社会人って……。
昨夜早く就寝したかいがあって、自力で目覚めることができました。
掛布の上で重石代わりになっていたヒョウくんが、びっくりしたように丸い目でわたしを見つめました。
「ふっふっふ……。わたしだって、人生で初の出勤日に遅刻したりしません」
ふつうの会社ならば出勤というところでしょうが、官庁に出勤するのは登庁というらしいです。格好良いですねぇ。
「登庁! 16歳にして、社会人になってしまいましたよ……っ」
大人の階段をまたひとつ、のぼってしまいました。
ああ、働くって、すばらしい!
* * *
「おはよう、乙葉ちゃん」
「はい、喜んで!」
「……お兄さんは、ふつうに挨拶をかえしてほしいと切に願う」
メイさんは泣き真似をしながら、そうおっしゃいました。
閻魔庁の正面口を入ってすぐのところです。
まるでわたしの到着を見計らっていたかのように、メイさんが暗闇からさっと現れました。
もはや迷子を想定し、わたしは一時間もはやく到着していたので、メイさんに運よく会うことができて助かりました。
庁舎には、まばらに入ってくる方々がいます。
皆さん見知らぬ方ばかりですが、今日から同僚さんです。仲良くしたいですね。
メイさんが、わたしの肩の辺りに視線を落としながら、おっしゃいました。
「今日は閻魔とちっこいのは、一緒じゃないのか?」
「はい……わたしと一緒に閻魔さまが登庁するのは、よろしくないと朝餉のときに、シロくんがおっしゃいましたので。ヒョウくんはお留守番です」
メイさんは納得したように、うなずかれました。
「まあ、当然の判断だな。閻魔とは無関係だと思わせておいたほうが良い。閻魔と一緒に住んでいる子が閻魔庁に登用されるなんて、真面目に官吏試験を突破した者たちからしたら面白くないだろうしな。変なやっかみを生みかねない」
たとえ事実が監視のためであっても、それを周囲に言うことはできないわけで。
わたしは気合いをいれて、拳を握りしめてうなずきました。どうにか、メイさんから持たれた疑いを晴らさなければならないのです。
けれど、どうしたらいいのか、と考えると、まったくわからず……。
妖怪にしかひらかない扉がひらいたということは、自分が人間だと証明しなければならないのですが、わたしは天命録に名前もないわけで、そうすると六道的にもどうなのだろう、とか……考えてしまうのです。
また、最初に戻ってしまうというか。
わたしって何者なのでしょう?
まったく、わからないのですよね……。
とりあえず、閻魔さまの足を引っ張ってしまうことだけは、避けたいです。
わたしは、昨夜にシロくんから言われたことばがよぎり、ため息を落としてしまいました。
「シロくんは、裏から手をまわしてくださったようです。庁舎で、わたしのことをご存じの方には、口止めをしてくださったらしくて。もうすでに、閻魔さまとシロくんにはお話が伝わっていたようですね……」
『言っておきますが、あなたのためではありません。すべては兄上のためです。せいぜい、兄上の足を引っ張らないように勤めてくださいね』
シロくんはそうおっしゃいました。
それをそのまま話すと、メイさんは苦笑いをなさいます。
「ああ~、あいつは兄貴崇拝主義だからなぁ」
「まあ、シロくんはまだ小さいのですから。お兄さんが恋しいのも、仕方ないのではないですか?」
わたしが言った言葉に、メイさんはきょとんとした顔をしました。
「乙葉ちゃん、あいつの実年齢しらないのか?」
「……え?」
「まあ、シロは確かに閻魔庁の官吏のなかでも、かなり若い方だけど。それでも、もうすぐ成年だからなぁ。人間世界の年齢で計算すると……えっと、どのくらいか。あー、うん、15歳くらいになるか?」
なんということでしょう。
ちいさな子だと思って接していたのに、わたしの1歳下でした。
――まあ、考えてみれば相手は妖怪さんなのです。
人間のような感覚で接していれば、大きなしっぺ返しをくらうでしょう。
いまだ衝撃が受け止めきれないわたしに、メイさんは慰めるようにおっしゃいました。
「まあ、乙葉ちゃんがそう思うのも仕方ないよ。妖怪って、すぐ大人になるんだよね。人間のように幼少期が長くないんだ」
「そ……そうなのですね」
「そう。だからある日いきなり声変わりして……身長が1メートルくらい伸びていても、まったくおかしくない」
……心の準備をしておくことにします。
ある朝おきたら見知らぬ男性が、という展開は、まったく笑えません。
そんなとりとめのない世間話をしながら、わたしはメイさんに案内されて庁舎のとある一室にやってきました。
「わぁ……」
そこは、床一面に巻き物が敷かれていました。
まだ筆を走らせたばかりなのか、濡れて黒光りしているものがたくさんあります。
それをせっせと部屋の外に運んでいく、赤鬼さんと青鬼さんたち。
「ああ、この匂い……」
わたしは深呼吸して、その香りを嗅ぎました。
小学校のときに授業でならったお習字の匂いです。
その部屋では、20名ほどが卓の上で、巻き物に筆を走らせていらっしゃいました。
おそらくは、官吏の方なのでしょう。
皆さん冠帽子をかぶっていらっしゃいます。
けれど、どの方も頬がげっそりと削げ落ちているのが気になりました。
「死ぬぅ~」
「もうだめだ……助けてくれぇ……」
「意識を保て……、ここで気をうしなったら、死ぬぞぉぉ……」
わたしの頭に「はて?」と、疑問符が浮かびました。
なぜ、わたしの同僚であるはずの官吏の皆さんが、こんなに苦しげなのでしょう。
まるで、八大地獄の最下層におちた死霊さんのようではありませんか。
わたしが、ぎこちない動きでメイさんの方を見返すと、彼は悪党のような笑みを浮かべていました。
「あ、あのー? 上司さま……?」
「今日から、ここが乙葉ちゃんの職場でーす。やったね、拍手~」
どうやら、私は『社会人』を、舐めていたようです……。




