涼くん、こわい
むかしの夢をみました。
中学二年生の秋だったでしょうか。
わたしはうっかり忘れものをしてしまい、あわてて教室に戻ろうとしていました。
その際に、幼馴染の涼くんと見知らぬ女生徒が、空き教室に入っていくのを目撃してしまったのです。
その女生徒は思いつめたような表情をしていて、顔は茹でだこのように真っ赤になっていました。
わたしは足を止めました。
「これはまさか……学生の定番・告白シーン……っ!?」
自分も学生であることはさておき、そんなことを考えてしまいました。
我が幼馴染である、四ノ宮 涼くんは、学園の王子と呼ばれています。
涼くんのルックスは整っています。どこかで異人さんの血が入っているのか、全体的に色素が薄く、髪の毛は亜麻色をしています。
運動神経も抜群で、テストの点はつねに満点という、才色兼備なお方です。
しかも人当たりも良いとくれば、モテない理由を探すことの方が難しいです。
つねに赤点ギリギリのわたしからすると、同じ世界の住民とは思えません。
同じ施設にいなければ、わたしと涼くんはそもそも接点すら持っていなかったでしょう。そのくらい、世界が違いすぎます。
……もしかしたら、最近ではそれを自覚してしまったために、涼くんはわたしに冷たくなってしまったのかもしれません。
そう考えると、ズドーンと、落ち込んできました。
何はともあれ、うらやましい話ですね。
告白とか、されてみたいです。
ちなみに、わたしは、これまで異性から告白もされたこともなければ、したこともありません。
……ええ、寂しい学生生活です。
周囲に木枯らしが吹いた気がしました。
ほんのすこしばかり異性と仲良くなることがあっても、なぜか最終的に皆さん「お前に近づいたら、殺されるっ」と真っ青な顔で、逃げていくのです。あんまりです。呪われているとしか思えません。
わたしは、自分のクラスにむかって歩いていきます。
その際に、涼くんと女の子が入って行った空き教室を、横切ってしまいました。
たまたまです。
わざとでは、ありません。ほんとうです。
さすがに見てしまうのは気まずいですし、もし見ていたと知られたら、あとで施設でどんな顔して会っていいのかわからないので、わたしは走って横切ろうとしたのです。
――それなのに、なぜか、わたしは我慢できずに見てしまったのです。
女の子は、振られてしまったようです。泣き顔を我慢してうつむいているすがたが、痛々しいです。
わたしはしばしのあいだ硬直してしまいました。あわててその場から去ろうとします。
けれど、涼くんがわたしに気付いて、こちらに視線をむけてきました。
涼くんは、きっと施設でいるみたいに、わたしのことなんて完全に無視するだろうと思っていました。
けれど、いまはわたしのことをじっと見つめているのです。しかも、口元には薄い笑みを浮かべて。
――わたしには、その感情の理由がわかりません。
だって、涼くんの目の前には、振られてしまった可哀想な女の子がいるのです。
もしかして、わたしに、モテ自慢をしているのでしょうか? けれど、涼くんの視線は何だか違うような気もしました。
急に、わたしのそばにある扉が横にスライドされます。
中から少女が飛び出してきました。
ああ、この方は、見覚えがあります。
となりのクラスの与沢さんで、うちのクラスの男子たちが噂するくらい、可愛いと評判でした。
与沢さんはわたしに気付き、身を震わせました。わたしはとっさに見てしまったことを謝りたくなります。
けれど、与沢さんはわたしを親のかたきのように睨みつけているのです。
「あなたさえ、いなければ……っ!」
わたしは、あまりのことにポカンとした表情になってしまっていたに違いありません。
見てしまったことは申し訳ないですが、そこまで罵倒されるのは、おかしいような気がします。
去っていく彼女のうしろ姿に、目が釘づけになりました。
わたしが案山子状態になっていると、沈黙をやぶるような笑い声が響きました。
「ぷっ……ククク。あはははは……っ」
わたしは、教室の中に視線を向けました。
夕暮れ色に染まる、誰もいない教室。
窓に背をもたれて、涼くんが、めずらしくわたしにむかって笑っていたのです。
「いまの乙葉の顔、傑作だね」
「涼くん……」
他人の告白シーンを見てしまった気まずさと、笑われてしまった不愉快な感情から、早く退散したい気分になっていました。
「こっちに、おいでよ。乙葉」
けれど、普段はそっけない涼くんに、そう言われてしまいます。
わたしは迷いながらも、教室の中に足を踏み入れます。
わたしは、ずっと、また前のように仲の良い幼馴染に戻りたい、と願っていたのです。
「……どうして、与沢さんを振ってしまったのですか?」
「興味ないから」
「……即答ですね」
「乙葉は、俺に与沢さんと付き合ってほしいの?」
わたしは黙り込みました。
それは、わたしが決めることではないはずです。けれど、涼くんはまた先ほどのような、暗い悦びの笑みを浮かべていました。
「俺が、他の女の子と付き合ったら、嫌でしょう?」
「……っ、そんなことは……」
かつて、わたしたちはとても仲の良い幼馴染でした。
なにをするにも一緒にいたのに、ある日を境に、何もしていないのに避けられはじめました。
たしかにわたしは、涼くんにそばにいて欲しいと思っています。
他の方とは仲良くするのに、どうしてわたしには冷たくするのですか、と責めたい気持ちもあります。
けれど、それが年頃の男女の感情なのかと問われると、自分でもよくわからないのです。ずっと、幼い頃からの感情を引きずっているような気がして。
涼くんは、わたしの表情の変化を余さず楽しむように見つめていました。
「――乙葉。俺が興味あるのは、ただひとりだけ。彼女と比べたら、他の者たちがまるで有象無象のように感じる」
常日頃から何でも話し合える関係ならば、わたしもその方の名前を、聞いてもよかったのでしょう。
けれどわたしは、聞けませんでした。
せっかくまた一歩近づけた、この細い糸の上にいるような危うい状況を壊したくなかったのです。
涼くんの背後には沈んでいく夕陽があります。
教室の机や椅子の影が長く伸びて、涼くんの影とつながり、どこまでが彼自身のものなのかわからなくなっています。
わたしの足元近くまで伸びてきた涼くんの影が、ふいに動きました。
夕陽の角度のせいか、一瞬、涼くんの瞳が金色に光って見えます。
けれど、人間には、そんな色はありえないはずです。
わたしが瞬きをしたときには、涼くんの瞳の色はいつもと同じ色に戻っていました。
「涼くんにも、そんなに想っていらっしゃる方がいるんですね」
それ以上、なんと言えばいいのか、わかりませんでした。
「……いるよ。もう、もう何千年も前から、彼女のことしか見ていない」
何千年。
そんなこと、現実にはありえません。
そう、たとえば、不老不死の生き物でもなければ。
「それは、何かの小説とか、ですか……?」
わたしは、そう聞きました。
涼くんは読書家です。
いまも、その手に文庫本を持っていらっしゃいました。
タイトルが見えます。
『ツァラトゥストラは、かく語りき』です。
涼くんはわたしの視線に気づいたのか、手に持っていた文庫本を見せつけるように掲げました。
「ニーチェは嫌いだけど、その思想にはひどく共感する」
「……そうなんですか?」
涼くんは、その場から動いていません。
それなのに、わたしは追い詰められているような気分になりました。
もしかしたら、涼くんの影が届いてしまったからでしょうか。もう、わたしの足元まできているのです。
わたしは眉根をよせて、涼くんを見上げました。
「男の幸福は『われ欲する』ということであり、女の幸福は『彼欲する』ということである、と」
「え……?」
涼くんの表情は甘く感じられるほどなのに、その眼差しは歪んでいました。
「――『僕』は彼女を殺したい。愛されるよりも憎まれていたいんだ」
「……どうして?」
わたしは、たじろいでしまいました。
居心地の悪さをおぼえて、教室の扉に視線を送ります。
逃げたい、と切実に思いました。
なぜか、涼くん相手に。
逃げる必要なんて、ないはずなのに。
「だって、愛はいつか終わる。けれど、憎しみは消えない。――ずっと、彼女の心に残るだろう? だから、僕は死ぬ前に、彼女に癒えない傷をつけてやるつもりだ。彼女を殺すのは僕でなければならないし、他の男なんて絶対に認めない」
わたしは、初めて、この幼馴染に対して恐怖をいだきました。
後ずさりしたわたしを見つめて、涼くんは肩をすくめて笑いました。
「なに、ビビッてるんだよ」
「え……?」
「バーカ。小説の話に決まっているだろうが」
やれやれ、と笑われてしまいました。
わたしは安堵のあまり、腰がぬけてその場に崩れそうになりました。
でも、良かったです……。
我が幼馴染が、危険思想の持ち主でなくて。
「……先に帰ります」
「ああ。お疲れ」
教室の扉から出て行く際に、わたしの背中にむかって涼くんが何かをつぶやいた気がしました。
けれど、涼くんの視線は手元の本に落ちています。
――気のせいだったのでしょう。
『今はまだね』と、言ったのは……。