わたしが死んだ理由
庁舎の中は走ってはいけません、と言われているので、わたしはゆっくりと進んでいきます。
法廷の大扉の上には、守衛をしている牛鬼さんがいました。
牛鬼さんのからだは蜘蛛で、体長は5メートルくらいあります。天井に貼りつくようにして、闖入者がいないか見下ろしていらっしゃいます。その腕は、わたしの銅くらいの太さはありそうです。
「お仕事、お疲れさまです。精がでますね」
牛鬼さんは、頭を前足でボリボリと掻いています。入ってもよい、と言われた気がしたので、わたしはそうっと大扉をひらいて、法廷の中にすべりこみました。
学校の体育館くらいの広さがあります。
二階まで吹き抜けになっている天井には、ため息をつきたくなってしまうような見事な地獄絵図が描かれています。
罪人が、死後むかうという八大地獄です。
「――静粛に」
耳に心地よい男性の声が、法廷内に響きました。
その声につられるように視線をむければ、一番奥の高座に腰かけている男性のおすがたが目に留まります。
見た目は、人間の男性そっくりです。
年の頃も、わたしとそう変わらないでしょう。
作り物めいた端正な顔立ちです。表情も変えずにその場でじっとなさっていると、有名な職人がつくった人形ではないかと見間違えてしまうほどです。
通った鼻筋、しみひとつない珠の肌。海の底のような深い藍色の瞳。
黒い頭髪の上には、閻魔王のあかしである冠があります。
わたしは法廷の中をそろりそろりと移動して、閻魔さまの邪魔をしないようにこっそりと近づきました。
「お待たせして申し訳ありません」
わたしは、ぺこりと頭を下げます。
閻魔さまは、じっとわたしを見つめていらっしゃいます。
「――心配していた。お前に何かあったのでは、と」
「だ、大丈夫ですよ。ご心配をおかけして、すみませんでした。ありがとうございます」
勝手に顔が熱くなるのを感じました。
誤魔化すために、ぽんぽんと自分の頬をかるく叩いてみます。
閻魔さまはわたしの腕をつかんで、引っ張ってしまいました。
長い裾につまづき、わたしは転んでしまいそうになります。
「きゃ……っ」
反射的に体をこわばらせると、思いのほか柔らかいものに受けとめられました。
閻魔さまが無表情で、わたしを抱きとめていらっしゃいます。
とてもお美しいお顔が間近にあります。つい見惚れてしまいそうになり、わたしは頑張って目を逸らしました。
「あの、なにか……?」
わたしは、そうおそるおそる閻魔さまに訊ねました。
しかし、閻魔さまは無言です。
閻魔さまは寡黙で表情も少ないお方なので、何をお考えなのか、民草のわたしには皆目見当もつきません。
閻魔さまは何も言わぬまま、わたしをお膝の上に乗せました。
「えぇ……っ?」
閻魔さまは長身なので、わたしは、すっぽりと抱き込まれてしまいます。
法廷にいる方全員の視線が、わたしに突き刺さっていました。針のむしろとは、こういうことを言うのでしょう。
特に裁判を受けている真っ最中だった死霊さんなんかは、法廷台の上で、ぽかんとした表情でわたしたちを見上げていらっしゃいます。
「え、閻魔さま……」
わたしは途方にくれてしまいました。
なぜ、抱きしめられて膝の上にあげられたのでしょうか。それに、なぜ、そもそも法廷に呼ばれたのかも、わかりません。
衆目をあびることを恥じるわたしへの、戒めなのでしょうか。だって、閻魔さまですし。まさか、地獄におちたわたしに閻魔さまが直々に、こうして罰を?
混乱する思考がとめどなく、ぐるぐると目の前を駆けていくようでした。
すがるように閻魔さまの胸元のあわせを握りしめれば、なぜだか、閻魔さまの雰囲気が和らいだような気がしました。
そのとき、閻魔さまの傍らに立っていらっしゃった赤銅色の髪の青年が、こちらにむかって声をかけてきました。
「閻魔、乙葉ちゃんが困っているだろう。離してやれよ」
わたしは、拝みたいような気持ちになりました。
メイさん、ありがとうございます……っ。
彼は司命という、死者に罪状を告げるお仕事ををなさっています。本名は秘密らしいので、勝手にメイさんと愛称をつけて呼んでいます。
閻魔さまが氷の美貌だとすると、メイさんは砂糖をふりかけたような甘いお顔をなさっています。人好きするような、といえば良いのでしょうか?
「――メイさんと同意見は不服ですが、今回ばかりは賛同します。生前の死者の罪の重さをはかる立場にある閻魔王が、目先の欲にまみれてはいけません。それは裁判における平等性を欠く行為です。すべての罪人に公平たれ、という閻魔王の決まりにも反しています」
そう言ったのは、見た目は5、6歳くらいの青い髪の少年でした。
大人用につくられただろう椅子にがんばって座っていますが、つま先が床にとどいていません。
裁判の記録をする司録という役職の、通称シロくんです。
人間でいうなら天才といってもいいかもしれませんね。シロくんは、とても頭が良いのです。そして、閻魔さまの弟さんでもあります。
「なんだとー、シロのくせに生意気だ」
メイさんは、シロくんの頭をぐりぐりと拳で押さえつけました。
「シロのくせに、というのは理解不能です。なぜなら、司命と司録は地位の上での優劣はありません。ぼくたちに命じることができるのは兄上だけです。言葉と行動をつつしんでください、メイさん」
「はっはっは。日に日に殺してぇ」
メイさんの両手は、シロくんの首にまわされています。
さわやかな笑顔と殺意ある行動が、噛みあっていません。
「兄上、審議の続きを」
シロくんは、メイさんの手をうっとうしげに払いのけ、閻魔さまにそう促しました。
「……すでに、決は出ている」
そう閻魔さまは、おっしゃいます。
急に、その場が水を打ったように静まりました。
風などないはずなのに、壁に設えられた場内の灯火が、いっせいに揺らぎまました。
閻魔さまに見つめられた死霊さんが、おおきく肩を震わせます。
その直後、死霊さんは法廷台の上から飛び降りました。
逃げようとなさったのでしょう。
入り口の扉に向かって走っていこうとなさっているのに、身動きを封じられたようにその場に動かなくなりました。
まるで、見えない誰かの手に押さえつけられてしまったかのようです。
「身体が、動かない……?」
死霊さんは、困惑したような表情で、こちらを――閻魔さまの方を見つめました。
閻魔さまが、ふうっと吐いた吐息が、わたしの首筋を撫でていきます。
わたしは、思わず、身を固まらせてしまいました。
「――聖人にも悪人にも、等しく死は訪れる。死して裁かれることなくば、人は誰しも思うがままに生き、他者に迷惑をかけても、それを顧みることはない。ここは現世ではなく、すでに幽世である。お前は、次の世に生まれ出でるために、地獄で、しばしの時を待つ」
閻魔さまが、裁判のときだけは人が変わったように、たくさん口をひらかれます。
「なぜ、私が地獄になど……っ!」
その男の霊は、閻魔さまを睨みあげて、わめき散らしました。
「ならば、外道を選ぶか?」
メイさんが感情の読めない笑顔でおっしゃいました。
死霊さんは不可解そうな表情をなさいます。
「……げどう?」
「人間には、必ず救いが用意されている。生前の行いによって、天にも地獄にも行くことができる。それは、自ら次の世を選ぶことができるということだ。記憶は失われても、魂は滅ぶことはない。――だが、ひとたび、その輪廻の輪から外れようとすれば、その身は妖怪に転じてしまうだろう。輪廻から外れたものを、『外道』と呼ぶ。死んだらそれまで。死とは消滅だ」
メイさんがおっしゃった言葉に、死霊さんは青くなりました。
彼はその場に崩れ落ちると、誰かの名をつぶやきました。
……恋人か、家族か。生前に親しかった方の名前でしょうか。
メイさんは、なおも、おっしゃいます。
「生きてさえいれば、救いはある。次の世で善行をつめば、また人間道に進むことも、あるいは天道に導かれることもある。――ゆえに、落ちてからどう生きるかは、好きに選ぶが良い」
一瞬だけ、メイさんは閻魔さまに視線を送りました。
閻魔さまが頷きます。
それで理解したのか、メイさんは死霊さんに顔を向けました。
いったい、法廷内でどんな力が働いているのかわかりません。
けれど、閻魔さまとメイさんたちは、会話などしなくても、ここでは意思疎通ができてしまっているようです。
「お前を、等活地獄行きとする」
メイさんがそう言い放った瞬間、閻魔さまの瞳が輝きました。
瞳孔に、紅色の印が浮かびあがります。
卍という漢字を複雑化したような模様です。
煉咒という、閻魔さまが使う力らしいです。
それは一瞬のことで、閻魔さまの瞳からその模様が消えたかと思うと、地響きが法廷内に起こりました。
わたしは思わず、閻魔さまにしがみつきます。
閻魔さまは後ろから、わたしを抱きしめてくださいました。
「……大丈夫だ」
息が、できません。
こんなときだというのに、わたしは……。
――閻魔さまを見ていると、苦しくなるのです。
急に、死霊さんの足元に大きな穴が開きました。
直径三メートルほどでしょうか。
どこまでも続くような、奈落へ通じる暗い門です。
「ひいぃ……っ」
死霊さんは、悲鳴をあげながら落ちていきました。
その穴は死霊さんを吸い込むと、すぐに閉じてしまいました。
まるで何事もなかったかのように、法廷内は静まり返っています。これが閻魔さまの日常なのです。
「……界は閉じた」
閻魔さまは無感動に、そうおっしゃいました。
わたしたちのいるここは、地獄ではありますが、表層の部分です。
閻魔さまのご判断で六道の扉が開き、咎人さんたちは、そこに向かってまっさかさまに落ちていくわけです。
怖いですね。
想像するだけで、ぶるぶると震えてしまいます。
……わたしも、地獄行きが決まっています。
いくら猶予の期間をもらっているとはいえ、いずれは閻魔さまの手で、裁かれる身の上です。
「わたしも……いずれ、地獄に落ちるのですよね」
わたしは、閻魔さまに言ってしまいました。
そんなふうに言ってしまったのは、ほんの少しでも……閻魔さまの心に引っかかってほしい、という、身勝手な気持ちがあったからかもしれません。
……わたしは、ずるい女ですから。
閻魔さまは唇を閉ざしました。
そう、閻魔さまにしてはめずらしく、眉をよせていらっしゃるのです。
閻魔さまは、死霊さんを地獄送りにするときでさえ、眉ひとつ動かさないというのに。
「乙葉は……」
「――はい」
「……地獄に落ちる、と?」
そう思うのか、と問うように、閻魔さまがささやきます。
「……わかりません」
生前悪いことをした覚えはないのに、地獄に落ちてしまいました。
いえ、まったく悪いことをしてこなかったと胸を張って言えるほどの聖人君子ではありませんが、八大地獄に落ちるほどの、ひどいことはしてこなかったつもりです。
誰かを殺したことも、ありません。
けれど悪とは……何をもって、悪なのでしょうか。
ささいな言動に傷つく者がいるのならば、それは言葉を放った者が加害者なのでしょうか。
それとも、心が弱くて負けた者が、悪者と呼ばれるのでしょうか。
人の世は、ひどくあいまいです。
……まるで、この幽界のように。
「乙葉……もう一度、話してくれないか。お前が死んだ時のことを」
閻魔さまにそう乞われて、わたしは話しはじめました。
わたしが、たしかに生きていた頃の話を。