運命の人
ヴェルテード王国。その王都の中心にあるのは、王城である。王宮を内包した一つの街を王城と呼び、王宮には王家に名を連ねる者が住んでいる。その城内に入るためには五つの跳ね橋があり、夕方の六時になると一斉にそれは閉ざされる。
さて、今は夜の九時。
城内にいる人間は、城内に住んでいる者か、警備担当の軍人か、そのどちらかだ。
王宮の南にある一室に住む、一人の王女は、自分の部屋のソファでくつろぎながら本を読んでいた。王宮には電気が通っているため、彼女の部屋は夜でも非常に明るい。
「悪魔の滴……か」
王女イザベラ・エノテラ・ヴェルテードは、分厚い薬の専門書を読み込んでいた。彼女はその埃っぽいページをめくりながら、昨日起こった事件について考える。
「イザベラ殿下。セネヴィル少佐がお越しです」
侍女の一人がそう告げた。
「パーシバルが? この時間に? 珍しいわね……応接間に通して」
ベラはそう言いながら本を置くと、自分も立ち上がって応接間へと向かう。間に部屋を二つ通り抜けてたどり着くと、部屋の中央に置かれているクッションのきいたソファに座った。
すると、応接間に黒髪の青年が姿を現した。彼が着ている深い藍色の軍服には、襟に金糸で模様が縫い取られている。そのしわ一つない軍服を完璧に着こなしている青年は、ベラの座っているソファの向かい側のソファの後ろに立って止まった。
「いつも言ってるけど、座りなさいよ」
「いいえ。私はここで」
パーシバルは背筋を伸ばしてまっすぐに立ったまま、そう言った。
「あんたみたいなでかい男に立たれると迷惑だって言ってるのに。いつからこうなったんだか……」
ベラはあきれた口調でそういうと、右足を上にして足を組んだ。
「近衛としてお仕えし始めた時からですよ」
「答えてくれなくても知ってるわ。あなたが敬語を使い始めたのもそう」
「軍人として、節度と規律は守るべきものですから」
「節度と規律を守る軍人が、こんな時間に何の要件なわけ?」
ベラは辛辣な口調でそういうと、鋭い視線をパーシバルに投げかけた。その視線があまりに鋭かったので、壁際に立っていた侍女は少しだけ身をすくめた。
「申し訳ありません。報告書に追われていたもので、来る時間が遅くなってしまったのです」
「報告書?」
パーシバルは壁際に控える侍女三人のほうをちらりと見た。
するとベラは大きくため息をついて、三人に下がるように指示を出す。すると侍女達はそろって一礼したあと、静かに隣の部屋へと移動して行った。
「これでいい?」
「ええ。……さて、殿下が無許可で連射式小型銃を取り扱われたもので、詳細な報告書が必要でした」
「あら、そうなの。ご苦労様」
パーシバルの嫌味を左から右に流して、ベラは澄ました顔でそう言った。
「また、民間人が誘拐された事件ですが、誘拐犯たちは十人全員死亡しました」
ベラが殺したのは二人、自殺したのは四人であり、あの場には三人の生存者がいた。しかしその三名の生存者は、ベラの使用した武器の存在を知った時点で、死んでいたに等しい。
しかしそうなると合計は九人で計算が合わない。
「十人……? ああ。あの場にいなかった一人は、あなたが殺したのね?」
「はい。仕掛けを作動させて入り口を閉じられる前に。見つからないように死体は隠しておきましたので、おそらくヴェーダ大尉もルジェーナ嬢も気づいてはいないかと。回収はもちろん済ませてあります」
「……ならいいわ。それで?」
「これは私の推測ですが、私が出くわした男がタチアナ嬢をあの建物の中に放り込んだのだと思われます。タチアナ嬢の証言によりますと、スカーレット嬢がこの子から香水を取り上げようとしただけで、この子には何の価値もないと言ったのだとか。そのおかげで彼女を解放する気になったのでしょう」
「それで香水だけはあの誘拐犯が持ってたわけね。売り払えば金になると思ったんだわ」
「そうですね」
「でもあれがなければ、私たちは追うことができなかったんだから、感謝すべきかしら」
ベラはソファの背もたれにもたれかかり天井を仰ぐ。
天井からつりさげられたシャンデリアはきらきらと輝く。その光は昔と違って蝋燭ではなく電球だが、こちらほうが明るくてきれいだ。
「スカーレット嬢の誘拐を命じたほうの男たちの正体はつかめていません」
「つかませてくれないように訓練されていたわ。あの男たちは、ただのゴロツキじゃない。それに軍上層部あるいは王家の差し金だと考えたほうがいいわ」
「どうしてそう思われますか?」
「武器よ。私が使ったものに対して、平然としていたわ」
「ですが狙撃された側には、連射式小型銃とライフルの差はわからないかと。まさか姿を現して撃ったわけではないのでしょう?」
「ライフルだって、一般庶民は見たことも聞いたこともないレベルよ。軍人だとしても、半分は触れたことすらないんだから」
「どうしてスカーレット嬢が狙われたのか、心当たりでも?」
「あるけど、ない。正直に言って、あんなにあからさまにお金持ちですってかっこうをされたら、誘拐されてもしょうがないって思うもの」
今回の事件には不明点が多すぎる。
そう、まるでミル大佐の事件のように。
ベラは小麦色に染めた髪をくるくると手でもてあそび、体を起こしてソファに施された刺繍をただぼんやりと眺めた。
「イザベラ殿下」
パーシバルのアーモンド型の目がまっすぐとベラを捉えた。その真剣なまなざしは美しく、ベラはしばし見惚れていたが、口からついたのはそっけない言葉。
「なに? また嫌味?」
「ご自分がどれだけ危ないことをなさったかお分かりですか? あの状況で近衛である私を撒くなど……」
「撒かれるあなたが悪いのよ。それに嘘をつくのも悪い」
「嘘だったとお分かりだったんでしょう?」
「あんなに下手な嘘じゃわかるわ。私がどれだけ、あなたを……」
私がどれだけ、あなたを見ているか。
勢いづいて、自分が言おうとしている言葉の意味を理解したベラは、言おうとした言葉を引っ込めて、無難そうな言葉を探した。
「どれだけ、あなたを……?」
奇妙なところで切ったベラに、パーシバルは思わず問い返した。
「どれだけあなたの下手の嘘を見てきたか」
「……そんなに嘘をついた覚えはありませんが」
「そうだったかしら?」
ベラはパーシバルから視線をそらすと、部屋にある家具に目を止めた。視線の先にあるのは特筆すべき珍しいものでもないが、何かをごまかすときは目を見ないに限る。
「では、殿下」
「……なに?」
「イザベラ殿下が殺したのは二人ではなく、四人だという自覚はございますか?」
「……そうね。私が銃を使わなければ、誘拐犯四人の命は助かったに違いないわ。口封じのために殺す必要はないもの。誘拐の罪は重くとも、被害者が生きていた以上、死罪になるほどのものでもない」
「それならば――」
「――でもね、あの場でもし銃を使わなければ、ルジェーナとイェンスは助からなかったわ。私は大切なものを守っただけ。違う? そもそも私に銃を使わせたくなかったのなら、あなたは嘘をつくべきでなかったわ」
ベラはイライラを隠さずにそういうと、落ち着かないためにソファから立ち上がった。
「そうですね。私が嘘をつかずに一緒に捕縛に立ち会っていれば、殿下は銃を使用することもなかったかもしれません。自殺したあの四人はともかく、それ以外の人間は生きて罪を償わせることができたかもしれません。すべて私、パーシバル・セネヴィルが悪い。そうおっしゃられるのですね?」
パーシバルは恐ろしく早口だったが、まったく抑揚がなく淡々とした口調だ。その中にはまったく感情が見えず、ただ決められた台本を棒読みしているかのようだった。
「あなたはいつだって正しい」
ベラは燃え盛る炎のような赤い目をまっすぐにパーシバルに向けて言った。
「正しくて、皮肉屋だわ。私が悪いのよ。知ってるわ。私が無暗に銃を使用したから、本来なら死ななくてよかった人間が死んだ! ええ、そうよ! わかってるわ! あの二人を本当に助けたかったなら、あの二人を止めればよかったっていうんでしょう? スカーレットは死んだかもしれないけれど、それならば一人が死ぬだけだものね。ええ、それのがよかったかもしれないわ!」
「……」
「私、あなたのことが嫌い、大嫌いよ。昔も、今も。きっとこれからも……」
囁くように、ベラは言った。パーシバルは無表情だった。ベラの言葉はただの挨拶だったとばかりに、平然としていた。
「あなたが変わらないように、私もきっと変わらない。またルジェーナとイェンスが危機に陥れば、私は他の人間を犠牲にするでしょう。何の躊躇いもなく」
「……一つうかがってもよいですか?」
「何?」
「ルジェーナ嬢はわかりますが……どうしてイェンス・ヴェーダ大尉にそれほど肩入れされるのですか? まだ出会ってから間もないのでしょう?」
ふっと鼻で笑ったベラは、勢いよくソファに座り込んだ。そして今度は左足を上にして組み、腕も組んで言った。
「運命の人だと思ったから」
「……はい?」
「聞こえなかった? 彼は間違いなく運命の人よ」
ベラはどことなく天井の模様を観察していたために、目の前のパーシバルが初めて動揺を見せていることに全く気付いていなかった。
パーシバルの顔面は真っ青で、こぶしは強く握りすぎて白くなっている。
「だって、私は見たことがないもの、あんなに――」
「――急用を思い出しました。失礼します」
ぴしゃりとそういうなり、パーシバルはくるりと踵を返して部屋を出て行った。扉がかなり大きい音を立てて閉まる。
突然パーシバルに出て行かれたベラは、意味が分からずに首をかしげた。しかし、小さく肩をすくめると、声をあげて侍女を呼んだ。
「オーガスタ!」
「はい。いかがなさいましたか?」
イザベラ付きの中でもっとも古参の侍女は、派手な音を立てた扉を一度だけ見て、そして自らの主に視線を戻した。
「……パーシバルが突然帰ったんだけど、心当たりはない?」
「姫様。心当たりは、とおっしゃられましても、私は話を伺っておりませんでしたので、判断いたしかねます」
「話……? 最後に話したのは、イェンスが運命の人だってことぐらい?」
「う、運命の人……ですか?」
オーガスタは驚いて思わず問い返した。後ろでかすかに二人分の黄色い悲鳴が聞こえたような気がしたが、オーガスタはその侍女たちを咎めるまいと思った。もう少し若かったら、自分も悲鳴を上げたい気分だった。
ベラはあろうことか、婚約者候補の一人に向かって、運命の相手を見つけたと言ったのだ。それにオーガスタからすれば、パーシバルがベラに並々ならぬ愛情を抱いているのは明白だった。王女という立場上、何があるかわからないゆえに婚約者候補とされているが、実質、彼がイザベラの婚約者だと誰もが思っている。
「ええ。だって見たことのないもの。あんなにすぐに打ち解けているルジェーナを」
「……?」
オーガスタには話がまったく見えなくなっていた。
もはや姿を隠そうともしていない、若い侍女二人も、意味が分からないという顔をして、入り口付近で固まっていた。
「出会って二回目だったのに、とても親しげだったの。あの子は案外、警戒心が強いから、誰にでも彼にでもあんな風に心を開いたりしないわ。でも、イェンスにはまるで違ったし……どことなく、イェンスだってルジェーナを気に入ってるんじゃないかって思うの。それに、昨日なんか愛称で呼んでたもの!」
「あの……もしかして……」
「ん?」
「イェンス様の運命のお相手は……ルジェーナ様ですか?」
「そうね。厳密にいえば、ルジェーナの運命の相手がイェンスだけど」
オーガスタは一度息を吐き、ゆっくりと丁重に言う。
「パーシバル様にもはっきりとおっしゃったんですか?」
「はっきりと? ええもちろん。だってパーシバルがどうしてイェンスに肩入れするか、なんて聞くんだもの。だから言ったのよ。彼が運命の人だから、ってね」
「いえ、そういう意味ではなくてですね……」
「ああ、でももしかしたら、大嫌い、って言ったのに腹が立ったのかもしれないわね」
「またそんなことをおっしゃったんですか!」
「でもそんなのいつだって言ってるのに。今更怒ることないじゃない」
「姫様。もう少しお言葉を選んでくださいませ。肝心なところには言葉が足りず、余計なところで足しすぎなのですよ! パーシバル様は、きっとイェンス様が、イザベラ様、あなたにとっての運命の人だと言ったのだと勘違いなさったに違いありません!」
「イェンスが私の運命の相手? そんな風に勘違いさせるようなことを言った? そもそも最後まで話を聞かなかったパーシバルが悪いのよ」
オーガスタは呆れて一瞬言葉を失っていた。
はい、言いました。話を盗み聞きしていた侍女たちは、みんなそう思った。しかし誰もそうやってベラに言えるものはいない。
ベラはパーシバルを相手にすると、急に精神年齢が幼くなるのだった。
「それに……もし勘違いしたとして、それでどうして怒るの? うまくいけば、私のお守りから解放されるわ。婚約話だって立ち消えるかもしれないし」
オーガスタはベラの根本的な勘違いを正そうか悩んだ。正確には、こういう議論になるたびに、いつも悩んでいた。
しかしいつでも彼女はそうすることができずに、ただこう言うのだ。
「パーシバル様に直接お聞きになってください」
これでベラが直接尋ねた試しはないのだが、だからといって侍女の分際で勝手にパーシバル本人に弁解にいくわけにもいかない。パーシバルもセネヴィル侯爵家の長男というだけあって、一侍女がおいそれと話しかけられるような人物ではないのだ。
かといってベラに、パーシバルの気持ちを話したところで、それを信じるとはオーガスタには思えなかった。
「パーシバルって、難しい」
それは向こうも同じことを思っていらっしゃいますよ。
オーガスタはそう思ったが、もちろん口にはしなかった。