幽鬼の一族
メイさんは司命としての仕事がいそがしいらしく、わたしを残してあわただしく去っていきました。
床にならべられた巻き物は、まるで書の海のように、波打ちながら部屋の奥まで伸びています。
「これ、おぬし。ぼうと突っ立っているでない」
わたしは間近でそう声をかけられた気がして、周囲をぐるりと見まわしました。
――けれど、それらしい相手の方が見当たりません。
赤鬼さんや青鬼さんたちは、わき目もふらずに巻き物を『えっさほいさ』と運んでいらっしゃるし、死人のような顔で筆をとっておられる官吏の方々は、わたしの方に目をむける余裕すらないようです。
「ここだ。ここ」
こつん、と膝を叩かれて真下を見ると、そこには四本足の猫さんがいました。
三毛猫なのか、黒と茶と白がまざった毛の色をしていらっしゃいます。
天井にむかってピンと立っている尻尾は、お尻のところで二股にわかれていました。
そして、その三毛猫さんは男性用の官吏の衣装をまとっていらっしゃいます。なんと、ちいさな冠帽子まで。
「まあ、かわいらしい」
わたしはその場にかがみこみ、三毛猫さんの額をなでようと手を伸ばしました。
「む。無礼者」
猫さんが背後に飛びのいたので、わたしの指は宙をかいてしまいました。
「いきなりふれてこようとするとは、無礼な娘よ。我は、猫又ぞ? 人間なんぞが気安くふれて良い相手ではないわ」
「あ……、申し訳ありませんでした」
つい人間世界にいる猫さんを相手にしているような感覚でいましたが、相手は二本の尻尾がある妖怪さんなのです。
「ふん。我にふれたければ、貢ぎ物を用意せい。カリカリがよい」
カリカリは、キャットフードのことだったような気がします。
しかしここは地獄。
日本ではコンビニでも手に入る、猫さん用のドライフードは、ここにはありません。
猫又さんは、そのまるい目をうっとりと細めました。
「ああ……人間世界にある『カリカリ』と呼ばれるものは、さぞかし美味なのであろうな。地獄におちてきた同胞たちが申すのだ。あのカリカリ感がくせになる、と。我は地獄生まれゆえ、口にすることは叶わぬが……いちどは食してみたいものだ」
「へぇ、そうなんですねぇ」
異界の食べ物は、妖怪さんも興味津々のご様子です。
「うむ。おぬし、乙葉という名であったな? 司命さまから、直々におぬしの面倒をみるよう申しつけられておる。我の名は、ムーである」
「はい、ムーさま。これから、よろしくお願いします」
わたしは屈んだままの態勢で、頭を下げました。
ムーさまはわたしのまわりを一周すると、すこし何か言いにくそうにしていらっしゃいます。そう、まるでなにか秘密話でもなさるかのように、そうっと、ムーさまは、わたしにおヒゲを近づけました。
「ところで、乙葉よ。つかぬことを聞くが……新たに任命されたという、司命さまの副官殿がどのようなお方か、知らぬか?」
「え? 副官さまですか?」
わたしは、きょとんと首をひねりました。
これまでメイさんの副官さんのお話は、まったく聞いたことはありません。
「うむ。我もさきほど小耳にはさんだばかりなので、詳しくは知らぬのだが。皆がうわさしておるのだ。やはり、どのようなお方かは、公表されるまでは待たねばならぬか」
「へえ、そんなうわさが」
「ああ、これまで司命さまの副官の地位は、百年も空位であった。ようやくあの方が、どなたかをご指名されたのだ。皆は興味をひかれよう」
「百年ぶりに選ばれた、だなんて……。さぞかしその副官さまは優秀な方なのでしょうねぇ」
わたしは相槌をうちました。
それにしても、百年ですか。メイさんはいったい、おいくつなのでしょう。
「ま、知らぬならよいわ。さあ、我に付いてこい。ここでの仕事について、教えてやろう。聞けば、おぬし官吏になりたてで何も知らぬとか」
てこてこと四本足で歩きはじめたムーさまの後を、わたしは追っていきます。
ムーさまはちいさくて身軽なので、器用に隙間を見つけて飛んでいきます。
わたしはもっと体が大きいので、足の踏み場もないようなこの場所では、歩くのにも難儀してしまいます。
しかし、頑張って遅れないように、ムーさまの後についていきます。
「ええ、そうなんです。ここでは、皆さん何をなさっておいでなのです?」
「ここの部屋にいる官吏たちは、みな視史とよばれる役職についておる」
「視史?」
「視史も知らぬのか? おぬし、本当に六道文書を勉強してきたのであろうな?」
あきれたような口調で言われてしまいました。
何と答えていいのかわからず、あいまいに笑って誤魔化しました。
……わたしはいったいどういう立場をとればいいのでしょうか。
とにかくメイさんのおっしゃったとおり、がんばって働けばいいのでしょうけれど。
他の方に嘘をつくことは、どうにも心苦しいです……。
「まあ、よい。緊張して、忘れしてしまうこともあろう。視史とは、死者の生前の行いをみて、記録する者のこと。我々がしるした巻き物をご覧になって、閻魔さまは裁判のご判断をくだされるのだ」
ムーさまは、そう自慢げにおっしゃいました。
なおもおっしゃいます。
「視史は、ここ数百年のあいだに生まれた役職である。かつては、『浄玻璃の鏡』が、その役目を担っていたのだが」
浄玻璃の鏡。
わたしは息を飲みました。
ここで、その名が出てくるとは。
ふいに、あの鏡の男性がおっしゃった言葉がよみがえりました。
『――逃げてください』
何から、そこまで逃げろとおっしゃるのか。
急に、喉が渇いてくるのを感じました。
わたしは、さりげなさをよそおって聞いてみます。
「浄玻璃の鏡は、いま……?」
「ああ、鏡は……どこにあるのかは、誰も知らぬな。司命さまや司録さまならば、どこに保管されているのかご存じなのかもしれぬが」
あのとき鏡に映った人ならざる少女。
真実を映すという、浄玻璃の鏡。
考え出すとわけがわからなくて、頭が混乱してしまいます。
状況を考えると、メイさんに疑われても仕方がないと思います。わたしだって、わたしのような存在がいたらものすごく怪しむはずですから。
――けれど、わたしが人間だということは誰より自分が知っているのです。
それに、シロくんだっておっしゃっていたではないですか。妖怪は人間道には行けないと。ああ、違う。妖怪は人間世界に生まれることもある、とそのときにおっしゃっていた。
だとしたら、わたしは……?
考えすぎて、ひどく頭が痛むような気がしました。
自分の中に、重い扉があるような気がします。それは決してあけてはならないもの、のはず。
……あれ?
どうして、わたしはそう感じているのでしょうか。
なぜだか、無意識のうちにそれが怖いものだと思ってしまっています。わからないものだから、怖いのでしょうか?
いや、何か、本能的な恐怖のようでした。
決して見てはいけないもの。覗いてはいけない扉の奥。見下してはいけない井戸の底。その中に、何があるかを覗いてはいけないのに、好奇心に負けてみんな見つめてしまう。
「鏡は、なぜ使われなくなったのですか……?」
かすれた声が、喉から出てきました。
視史という職業が生まれるまでは、浄玻璃の鏡がその役目をしていたのに。
あのとき、鏡はひび割れていました。
それはいったい、どういう原因なのでしょうか。
ムーさまは足をとめて、金色の瞳でわたしを見返します。
「鏡はもはや、何も語らぬ。もう割れてしまったのだ」
「え……語らない、の……ですか?」
ならば、わたしはいったい誰と話したというのでしょう?
わたしの記憶は、間違っていないはずです。
鏡はひび割れていましたが、たしかにわたしは彼の呼ぶ声を聞き、語りあったのですから。
ムーさまは、深くため息を落とします。
「鏡がなくなってしまったために、我々は大変な思いをしておる。どうか、いまいちど、浄玻璃の鏡が復活してくれれば良いのだがなぁ」
「復活……」
わたしはただ、おうむ返しに問いました。
頭がいっぱいで、なにも考えられなかったのです。
ムーさまはおっしゃいました。
「されど、そんなことは不可能なこと。なぜなら、鏡と語り合い、その傷をいやすことができるのは、幽鬼の一族だけなのだから」
――と。