上条家の長女と遭遇
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい。寄り道せずに帰ってくるのよ」
「…はーい」
正直返事を返したくない思いでいっぱいだったが、学校には行かねばならない。 朝から重たくなってしまった足を引きずって、笑顔が眩しい義母さんに見送られながら私は家を出た。
(何で今更、兄さんなんて…)
義母さんは、兄が時々私に会いに来てたと言っていた。けれど私が学校やら剣道の試合やらで不在のことが多く、結果的に会えていないのだと言っていた。
しかし、それは本当だろうか?
そもそも会おうと思って会いに来てるなら、前もって私の予定なり都合なり、聞いてしかるべきだろう。人の家に行くときは、ちゃんと相手にそう伝えることは礼儀であって、当たり前のことだ。それを、まるで突然ふらっとやって来て、私がいないから会えませんでしただなんて…。そんなの、会いたくないと言っているようなものじゃないか?
(…やっぱり、会いたくないな…)
晴れ渡る空とは対照的に、零れ落ちる溜息は灰色だ。いつもと同じ通学路が、なんだか険しい坂道のような気がしてきた。
そうして歩くこと十数分。おおよそいつも通りの時間に、学校へと続く最後の曲がり角をの道を曲がった時のことだった。
二つ目の曲がり角を右に曲がると、突然視界を黒いものが遮った。
「こーんにーちは。上条春愁ちゃんっ」
頭上から降ってきたやたらと底抜けに明るい声に驚いてハッと顔を上げると、そこには深草色のジャケットに身を包んだ大学生くらいの若い男の人が一人、にこにこと満面の笑みを浮かべながら私を見下ろすようにして立っていた。
「…あの、」
どちら様ですか、と尋ねる前に、今度はすぐ後ろに黒の革ジャケットを着た男性が現れた。驚いて、思わず身を固くしてしまう。まさに一歩後退ようとした矢先のことだったので、挟み込まれたのだと気づいた時には全身からサァッと血の気が引く音がした。
庶民的な住宅街の一角で大の大人が二人も、女子中学生を挟み込むようにして立つなんて一体何事だと言うのか。
「突然ごめんねー。実は僕、カズの……」
「…はい?」
誰だよ、カズって。人違いじゃないのか。いやむしろ人違いであってくれ。
そんな私の心の声が聞こえたのか、青年が、あ、と何かに気付いたように首をひねった。
「えーっと、カズっていうのは、君のお兄さんの…」
「……お兄さん?」
「うん、そう、お兄さん。上条一樹って言うんだけどね。僕たちは、えっと、うーんと…君のお兄さんの…………友達?」
こてっと可愛らしく小首を傾げて、困ったようにむぅっと口を尖らせる青年に、思わず「は?」と柄の悪い声で聞き返す。疑問系で聞かれても何が何だかさっぱりな私には答えようもない。というか、そもそも誰なんだこの人たち。
しかも「君のお兄さん」って…どういうことだろうか。
「…あの、すみません。人違いじゃないでしょうか…」
恐る恐るそう尋ねると、青年は「え?」とハトが豆鉄砲を食らったかのようにきょとんと目を丸くした。
「え?あれ、上条春愁ちゃんだよね?合ってるよね?さっき返事したよね?」
「…確かに私の名前は春愁ですが…」
かなり不本意にしぶしぶ頷くと、青年はぱっと嬉しそうに笑った。
「なーんだ、よかった!あーびっくりした。えっと、実はね、オレたち君のお兄さんのために、君をオレ達の屋敷に招待しようと思って来たんだ!」
「……は?」
それはまるで、さも良いことをしに来た!褒めて褒めて!とでもいうかのような、強い確信と善意を秘めた言葉だった。
私は思わず間抜けな声を上げて青年を凝視した。
すると青年はスッと体を横にずらし、自分の後ろに控えていた黒のスポーツカーらしき車を指差して言った。
「お兄さんが待ってるよ。オレたちと一緒に来てくれるよね?」
「え……」
「春愁ちゃんと早く会って話がしてみたいって、お兄さん言ってたよ」
「……」
にこにこにこにこ、何が一体そんなに面白いのか一向に笑顔を崩さない青年に、愛想笑いが大の苦手な私の警戒心が驚くほど急速に成長を遂げる。
ちらりと後ろの男性を見やると、こちらは逆にむっつりと口をへの字に曲げて不機嫌そうにそっぽを向いているではないか。何だ、この対応の差は。
もう一度青年に向き直ると、彼はまだにこにこと笑みを浮かべたまま私を見ていた。
「…あの、私、これから学校に行かなきゃいけないんですが…」
「あ、そのことだったら安心して。学校にはちゃーんとお休みするって連絡入れておくからさ」
「連絡って…貴方がですか?」
「え?あ、うん。取り敢えずそのつもり」
「結構です」
何のためらいもなく平然と答える青年に、きっぱりと断りを入れる。
すると彼は一瞬笑みを無くして驚いた顔で私を見た。
「連絡しなくて結構です。私、行きませんから」
「……」
「私、皆出席狙ってるんです。自慢じゃありませんが私、幼稚園から今まで一度も学校休んだことないんです、今日休んだら折角今まで頑張ってきたのが全部無駄になってしまうんです」
そう一気に捲くし立てて、小さな鈴が付いた鞄をぎゅっと胸に抱く。
青年はまた何かを言おうとしたけど、それより先にぺこりと会釈して私は彼の側を通り過ぎようとした。
「あ、ちょっ、ねぇ待って!」
すると青年が慌てて私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。
引き止められるだろうなと思っていた私は、さっとその手をかわすように身をよじる。
青年は、ますます驚いたような顔をして私を見た。
「上条春愁ちゃん?」
「私、上条なんかじゃありません」
どこかすがるような声で私を呼ぶ青年に、少し恐怖すら覚えた。
得体の知れない男性二人にはさまれて、怖くないなんてあり得ない。
少なくとも、何の前触れも無く現れた見目麗しい男性に突然「お屋敷召喚」なんてされて、怪しいと思わない人なんていないだろう。
第一、私は今まで一度も自分のことを「上条」だと名乗ったことはない。
「兄なんて、知らない。人違いです」
「けど、」
「さよならっ」
まだ何か言おうとする青年にそう言い捨てて、私はその場から走り出した。
その際黒い車の側を通り過ぎたが、また中から人が出てきたら怖いので極力中を見ずに全速力で駆けて行く。
彼らは追ってくる様子を見せなかったが、私は無事に学校に着くまで生きた心地がしなかった。
ただ、その安堵はわずか半日と持たなかったけれども。
春愁が脱兎のごとくその場を立ち去った後、その場に残された青年二人――優斗と昴は、しばらく互いに沈黙したまま立ち尽くしていた。優斗に至っては、春愁へと伸ばされた手を引っ込めることもせずに呆然と固まってしまっている。
やがて小さな溜息とともに、昴が呆れ顔で優斗を睨み付けた。
「…だから言っただろ。下手に動いても、かえって警戒心を煽るだけだってな。見ろ、あんなに怯えきって…可哀想に。……でもまあ、あれが普通の反応ってやつだよな。気づいてたか?あの子、お前のこと変質者でも見るかのような目で見てたぜ」
「言うに事欠いてそれかよっ。自分だけ高みの見物しやがって。つか、んなこといちいち言わなくても分かってるっつーの!だからこんなに落ち込んでるんじゃねぇか」
「自覚済みであの態度か。ますます変態だな」
「だから変態じゃねぇ!そう言う昴こそ、なんだよあのヤクザみたいな態度は。お前の方こそよっぽど堅気じゃねぇよっ。あの子お前に気付いた瞬間絶望的な顔してたぞ」
「お前の目がおかしいんじゃないのか」
「おかしいのはお前の方だろっ。ああもうっカズに何て言えばいいんだよっ」
「さあな。自分で考えろよ」
「だから何でお前はそんなに他人事なんだよっ」
「うるさい、変質者」
「めっちゃむかつくーーーっっ」
閑静な住宅街に、青年の叫びが空しく響き渡った。
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