩までの髪をしていて、顔立ちは愛嬌はあるが、よくも悪くも平均的な顔をしたミーナは、諜報部隊に所属している。
「あなたが図書館にいて、ジュールがいないのはなんだか変な感じ」
「もう卒業してそれなりに経ってるぞ。それなのにまだ付き合ってないんだな、お前たち」
「うるさいなぁ! もう! あの鈍感男のせいなんだからっ」
「おいおい、声がでかい」
静かな図書館で叫んだミーナを、イェンスは慌てて止めた。しかし時すでに遅く、周囲から冷たい視線を浴びた。ミーナもはっとして口を押さえると、小さな声で言った。
「それで、何を探してるの?」
「ミル大佐の事件記録を見たいんだ」
「ミル大佐? ああ、盾の家のね。アルナウト・ミルだから……これだよ」
イェンスが思い出せなかったファーストネームをさらりと言うと、ミーナはすぐにその資料を見つけて、イェンスに差し出した。
「ありがとう」
「いいえ。でも、どうしたの? ヴェーダ家で何か言われた?」
ヴェーダ家では、ミル家について確かに話題に上る。イェンスの父である現当主が、ミル大佐のことを永遠のライバルだと思っており、彼の考え方を否定しながらも、彼の能力については認めているのだった。そしてヴェーダ家の当主は、表だってはいわないが、ミル大佐を殺したのがミル夫人だとは思っていないのだ。
イェンスもそういう空気を肌で感じ取っているからこそ、ルジェーナの反応を見たときに、もう一度ミル大佐について調べてみようという気になったのである。
「いや、そうじゃない。個人的なことだ。ヴェーダ家とは違う方法で、陛下を守り続けたミル家について、知りたくなったんだ」
「なるほどね。私はミル家より、次の国王陛下が誰になるかの方が気になるけどなぁ」
「……指名されそうなのか?」
ヴェルテード王国では、王の子供には、男女問わずに継承権がある。そしてその継承順位は王の独断で決めることができ、出生順ではない。
いつどのタイミングで次期国王を発表するかも国王次第のため、王位を狙う者や、次期国王にすり寄りたい者にとっては非常に大事なことだった。
「なんとなく、動きがあるわ。もちろん有望なのは第一王子のリシャルト殿下だけれど……」
「けれど?」
「殿下の周りが騒がしくてね。ちょっと困ったことになってるわ」
「つまり、王位を狙う誰かがいるってことだな?」
「そうそう。どうしても、指名の直前は王宮は不安定になるのよね。とはいっても、目下、次期国王になる可能性があるのは、第一王子か第二王子でしょうけれど」
「王女の可能性はない、と?」
イェンスの脳裏には、赤い瞳と口紅の似合う美女の姿があった。
彼女はかなり破天荒だが、非常に頭の切れはいいし、何事もそつなくこなせるタイプである。
ところが、ミーナは笑って首を振った。
「ないわ。だって第一、二王女はもう嫁いでしまっているし、第三王女は……問題児だからねえ。家庭教師がみんな匙をなげる位だって聞くし、よほどできが悪いんじゃないかしら。同じ妃から生まれた第一王子は優秀なのにね。おかわいそうに。だからきっと引きこもって、公の場には姿をあらわさないのよ。比べられるのがいやで」
「そ、そうなのか……」
イェンスは、父親から、ヴェーダ家が忠誠を誓うのは国王陛下であり、それ以外の王族に対しては平等に接するようにといわれ続けてきた。
そのため、王宮での王族の噂というものにはあまり詳しくなかったのだ。
ベラ本人を知っているイェンスとしては、彼女ができが悪いとはとうてい思えなかった。むしろ非常に有能で、あの大胆ささえもう少し押さえられれば、王として立つこともできると感じていた。
しかしそういう噂が流れるということは、ベラはうまく立ち回って、周りを欺き続けているということだ。そのためイェンスはミーナの言葉を否定せず、適当に流しておいた。
「それにしてもミル大佐かぁ……彼がすごい有能な軍人だったっていうのは、会ったことがなくてもひしひしと感じる」
「ミル大佐は、諜報部隊だったのか?」
「うん。彼の作った資料は本当に素晴らしいの。彼のおかげで諜報部隊の報告書は統一されて、とても見やすく分かりやすくなったわ」
「ミル大佐は六年前に亡くなってるのに、なんでお前が知ってるんだ?」
「だって、ミル大佐が報告書を製作する前と後では、全然違うんだよ。過去の資料を初めて見たとき、思わず指導係の人に聞いたもん。そしたらみんな口を揃えて、ミル大佐のおかげって言うの」
「つまり……ミル大佐は恨まれるような人物ではなかったんだな?」
「ないない。あ、でも……奥様は違ったみたいだけど。どうしてなんだろ? 有名なおしどり夫婦だったから、みんなびっくりしたって言ってた」
イェンスはミーナの言葉を聞き、手元にある資料を開いた。
被害者の名前に、アルナウト・ミル。
加害者の名前に、ユリア・ヴァン・ミル。
そして、加害者には死刑が課されている。執行されたことは書いてあるが、何故か執行の日付はない。
アルナウト・ミル、つまりミル大佐の死因は悪魔の滴。混入経緯は不明だが、ミル大佐が持たされていた頭痛薬と混ざっていたことで判明。
頭痛薬を飲もうとして、悪魔の滴を摂取し死亡したとされている。ミル大佐が倒れたことで、そばにあったテーブルのグラスが同時に破損し中身がこぼれたため、彼が最後に飲んだものが何かは不明。
夫人も動機については語らず、その欄も不明になっている。
「漏れがありすぎる……」
資料をめくりながら、イェンスは険しい顔をして呟いた。
警察部隊が記入すべき事項を、この書類は明らかに満たしていなかった。それに、死刑に処せられるならなおさら、確たる証拠が必要で、資料も豊富にあってしかるべきである。
「大丈夫? 険しい顔してるけど」
「……」
イェンスは口を開きかけて、しかし沈黙を通した。この件は不穏な匂いがする。
ルジェーナのような超人的嗅覚もなければ、ベラのような鋭敏な聴覚もない。しかしイェンスは、比較的、勘は良い方だった。特に嫌な予感がした時は、たいていあたる。
すると、黙っているイェンスを見て、ミーナはため息をついた。
「なるほど。話したくないのね。嘘はつけないけど、そうなるとイェンスは黙るんだよね。まあいいや。私は関わらないでいてあげる」
ミーナはそう言うとひらひらと手を振ってそこから立ち去りかけた。
「……それがいい。ジュールにもよろしくな。勢いで告白してもいいぞ」
ミーナは立ち止まり、くるりときびすを返すと、イェンスの目と目の間に人差し指をつきつけて言った。
「それができれば苦労しないのよ!」
再び叫んだミーナは、今度は自分がとがめられる前にそそくさとその場を立ち去った。