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上条家の長女はサボりました



(何あれ何あれ何あれ…)


 生まれて初めて通学路を一度たりとも立ち止まることなく走り抜けるという快挙を成し遂げた私は、心臓が痛いほど早く脈打つ感触と切れた息を必死に整えながら、しかし自分の教室とは逆方向の廊下を真っ直ぐ進んでいた。


(信じられない…何あれ怖い)


 校舎内に響き渡る始業のベルを聞きながら、目的の場所へ着いた私は思い切りそのドアを開け放ち、中に滑り込むと瞬時に閉めた。


「うおっ!何だ!?…ん?篠原?え、どした?」


 そこには、部屋の真ん中に置かれた重厚な革張りのソファーで堂々と寝転がる一人の男性教諭がいた。彼は突然現れた私に驚いたのか、ひどく間抜けな顔で私を凝視した。

 そこは、一部の選ばれた生徒にしか入ることのできない特別な部屋――生徒会室だった。


「ゆ、湯川せんせい…」

「ど、どうした篠原?…おい、お前顔が真っ青だぞ?大丈夫か?気分悪いのか?」


 見慣れた顔を見たせいで気が緩んだのか、私の口からは情けない声が転がるように零れ落ちた。破裂しそうな心臓はまだドクドクと激しく脈打ち、米神もそれに追随してズキズキと痛みを訴える。全力疾走した体はしかし氷水を被ったかのように冷え切っており、切れた息もそう簡単に元に戻ってはくれなかった。

 そんな私の様子にさすがに異常を察したのか、湯川先生はソファーから立ち上がると私の目の前までやってきた。すらりと高い背を屈めて、先生は私の顔を覗き込むようにした。


「おい、大丈夫か?何でお前、そんなに息切らして…」

「せんせい…なんでここにいるんですか…」

「え、俺の心配は無視?何でってお前………言わせるなよ」

「……(さぼりか)」


 何故か照れるように視線を逸らせる生徒会顧問に、少しずつ平静を取り戻してきた私は彼がここにいる理由を察して納得した。おそらく教員同士の朝礼が終わった後、ここで自分の担当時間(数学)が来るまで時間を潰そうとでも思っていたのだろう。彼とは今年から生徒会の顧問と書記して関わりを持つことになったが、その人となりについては二週間と経たずに嫌が応にも理解せざるを得なかった。


「そ、それより!今はお前のことだろ。ここまで走ってきたのか?」


 私にさぼりを気づかれたのが恥ずかしかったのか、精一杯話を逸らそうと尋ねてきた先生の言葉に、私は先ほどまでの青年とのやり取りを思い出し、ぶるりと肩を震わせた。


(あの人たち…一体何だったんだろう…)


 彼らは私を「兄のため」にどこかへ連れていきたがっていた。けれど私にはその「兄」が誰なのか知らない。そんな他人以上に他人な兄のために、わざわざ私を待ち伏せて、話しかけて、しかも同意を得られると思ったのか、私の拒絶にびっくりするほど驚いていた。


(意味、分かんない…)


「篠原?」


 すぐ目の前で湯川先生が心配そうに私の目を覗き込んでいる。いつもは何を考えているか分からない人だが、今だけは普通のどこにでもいる優しい学校の先生のようだった。


「…なんでも、ないです。すみません、せっかくサボっている所を邪魔してしまって…」

「うん…それについては是非とも内密に…って、違うだろ。明らかに何でもなくないだろ」


 米神から頬へ伝う冷や汗の多さに気付いたのか、湯川先生は私の顔を包み込むように両手を添え、そっと親指で汗を拭ってくれた。


「こんなに汗かいちまって…変な奴らにでも絡まれたか?」


じっと見つめてくるその琥珀の目は珍しく真摯で、この人もちゃんと教師なんだなと場違いにも感心してしまった。


「…そんな感じです。特に危害を加えられたわけではないのですが…少し、その…驚いてしまって…」

「何に驚かされたのかを是非とも聞き出したい所だが…他の生徒への多発性の可能性はあるのか?」

「…ない、と思います。わたしを、知っていたみたいなので…」


 もちろんんこれは、彼らが当てずっぽうで『上条春愁』を探していない限り、だが。


「心当たりはあるのか?」

「…ありませんが、あります」

「曖昧だな、お前にしては珍しく歯切れが悪い」


 自分でも分かっているが、けれど何て説明したらいいのか分からない。そもそも私自身まだ何が起きたのかはっきりと理解し切れていないものを、どうやって説明したらいいというのか。

 どうやら私には生き別れの兄がいて、それでその兄の友人と名乗る男の人二人が私を待ち伏せしていて、私をどこかに連れて行こうとしてて、それで驚いて逃げてきましたって?


(そんなの…ドラマや漫画じゃあるまいし…)


 第一、そんなこと話したところで何になるというのか。下手に騒がせて警察沙汰になんかなったら、それこそ義母さんや先生たちに迷惑をかけてしまう。それに、もしあの人たちが本当に兄の知り合いだったら――?


「篠原?」

「あ、はい…いえ、もしかしたら、私の勘違いかもしれませんから…」

「…勘違い」

「はい。なので、先生のサボりを黙認する代わりにこのことは他の先生たちにも言わないでおいてもらえませんか?」

「…お前の、そういうさらっと打算的な所、先生嫌いじゃないよ…けどな、一応教師として生徒の危険を見て見ぬふりはできない。…本当に危ないと思ったら、すぐに言えよ」


 複雑な私の内心を察したのか、深く掘り下げることなく引き下がってくれた先生に、この時ばかりは感謝した。


「はい…ありがとうございます、湯川先生」

「ん。まあ、本当に最近色々と物騒らしいから、お前も気を付けろよ。隣町でも、何かと騒ぎが多いらしいからな」

「そうなんですか…」


 隣町というと、ここから3キロ程離れた夢路川を境にある神夢町のことだろうか。何か騒ぎが起きてるなんて知らなかった。テレビでも見た記憶がないから、おそらく先生同士で何か情報の交換でもあったのだろう。


「そ、おかげで俺らの仕事も二割増しってな。まったく…どこのだれか知らないが、俺の平穏を邪魔しないでほしいね」


 おどけた様子で肩をすくめて見せる湯川先生に、思わず苦笑が漏れる。確かに、この人にとって自分のペースを乱されるということはあまり好ましくないのだろう。


「そうですね…先生がサボれないほどの騒ぎとなると、ただ事ではなさそうですから」

「……あのねぇ、春愁ちゃん…」

「ふふっ、冗談です。…先生、ありがとうございます」


 自然と緊張が解け、強張っていた肩から程よく力が抜けたのが分かる。手先に血の気が戻ったのを確認すると、目の前の不真面目な先生にぺこりと頭を下げた。


「…ん、」


 湯川先生は短くそう頷くと、どこか照れたように頭を掻いてくるりと背を向けた。その背中は思ってたよりも広く逞しそうに見えた。


(…たぶん、また来るんだろうな…あの人たち…)


 湯川先生の背中を見ながら、ふとよぎる確信にも似た予感。

 落ち着いた思考の中で思い返すのは、今朝の義母が言っていた「兄」の存在だった。


(カズ、って言ってたな…)


 上条一樹。カズというのはあだ名か何かだろう。あの人たちは兄(未確定)と同い年くらいだろうか?二十五歳がどんな雰囲気なのか分からないので何とも言えないが、たぶん、湯川先生より少し年下くらいだろうか(湯川先生は今年で二十七と言っていた)。けど、最初に話しかけてきたあの深草色の青年は、どちらかというと私と大して変わらないように見えた。せいぜい、高校生か大学生くらいだろう。もう一人、全身真っ黒だった無口の青年は、成人しているようだったけれど。

 だとすると、いよいよ彼らが「兄(未確定)」の知り合いであるという線が濃厚になってきた。先ほどまではあれほど恐怖しか感じなかったが、冷静になった今となっては、やはり大事にせずに良かったかもしれない。もう少し、様子を見てもいいのかもしれない。


(取り敢えず…今日、家に帰ってからだね…)


 放課後のことを思うと、憂鬱で全身から力が抜けていくようだ。もういっそ、このままここで身を顰めて明日が来るのを待ちたいと思うほどだ。そして、何事もなかったかのように明日を迎えたい。


(…でも、そういうわけにも行かないもんね…)


 どんなに嘆いていても、時間は一刻と過ぎてく。どんなに人間が抗ったところで、その流れは決して変わることはない。分かりきったことではあるが、それでも憂鬱に変わりない。


(…どんな人なんだろう…)


 再びソファーに寝転んだ湯川先生の側に、寄り添うようにして座り込む。今年の春に生徒会書記として任命された後、家から持ち込んだお気に入りのマカロンの形をしたクッションを腕に抱き締め、ぎゅっと目を閉じた。


 こうして私はその日生まれて初めて、自分の意思で授業をサボったのだった。




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