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水面の上の  作者: 犬心
6/8

第5章

        ◇ 5 ◆


 きっと、終わりでもなく、始まりでもなく、ただずっと続いていくだけなんだ。


          ◆


『ゴメンね。午前中のドッジボールは私が楽しんじゃった。でも、午後のバスケは佳苗が楽しんで』

 ――や、むしろドッジボールをやってくれて助かったくらいだよ。

 そう思いながら、美月のそのメモを握り締めて、私は体育館に向かって歩く。

 コンディションは最高だ。

 最高に、悪い。

 もはや歩いている感覚すらない。

 これは夢だ、と言われたら簡単に納得できてしまいそうなほどに――。

 頼れるのは感覚ではなく、自分の経験、勘、慣れ、条件反射。

 身体は動かせる。

 動かせるのなら、感じなくても、歩けるし、走れる。

 目は見える。

 見えるなのら、感じなくても、ドリブルもパスも、シュートだってできる。

 バスケができる。

 別にそれほどバスケが大好きというわけではないけど、楽しいじゃない?

 大好きなクラスメイトのみんなと一緒に試合をして、あの栞に一泡ふかせる。そう考えただけで、どうしようもなく楽しくなる。

 私にとっては、きっとこれが最後だ。でも、悲しくなったり、辛くなったりはしない。してはいけない。だって、私にとって「今」は、バスケの試合のロスタイムみたいなものだから――。

 だから、今はただがむしゃらに楽しめばいい。や、私の方から楽しもうとしなくても、勝手に楽しくなってしまう気がする。

「あ、佳苗さん、遅かったじゃないですかー」

 と私の姿を見つけた千恵ちゃんが駆け寄ってくる。

「一回戦、始まるわよ、佳苗」

 と朱莉が首だけでこっちを向いて言う。

「司令塔がいなかったら話にならないからね」

 とミッチー。

「そうそう。一応言い出した責任で、佳苗に司令塔任せるからね」

「頼むぞ。ナエナエ」

 リョウちゃんと空閑さん。

「うん――って、ナエナエ言うな!」

 あだ名が嫌すぎる。

「ツッコむところはそっちなのか……」

「え…………ああっ!?」

「佳苗、気づくの遅すぎ……」

「あの……一番最初に呼んだ私の立場は……」

「はは……はは、あははははっ」

「おおっ!? 佳苗が壊れた」

「わっ、私の所為(せい)ですか!?」

「いや、それは違うかと――」

「あははははっ」

 まったく、ホント、私が何かしたわけでもないのに、もう、こんなに楽しくなってしまった。


          ◆


「いやー、正直、その身体(からだ)で決勝まで上がってくるとは思わなかったよー」

 どこまでも楽しそうな顔で栞が話しかけてきた。

「ここまでこなきゃ、あんたと試合できないんだから、しょうがないでしょ」

 ここまで、栞のクラスは全試合をダブルスコアで勝ってきた。

 うちのクラスも、何度か苦戦はしたものの、なんとか決勝まで勝ち進んだ。

 まったく、せめて二回戦くらいで彼女のクラスと当たっていれば、こんな苦労はしなかっただろうに。トーナメントで決勝まで当たらないなんて、何かの陰謀か、誰かの嫌がらせなんじゃないかとさえ思う。

 まあ、ここまで『本気を出さずに』勝ち進めたのは、不幸中の幸いといったところか。

「――ところで、『その身体で』ってのは、どっちの意味?」

「んー? もちろん両方だよ。片方がなかったら、もう片方もありえないわけだからね」

「なるほど。おしゃっる通り――。でも、別に私一人でここまで来たわけじゃない。クラスのみんなが頑張ったからここまで来れたんだよ」

「クラスのみんな、ねー。それを否定するつもりはないけどさ、あなたここまでの二試合、出場時間合計十数分で、一人で33得点してるんだよ。まさか、ここまでやれるとは思ってなかったよー」

「それを言うなら栞なんて、これまで一人で50点以上取ってるでしょ。最初に当たった五組、二十分の試合で70点も点差できて、涙目になってたじゃない。少しは手加減したげなよ」

「私はどんな相手でも、手を抜くつもりはないよ。当然、次の試合もね」

「ったく。ま、私たち相手に手ぇ抜いてたら、確実に勝てないよ。まあ、本気できたところで、勝つのは私たちだけどね」

「うん。それは楽しみ」

 栞は満面の笑みでそう言った。

 そんな余裕で笑っていられるのも、今のうちだ。

「栞ー、次のスターティングメンバーどうするー?」

 八組の女子バスケ部のキャプテンが少し遠くから栞に呼びかけてくる。

 栞、女子バスケ部のキャプテンにまで頼られてるらしい。それだけの人望と能力を持っているのだから、当然といえば当然だけど――。

「どうしようかー。一番面白そうなやつでいこうかー?」

 ――こんなんでいいのか?

 いいんだろうなあ……。

「佳苗、うちのスターティングメンバーはどうする?」

 と、私と栞のやり取りを後ろで聞いていたリョウちゃんが話しかけてきた。

「任せて。それならもう決めてある」

 リョウちゃん、空閑さん、朱莉、ミッチー、そして私だ。


          ◆


 ――パンッ!

 ジャンプボールでバレーボール部キャプテンと同じ高さまで飛んだ空閑さんのパワーが少しだけ勝って、朱莉にボールが渡る。

 ダム、ダム、とゆっくりドリブルを始めた朱莉にソフトボール部のエースがボールを奪いに近づく。

 次の瞬間、朱莉が姿を消した――ように見えただろう、奪いに行った彼女には。

 朱莉は一瞬で体勢を限界まで落として、一気に加速していた。

 朱莉が今日このスピードを見せるのは初めてなのだ。

 そして、うちのクラス以外の人が朱莉のこのスピードを見るのは初めてのはずだ。朱莉と同じ中学校だった人も見たことがあるかもしれないけど、たぶんそれはこの高校では高浜君くらいだから、実質うちのクラス以外の人は初見のはず。

 風を切るようにゴール下に駆け込み、唯一そこまで下がっていた一人のディフェンスをかわして、美しいレイアップシュート。

 パサッとボールがネットを揺らした。

 ――――。

 暫し静まり返る。

 そして、観衆の「おおおおおっ!!」という驚きや興奮が入り混じった声で体育館が満たされる。

「え……何、どういうこと? っていうか、あれ誰よ?」

 つぶやきながら、センターライン付近でパスを受け取るソフト部エース。そして、ゆっくりとドリブルを始めた直後。

「鈴村朱莉よ」

「えっ?」

 彼女が声を出したときには、朱莉にボールを奪われていた。

 百七十ほどある身体を極限まで落とした状態で、高速で近づき、床スレスレの位置でボールを()(さら)ったのだ。

「行かせない!」

 朱莉に反応して戻ったというよりは、初めからあまり上がっていなかったバレー部キャプテンがスリーポイントラインの手前で朱莉を止めようとする。

 その彼女を、フェイント一つで朱莉が躱した、ように見えたけど、流石(さすが)はバレー部の反射神経。一瞬で重心を抜かれた側に戻して、体勢を崩しながらも朱莉とゴールの間に割り込んでくる。だけれど、初めから朱莉にはそれ以上前に進むつもりはなかったようだ。

「よっ」

 小さな掛け声。

 美しいジャンプ。

 静かにボールが朱莉の手から離れる。

 ――パサリと、あまりにも呆気なく、スリーポイントシュートが決まった。

「ええっ!?」

「そんな!」

 高校入学以来、運動でも勉強でも、その他のどんな分野でも、大した活躍はしていなかった朱莉のそのプレイに、相手チームも観衆もどよめく。

「このまま一気に引き離すわよ!」

 そんな中、朱莉の快活な声が響く。

「もちっ」

「はいっ」

「あいよ」

「おーけー」

 全員が返事をして、ディフェンスに(のぞ)もうとした、が――。

「あはは。そうはいかにゃいにょ♪ あっと、噛んじゃったー。――てへぺろ☆」

 いままでどこに潜んでいたんだろうか、と思わせるほど存在感のなかった栞が突如、存在感をマックスまで引き上げた。この上なくウザい形で――。

 体育館の中がさらにどよめく。それもそのはず。『あはは』でドリブルを開始。『そうはいかにゃいにょ』でリョウちゃんを抜き、『あっと』でミッチーを躱し、『噛んじゃった』でスリーポイントシュートを放ち、『てへぺろ』の瞬間にボールがリングの中に吸い込まれた。

 ウザい。際限なくウザイ。

「ヒカリ。全力で鈴村さんを押さえに行って。身長とスピードを考えると、ヒカリが適任だから」

 ディフェンスに戻りながら指示を出す栞に「御意!」と答えるバレー部キャプテンことヒカリ。

 さすが栞。さっそく朱莉対策を打ってきた。

 その直後、朱莉にボールが渡ったが、ヒカリのディフェンスを振り切れない。

 でも――。

「リョウ!」

 パンッと、朱莉からリョウちゃんへの強烈なパスが通る。

「任せなっ」

 と、リョウちゃんは自分についていたソフト部エースを強引に抜きにかかると見せかけて――。

「ナイスパス!」

 空閑さんへのパスが通った。

 パスを受け取る直前にディフェンスを振り切ってフリーになっていた空閑さんは、余裕でシュートを決めた。

 ――そう、うちのチームにはバスケ部が二人もいるのだ。朱莉一人を止めたところで何の意味もなさない。

「さえっちー」

 今さっき空閑さんに抜かれたカバディ部の紗枝ちゃん――通称さえっち――にスローインを受け取った栞がドリブルしながら近づく。

「――――」

 そして、私達には聞こえないように何かをさえっちに耳打ちした。きっと何かの作戦の伝達だろう。

「ではでは、いっくよー」

「いっかせないよー」

 さえっちから離れて加速しようとした栞を私が止めにかかる。

 強引に右から、と見せかけて左!

 と、左に重心を移動させた瞬間、栞はクッと身体を捻って右を抜いて行った。

「なっ……!?」

 完全に逆をつかれた。それに身体の反応が遅すぎた。もしあのまま左に来ていたとしても、私の反応速度では、栞の速さについていけなかったはずだ。

 ダムダムダム、という低い位置でのドリブル音がピタリと止む。

 私が振り返ったときには、止めに入ったミッチーと空閑さんを栞一人で抜いて、シュート体勢に入っていた。

 そしてまたスリーポイント。

 これで7対6。引き離そうとしても、すぐに追い上げてくる。

「落ち着いて、もういっちょ引き離すよ」

 ミッチーからのスローインを受けたリョウちゃんが、そう言ってドリブルを開始する。

「そうはいかないよー」

 と、ジリジリとリョウちゃんとの距離を詰めながらプレッシャーをかける栞。

「ぬ……」

 半身になってボールを栞から遠い位置でダム、ダム、とスローでつきながら腰を落として、機をうかがうリョウちゃん。

「ふっふっふ」

 でも、栞のプレッシャーから逃れられない。あの一切隙のない栞をドリブルで抜くのは至難の業だ。

「空閑っ」

「あいよ」

 逆サイドでフリーな状態を作り出した空閑さんにすかさずパスを出した。この視野の広さと判断の早さはさすがバスケ部。

「む……」

 すぐにドリブルを始めた空閑さんだったけど、さえっちがピッタリとディフェンスについて行く手を阻む。

 ――左に、右に、空閑さんが必死に揺さぶりをかけるも、抜けそうな気配はない。

 やはりカバディ部は伊達(だて)じゃないってことか!

 さすがカバディ!

 カバディがどんなスポーツかは知らないけど!

「空閑さん!」

 コートの中央やや左を相手ゴールに向かって走りながら朱莉が声をかける。

 ブンッ、と空閑さんが手首のスナップの利いた速いパスを朱莉に出す。

「あっ!」と、空閑さんと朱莉が同時に声を上げた。

 朱莉のスピードに合わせてもっと前に出せればよかったのだけれど、さえっちのディフェンスの所為で、やや斜め前に出す程度に留まってしまった。それに合わせてスピードを落とさざるを得なくなった朱莉。そしてそこに、待ってました、と言わんばかりの勢いで朱莉の斜め後ろからヒカリが駆け込んできて、パシンッ、とボールをカットされた。

「ナイスインターセプト、ヒカリ」

 栞が声をかける。

 そして、ヒカリはその声の方向に、振り向くことなくボールを投げる。

「――アンド、ナイスパス!」

「しまっ――」

 ――『た』まで言い終わる前に、栞はスリーポイントシュートを放った。

 そしてまた、当たり前のようにボールはリングの中に吸い込まれる。

 7対9。

 追い越された。

 ――――それからも、栞たちに翻弄(ほんろう)され続け、開始五分たらずで13対26まで引き離されてしまった。

「はぁはぁ……」

「ぜぇぜぇ……」

 おまけに、リョウちゃんと空閑さん、それにミッチーの息が上がってきた。

 それもそのはず。これまでの二試合、この三人はほぼ出づっぱりの状態だったのだ。

 この大会の特別ルールで、十分以上連続してコートにはいられないけど、ハーフタイムの後三分休めばまた戻れる。だから、バスケ部のリョウちゃんと空閑さん、そして運動能力の高いミッチーは一試合十七分、二試合で三十四分、この試合のここまでの時間を足すと約四十分コートで走り回っていたのだ。

 だけど、ここでリョウちゃんと空閑さんに抜けてもらうわけにはいかない。

 一気に追いつき、追い越すためには――。

「リョウちゃん、空閑さん! まだいける?」

「当然!」

「ハッ、愚問だな。アタシを誰だと思ってやがる! アタシの名を言ってみろ!」

「いま『空閑さん』って呼ばれたばっかだろうが!」

 パンッ、とリョウちゃんのダイビングツッコミが炸裂(さくれつ)する。

 空元気だとしても、頼もしい限りだ。

「ミッチー」

 と、私からミッチーに近づいて、他の人に聞こえないように耳元で話しかける。

「交代してくれる?」

「えっ? 私もまだいけるよ」

「分かってる。でも、ここで追いついておいた方がいいと思うんだ」

「……千恵ちゃんを?」

「うん。できれば、後半でやりたかったんだけど――」

「ハハ。私が某バスケ漫画の『ミッチー』みたいだったらよかったんだけどね。あだ名だけ一緒でもねー」

 自嘲気味の笑みを浮かべるミッチー。

「いや、そんなことは――」

 得点力はあまりないけれど、そのスピードとスタミナでかなりの貢献をしてくれた。むしろ、ミッチーがいなかったらここまで来れたかどうかも怪しい。それを伝えようと思ったのだけど、彼女は私の言葉を(さえぎ)って――。

「なるほどなるほど。主戦力は後半のために温存ってわけね! 任せなさい!」

 ――周りのみんなに聞こえるくらいの声で言った。

 しかも全然わざとらしく聞こえない。

 空気読みすぎだ。

「千恵ちゃん、交代」

「は、はひゅ!」

 千恵ちゃんの方は、素で変な返事をして、てくてくとコートに出てくる。

 会場中からは「おいおい、アイツで大丈夫か?」みたいな声が聞こえてくる。

 うん、これでいい。

 こうじゃなくちゃいけない。千恵ちゃんの運動音痴は全校に(とどろ)くほど有名なのだから。

「千恵ちゃん、やるよ」

 私は千恵ちゃんと自然な形ですれ違いながらそう耳打ちする。

「はひっ」

 ……そこは噛まないで欲しかった。

「さあ、一本いくよー」

 リョウちゃんが右手でドリブルしつつ、ビシッと左手の人差し指を立てて、言った。

 それを合図とするように、全員の動きが速くなる。

 中でも一際速かったのが朱莉。ヒカリにピッタリとマークされていたのを一瞬で振り切って、フリーの状態を作り出した。

 すかさずリョウちゃんが朱莉にパスを出す。

 ――が、それを読んでいたかのように――や、読んでいたんだろう――栞が朱莉の前にスッと現れて立ちはだかる。

 キュッ、と朱莉がブレーキをかけた音が響く。

 あれだけのスピードを出しておきながら、音もなく出現する栞に反応して止まれるのは、相当な運動神経を持っている証拠だ。そんな朱莉であっても、この試合まだ一度も栞を抜くことはできていない。どんなフェイントをかけようと、どんなスピードで走っても、必ずボールを奪われてしまう。

 だけど、今回はこれまでと状況が違う。

 千恵ちゃんが完全にフリーなのだ。

 朱莉は一瞬栞を抜きに行くフェイントをかけてから、栞が音速でも出さない限り(さわ)れない角度と速さでボールを千恵ちゃんに投げる。まるで、ドッジボールで敵に当てるための球。

 千恵ちゃんはそれを、パシッ、と両手でしっかり受け止め、ゴールの方に身体を向けると、軽くジャンプして、頭の上からボールを放った。

 シン、と体育館が静まり返る。

 それは、千恵ちゃんがあんなに速いボールを取ったことに驚いたのか、何の迷いもなくスリーポイントシュートを打ったからなのか、それとも、そのシュートフォームがあまりにも美しかったからなのか――。

 パスッ、とゴールネットの小気味いい音が、静まり返った体育館に響いた。

 それから数秒、誰も動かず、声も出さなかった。

 や、誰も動けず、声も出せなかった、と言った方が正しいのかもしれない。

 時が、止まったようだった。

 そして、その静止した時間は、朱莉の「ナイッシューッ」という一言で動き出した。

 止まっていた時間の分だけ溜まっていたエネルギーが爆発したかのように、「おおおおおおおおっ!!」という爆音のような歓声が体育館を包む。

「アオちゃん! あの娘をマークして!」

 大勢の声で埋め尽くされている中で、栞の一際高い声が、ソフト部のエースことアオちゃんに向けて放たれる。アオちゃんはさっきまでミッチーについていたのだけれど、千恵ちゃんに代わったことで、女子バスケ部キャプテンの玲子(れいこ)さんと一緒に、空閑さんについていたのだ。

 空閑さんがこれまでかなりいい仕事をしてたからだろう。

「えっ? でも、今のは偶然じゃ――」

「偶然であのパスは取れないし、もし取れたとしても、あの綺麗なシュートフォームが偶然なわけないじゃない!」

 玲子さんがそう叫ぶ。

 はー。一回か二回は偶然で済ませてくれるかと思っていたけれど、現実は、や、栞はそんなに甘くなかった。試合前に言っていた『手を抜くつもりはない』という言葉には、これっぽっちの偽りもないようだ。

 と、そこで半信半疑になっているアオちゃんのところにパスが回る。

 その目の前には千恵ちゃん。

「…………」

 アオちゃんは疑いの眼を向けながらも、ドリブル突破を試みる。

 それに対して千恵ちゃんはピクリとも反応できなかった。

 そりゃそうだ。彼女はディフェンスの練習なんて一切していないのだから。

 けど、それでいい。そこに立っていてくれるだけでいいのだ。

 目の前の相手を抜くことに集中して、それができた瞬間、「やった!」でもいい、「なんだ、大したことないじゃないか」でもいい、ほんの少しでも気が緩めば――。

 パンッ!

「なっ!?」

 音もなく近づいていた朱莉が、すれ違いざまにボールを奪い去った。

「くっ」

 アオちゃんが、キュッ、と身体を反転させて、ドリブルをしながらゴールに向かう朱莉を追いかける。

 さらに、朱莉に出し抜かれてマークを外してしまったヒカリも朱莉を追っている。

 ゴール目前で二人が背中まで追いついてきた。そこで朱莉が『更に』スピードを落として、レイアップシュートに入る。

 朱莉を追っていた二人が朱莉とゴールの間に身体を入れてジャンプして止めにかかる、が――。

 朱莉は空中でボールを乗せていた片手をクッと折り曲げて、自分の真後ろにボールを投げた。

「え――!?」

「な――!?」

 まるで後頭部に目があるんじゃないかと思えるくらい正確に、ボールは千恵ちゃんの両手に収まった。

「ナイスパスです、朱莉さん」

 言いながら、また完全にフリー状態の千恵ちゃんがスリーポイントシュートを放つ。

 誰が見ても完璧なフォームから投げ出されたボールは、リングに当たることすらなく、ネットの中に落ちていった。

 一時は13点あった差が、千恵ちゃんが入ってからたった一分程で7点差まで縮まった。

「よし! 追いつけるよ!」

 ベンチで休んでいるミッチーが嬉しそうに言う。

「――そうは、させない!」

 一気に追い上げられていることに対する焦りからか、それとも対抗意識からか、スローインを受け取った玲子さんが一人でスリーポイントラインまでドリブルで駆け抜け、シュートを打った。が、その直前、途中で一度は抜かれていた空閑さんが、回り込んでジャンプし、指先でボールに触れた。や、触れたというより、(かす)った程度だった。でも、それでほんの少し起動がずれたボールはリングに弾かれる。

「くっ――」

 玲子さんが顔をしかめる。

 すかさず、このコートの中で一番背の高いヒカリと二番目の朱莉がリバウンドに飛ぶ。

 バレー部のヒカリのジャンプ力はさすがに凄いものがある。だけど、先にボールに手が触れたのは朱莉だった。

「――っ」

 それでも、まだ空中で片手が触れているだけの不安定なボールをヒカリが奪いにかかってくる。そんな切羽詰った状態にも関わらず、朱莉は一瞬ボールから目を離して相手ゴールの方を見遣ると、ニヤリと口だけで悪い笑みを浮かべた。

 その表情のまま、パンッとボールを斜め下に叩き落とす。

 その落下地点には私、横には栞。

 少しでも私が栞より不利な位置にいたり、朱莉のパスがずれたりしていたら、間違いなく栞にボールを取られていただろうけど、完璧すぎるくらい完璧に、ボールは私の両手に。

 そして、すぐそばにいる栞が何らかのアクションを起こす前に、私はオーバースローで相手ゴールの方にボールを放り投げる。

「いっけええぇぇぇっ!!」

 試合が始まってからもどんどん感覚が薄くなり、まともに力を入れることも難しくなっている腕を、気迫で振り抜いた。

 ボールはセンターラインを少し超えたあたりでワンバウンド。

 そこには誰もいない。千恵ちゃん以外は――。

 一応形だけセンターラインまで戻っていた千恵ちゃんは、私がボールを投げる直前に相手ゴールの方に向かって走り出していた。

 ワンバウンドしたボールはちょうど千恵ちゃんの頭上に。

「あっとっとっ――」

 少し躓くような不安定さで、でも何とか堪えながらボールを自分の前に落とし、床から跳ね返ってきたところをキャッチする。

 ――パスッ、とゴールネットを揺らして、千恵ちゃんの今日三本目のスリーポイントが決まった。

 これで4点差。

 三本打って、三本全部入れてしまうという驚異的な得点力。

 それも、ほんの数日前までは、ド素人以下の動きしかできなかった千恵ちゃんが――。本当に「凄い」の一言だ。

 だけど――。

「ナイスシュートだねっ」

 ――ほんの数秒前までは、私のそばに、こっち側のゴール下にいたはずの栞が、もう千恵ちゃんの真後ろまで追いついて、そんな言葉をかけているのもまた驚異的だ。あと一秒、や、あとコンマ一秒でも遅かったら栞の手が千恵ちゃんの放つボールに触れていたかもしれない。

 ひっ、と声をかけられた千恵ちゃんが小さい悲鳴を上げる。

「しゅ、瞬間移動、ですか……?」

 恐る恐るといった感じで千恵ちゃんが振り返りながら問いかける。

「ん、それは面白そうだね。今度、開発してみようかなー」

 開発!? 瞬間移動をっ!?

 そんなことまで出来るのか、あの超人は……。

「それはそうと……悪いんだけど、もう入れさせないよ。園山千恵ちゃん」

 栞は笑顔でそう言うと、少し大きめの声で指示を出した。

「アオちゃん、文乃(ふみの)と交代!」

 文乃……宮原(みやはら)文乃(ふみの)、去年同じクラスだったから知ってるけど、確か文芸部で、それほど運動は得意ではなかったはず。や、むしろ運動音痴の方に分類しても問題ないレベルだったはず。でも彼女は――。

「文乃、文乃っ」

 栞がアオちゃんと交代で入ってきた宮原さんに向かって手をブンブン上下に振る。

「は、はいっ」

 宮原さんが栞のそばでしゃがみ込んで栞の顔に耳を近づける。

 宮原さんはかなり身長が高い。確か百七十三センチくらいだったはず。ヒカリもかなり高いけど、それに匹敵するくらいの高さだ。

 そんな宮原さんに、栞が何かを耳打ちしている。

 とはいえ、宮原さんに高度なプレイができるとは思えないのだけれど……。まさか、千恵ちゃんのように、こっそりバレないように何かの特訓をしてきたのだろうか。

 だとすると……千恵ちゃんを下げるべきか……?

 考えながら、デジタイマー――両チームの得点と残り時間が表示されている何やら高価そうな装置――を見る。

 得点は22対26。前半の残り時間は三分を切ったところ。

 もし宮原さんが凄いプレイをしてきたとしても、それほど点差を離されるとは思えないし、マズいと思ったらすぐ対応すればいいだけだ。

 それに、勢いに乗っている今、千恵ちゃんを下げるメリットが感じられない。

 うん、まずは様子見かな……。

 ――さえっちのスローインでゲームが再開する。

 それを受け取った玲子さんから、絶妙なパスが栞に送られる。

 今度こそ、抜かさない!

 と、意気込んで栞の行く手を阻もうとした瞬間。

「下ががら空きだよん」

「あっ!」

 右か左かと警戒していたら、見事にボールが私の股の下を通過していた。

 急いで振り返ったときにはもう栞はゴール下に。

「よっ」

 と、その小さな身体では考えられないほどの高さまでジャンプする。

「入れさせないっ」

 その栞とゴールの間に朱莉が割り込むようにジャンプしていた。

 ジャンプ力は栞の方が上だけど、それだけでは補い切れないほど朱莉の身長は高い。

 栞のアンダーハンドのレイアップを、その手からボールが離れた瞬間に片手で叩き落そうとする。

「――!?」

 が、普通ならボールを手から離す位置で、栞はボールを持った右手を自分の身体に引き寄せる。

 最も高い位置から二人とも落下を始める。

 そこから栞がボールを左手に持ち替えながら、クイッと身体を(ひね)る。そして、朱莉の右腕の横からボールを持った自分の左腕をグッとと押し入れ、ほぼ手首のスナップだけでボールを投げ上げる。

 前回転のかかったボールは、ゴールリングを下から舐め上げるようにしてリングの上まで登り、一瞬だけ静止してから、ストンとネットの中へ吸い込まれていった。

 物凄く難しいことのはずなのに、涼しい顔でそれをやってのける栞。

 そのプレイにまた会場が大きく沸く。

「…………くっ」

 朱莉は一度で天井を仰いでから、ガクッと頭を前に倒して悔しそうな声を漏らした。

 私はそんな朱莉に何か声をかけようとしたけれど、彼女はブンブンと頭を横に振って声を上げた。

「まだだ。まだいける!」

「当然!」

 リョウちゃんがそれに答えて、強いスローインで朱莉にボールを渡す。

 ……私が出るまでもなかったか。

 ダムダムダム、と低い姿勢のドリブルでコートの真ん中を駆け抜ける朱莉。

 キュッ、とその行く手にヒカリが立ちはだかる。

 朱莉は身体を右にかわしながら、左サイドを走る空閑さんにワンバウンドのパスを出す。

 ヒカリはそれをドリブルのフェイントだと一瞬勘違いし、ボールが投げられた方へと重心を移してしまう。その隙を突いて朱莉は最短距離でヒカリを抜き去る。

 ボールをキャッチした空閑さんは間髪を入れずに朱莉にボールを戻す。

 ついさっきまで私についていた栞が、いつの間にか、朱莉と空閑さんのプレイを読んでいたかのように、朱莉がセンターラインを超えたあたりで止めに入る。

 栞は基本的に私をマークしているけれど、他の誰かが独走状態になったら、それを止めに行っていることが多い。それだと私がフリーになるけど、栞は私へのパスコースを塞ぎながら止めに入る。私が栞に取られずにパスを通せる位置に動こうとしても、栞は三百六十度見えているんじゃないかと思えるほど正確にパスコースを塞いでくる。

「ホント、凄いわ……。でも、これならどう!?」

 朱莉は大きく一歩引いてから、栞がジャンプしても届かない高さの、山なりのパスを私に向かって投げる。

 が、栞はそれさえも予想していたのか、朱莉がボールを投げると同時に全力で私に向かってダッシュしてくる。

 ボールと栞の徒競走だ。

 山なりな分、一直線に投げるより当然私に届くまでに時間がかかる。だから、栞の俊足をもってすれば、ボールに追いつくことも可能かもしれない。

 でも、私は朱莉を信じる。朱莉を信じて、ボールの落下点を目指して走る。

 ()うに走っている感覚はない。どうやって脚に力を入れればいいのかも分からない。

 呼吸が乱れて胸が苦しくなる。どうやって空気を吸えばいいのかも分からない。

 それでも、前に前に身体を突き動かす。

「たあっ」

 妙に可愛い掛け声とともに栞が半身で飛ぶ。

「――っ」

 ボールに向かって延ばした栞の手は、その指先が掠るだけにとどまる。

 ――ドスン!

 かなり無理な体勢で飛んだ栞は、それでも空中で態勢を整えて、綺麗な受け身を取っていた。

 その栞が床に着いたのとほぼ同時に、私はボールをキャッチした。

 お願い、入って!

 そう願いながら、私は感覚のない指先からゴールに向けてボールを放つ。

 ――けれど、その願いは届くことなく、ボールは無情にもリングに弾かれる。

 や、もうこんな状態でリングに当たっただけでも奇跡的なのかもしれないけれど……。

 そして、さっき私の後ろで倒れていた栞が、もうゴール下でリバウンドを取ろうとジャンプしていることは、もはや驚くほどの出来事ではないのだろう。

 栞よりも若干不利な位置で、朱莉もボールに手を伸ばして飛ぶ。

 ボールに触れたのは同時。だけど、二人とも片手で、しかも手全体ではなく指二本くらいで触れただけだった所為で、ボールは二人の手から横回転で抜け落ちる。

 それを下でキャッチしたリョウちゃんがシュートを打とうした瞬間、これまでリョウちゃんをマークし続けていたテニス部の亜紀(あき)が両手を掲げてシュートコースを塞ぐ。亜紀は得点にはあまり絡んでこなかったけど、ずっとリョウちゃんの動きを抑えてきていた。ディフェンスは相当上手い。ちょっとやそっとのドリブルで躱せるような相手ではない。

「リョウさん!」

 千恵ちゃんが、自分についていた宮原さんがゴール下の動きに見入っている隙を突いて、スリーポイントラインに沿って走りながら声をかける。

「はいっ!」

 それに気づいたリョウちゃんがパスを出す。でも、千恵ちゃんが声を出したことで、当然そのことに宮原さんも気づいてしまった。

 パスが出された直後に宮原さんが千恵ちゃんの方へ走り出す。

 胸の前でボールをガッシリつかんだ千恵ちゃんがシュート体勢に入る。

 少し膝を屈めてから、頭の上にボールを持った両手を移動させながら軽くジャンプした瞬間。

「あっ!?」

 走っていた宮原さんが、慌てていた所為か、(つまず)いたように前にバランスを崩して千恵ちゃんに頭から突っ込んでいく。

「千恵ちゃん! 危な――」

 誰かが声をかけたけれど、ジャンプして今にもシュートを打とうとしている千恵ちゃんに避ける術はない。

 ――ドンッ!

「ッ!?」

 千恵ちゃんがシュートを打つ直前、左肩に宮原さんの頭がぶつかる。

 ドサリ、と千恵ちゃんと宮原さんが倒れ込む。

 千恵ちゃんが投げたボールは、軌道がずれ、バックボードの隅に当たって落ちた。

 ピーッ!!

 審判の笛が鳴る。宮原さんのファウルだ。

「千恵ちゃん!」

「大丈夫!? 怪我とかしてない?」

 近くにいたリョウちゃんと朱莉が真っ先に駆け寄る。

「は、はひ……。大丈夫です」

 言いながら、自力で立ち上がる。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 そんな千恵ちゃんに宮原さんがひたすら頭を下げている。

「い、いえ、大丈夫ですから――」

 逆に申し訳なさそうにパタパタと手を振る千恵ちゃん。

「フリースローです」

 ボールを持った審判が千恵ちゃんに言う。

 それを聞いた千恵ちゃんは、キョトンとした顔で――。

「フリースロー……? なんですか、それは?」

 …………………………………………。

 場が凍りついた。

「ええと、フリースローっていうのはね――」

 リョウちゃんが苦笑いしながら手短に説明する。

「――は~、なるほど~。ではこの場合は三本打てるんですね」

 やっと理解した千恵ちゃんがフリースローラインまで移動して、審判からボールを受け取る。

 ひたすらパスのキャッチとスリーポイントシュートの練習しかしてなかったから、フリースローは少し心配だけど、どうだろうか……。

 ――パサッ。

 そんな私の心配をよそに、スリーのときと同じ美しいフォームで一本目を決めた。

 それに続けて、なんと二本目も、三本目も決めた。

「ナイス千恵ちゃん!」

「よし、これで3点差!」

 また会場の歓声が熱を上げる。

 場を凍らせたり、燃え上がらせたり、今日の千恵ちゃんは色んな意味で大活躍だ。

 ところが――――。

「千恵ちゃん!」

 ヒカリが出したパスをカットした朱莉が、自ら相手ゴールの近くまでボールを運び、また宮原さんのマークをかわした千恵ちゃんにパスを出した。そこまでは良かった。願ってもない綺麗な流れだ。

 けれど、それからの千恵ちゃんのシュートフォームがこれまでと違った。ジャンプは中途半端、腕も上がりきっていない、おまけにリリースポイントがジャンプの最頂点に達する前、つまり投げるのが早すぎだった。

 そんなフォームで入るはずはなく、リングの手前にガンッとボールが当たり、斜め下に落下。リバウンドに飛んだ玲子さんがミスでボールを弾き、バックラインの外に出たのは不幸中の幸いだったかもしれない。

 でも、どうしてあんな……。

「もしかして――」

 さっき宮原さんにぶつかられたときに実は怪我をしているのでは……。かなり激しく倒れていたから、手首の一つや二つ捻っていてもおかしくない。それとも足首――?

「千恵ちゃん」

 私はすぐに声をかけて確認したけれど、特に怪我をしている様子はなく、やせ我慢をしているようでもなかった。

 じゃあ、なんで――?

 さらにそれからもう一回、千恵ちゃんがシュートを打てる状況ができたけど、それも同じ縮こまったシュートフォームで外してしまった。

「まさか――」

 さっきのあれで、恐怖心が出てきてしまったのだろうか。宮原さんも千恵ちゃんも怪我こそしなかったものの、かなり激しく倒れていた。それに、もともと身体が大きい宮原さんを、小さな千恵ちゃんから見たら、より一層巨体に見えるだろう。そんな宮原さんが、いつまた突っ込んでくるかもわからない状況なんだ。これで恐怖を感じるなという方が難しい。

 でも、どうすればいい? 千恵ちゃんを下げて、ミッチーを戻すか。それとも――。

「ソノッちー!!」

「わわっ!?」

 ボールがサイドラインを割って、こっちチームのスローインになった直後、空閑さんがまた変なあだ名を叫びながら、千恵ちゃんにフライングボディアタックを決めた。

 ドスンッ!!

 激しい衝突音の後、空閑さんが上から千恵ちゃんを押しつぶす形で倒れ込む。

「ふぎゅっ」

 千恵ちゃんの喉から妙な音が漏れる。

「ははは! どーだソノッち」

「『どーだ』じゃないだろ!」

 スパンッ、とすかさずリョウちゃんが空閑さんの頭を手で(はた)く。

「なにやってるんだお前は!」

「いやいや――。大丈夫かソノッち? 痛かったか?」

「大丈夫です。それほど痛くもありませんでしたし――」

 千恵ちゃんが起き上がりながら答える。

「ふっ。つまり、そういうことさ」

「はい?」

「どういうこと?」

 二人が首を(かし)げると、空閑さんは、ビシッと千恵ちゃんを指差しながら言う。

「ソノッちはそう簡単には怪我をしない!」

「えっ?」

「…………」

 言われた千恵ちゃんはポカンとした顔をして、リョウちゃんは「何を言ってるんだコイツ」みたいな顔をしている。

「ソノッちはよく転んでいるからな。一日平均五回くらいは転んでるんじゃないか?」

「いえ、そんなことはないです!」

 おお、さすがの千恵ちゃんも反論するか。

 そりゃ一日五回はないだろう――。

「一日十回くらいは転んでます」

 もっと多かった! しかも二倍!

「うむ。では、コレを見よ!」

 ガバッ、と空閑さんが千恵ちゃんの下のジャージを両手で下ろした。

「ひゃ!? いきなり何をするんですかっ」

 ジャージの下に体育用の紺色のハーフパンツを穿()いてはいるものの、当然の反応を見せる千恵ちゃん。っていうか、ホント空閑さん何してるんだ……。

「アザ一つない綺麗な脚じゃないか。普通、そんなに転んでいたらアザなり擦り傷なりができているはずだ。だというのに、それが全く見当たらない」

「確かに……そう言われてみれば……」

「ソノッちは尋常じゃないほど転んでいるが故に、自然と受け身がプロフェッショナルレベルまで上達しているのだよ。それも、ありとあらゆる体勢での受け身ができるようになっているはずだ」

「ああ、なるほど」

 うんうん、と頷くリョウちゃん。

「そ、そうだったんですかー!?」

 なぜか一番驚く千恵ちゃん。

「そんなわけだから、あんなただ図体(ずうたい)がデカイだけのヤツなんて気にするな。それに、こっちはソノッちの方がデカイと思うんだ」

「なっ、なぜ私の胸を揉むんですか!?」

「いや、確認のために」

「そんなの確認しなくていいですっ」

「あっはっはっ」

 ――ああ、これできっと千恵ちゃんは大丈夫だ。

 そう安心した次の瞬間、薄くなっていた感覚が、意識が、さらに薄れていく。

「あ――――」

 マズいなあ。これまで、どういうわけだか知らないけど、視覚と聴覚には問題がなかったのに、ついにそれもおかしくなってきた。見える世界が徐々に狭まり、色が薄くなり、ぼやけていく。聞こえていた音が、徐々に小さくなり、遠くなり、途切れ途切れになる。

 ダム……ダム……。

 どこか遠くで誰かがドリブルをしている。もはやそれが敵なのか味方なのかも分からない。

 ――――――――。

 辛うじて繋ぎ止められていた世界から、徐々に切り離されていく感覚。

「――佳苗!」

 朱莉の声だ。

 それと同時に私の視界をボールが横切る。

 パスだったのか、誰かにカットされて偶然こっちに飛んできたのか。や、そんなのはどっちでもいい。とにかく、取らないと――。

 がむしゃらに走り出す。

 いま私、ちゃんと走れてるのかな……。

 自分がどんな姿勢で、どんな(ふう)に走っているのかもわからない。それでも、バウンドを繰り返しながら私から逃げようとするボールを必死に追いかける。

 あと少し――。

 そう思ったとき、低く跳ね上がったボールのちょっと先にラインが見えた。たぶん相手ゴール側のバックラインだ。

 私の周りに人の気配はない。

 せっかくのチャンスだっていうのに、このまま無駄にしてしまうのか……。

「佳苗さん!」

 千恵ちゃんの声が後ろの方から聞こえてくる。

 や、いける。まだ、追いつける!

「たあああああ!」

 叫びながらボールに向かって踏み切る。

 空中で右手がボールをガッシリと掴む。

「千恵ちゃん!」

 見えてはいない。ただ、今さっき声がした方に向かって、全力で右手を振り抜いた。

 ドサッ、と私は床に倒れる。

「ナイスパスです!」

 千恵ちゃんの声。

 よかった。ちゃんと届いたんだ……。

 スパンッ、とボールがネットの中を通った音が、凄く凄く遠くから聞こえた、ような……気が――。


          ◆


 ――真っ暗だ。

 何も見えない。ただ暗闇だけが広がっている。や、広がっているのではなく、(せば)まっているのかもしれない。私にとっては、どちらでも同じことだけど……。

 もう視覚さえもなくなってしまったのかな。

 目を凝らして、あたりを見渡す。グルリと一周……したのかも分からない。半周くらいしかしてないかもしれないし、実は三周くらいしたのかもしれない。

 けど、何も見えない。

 ふう、と息を吐き出しながら顔を上に向けた。

 そのとき、遠くの暗闇の切れ目から、白い光がスッと差し込んだ。それはまるで、夜空に浮かぶ黒い雲の隙間から覗く月の光。や、月の光そのものだ。

 少しの間、そうやって光の方を見ていると、ちょっとずつ雲が退()いていき、真ん丸の月が姿を現した。

「――ここは」

 それからもう一度あたりを見渡すと、ここが美月の家のそばにある川だということが分かった。

 ついさっきまでは学校の体育館でバスケをしていたはずなのに、どうしてこんなところに――。しかも、あろうことか、私は素足で川の流れの真ん中にいる。

 いつもの私なら、「どうしてこんなことに!?」とか言って慌てるのだろうけど、今の私の思考は異様なほどに冷たく、静かだ。

 こんな真冬に川に素足で浸かっているなんて、正気の沙汰じゃない。もし私がそんな人を見かけたら、引く。ドン引きだ。つまり、いま私は私自身にドン引きしている。

 当然冷たさなんて感じない。水の流れが足に当たっていることも、足裏に広がっているであろう小石のゴツゴツもわからない。ただ、見下ろした目に、水に浸かる自分の足が映るだけ。

 その足から少しだけ前方、屈めば丁度手が届きそうなところに、白い月の光がゆらゆらと浮かんでいる。

 私はとても緩慢な動作で、水面(みなも)の上の白い光を両手で(すく)い上げた。その両手にも感覚はない。もし感覚があったら冷たく感じるはずだ。それなのに、なぜか両手が少し温かく感じる。それが、とても大切なもののように――。

「あ……」

 不意に、大切な人たちの顔が浮かぶ。

 大事な仲間たちの顔が、大好きな人の顔が――。

 私はそれが零れ落ちないように両手の隙間を、指と指の隙間を、ギュッと閉じる。

 それなのに、少しずつ、少しずつ、零れ落ちていってしまう。

 それと一緒に、私の記憶が零れ落ちていく。

 浮かんでいたみんなの顔が消えていく。

 一人、また一人――。

 嫌だ……。

 手に力を入れれば入れるほど、流れ落ちていく。

 忘れたくない!

 止処(とめど)なく流れ落ちて、消えていく。

 ――独りに、なりたくない!

 そう叫びたくなったのを、グッと(こら)えた。

 もしこの消えていく記憶が、美月の記憶になってくれるんだとしたら、それは願ってもないことじゃないか。もちろんどこにもそんな保証はないけれど、それでも――。

 自分の両手を見ると、もうそこには何も残っていなかった。

 あたりが徐々に暗くなる。

 どうやら、月がまた雲で隠れ始めたようだ。

「……………………」

 ――どれくらいの間、こうして立っていたのだろう。というか、もう立っているのかどうかも分からない。

 暗闇に包まれたまま、私自身が薄れていくのを感じる。

 自分が何者か、分からなくなっていく。

 深い闇の中に沈んでいく。

 底なし沼に足を踏み入れたように――。

 闇に引き込まれながら、溶けていく。

 私のすべてが、消えていく。

「さようなら」

 私は右手を頭の上に伸ばしながら言う。

「そして――」

 誰に宛てているのかもわからないし、声になっているのかもわからない。でも、最後にこれだけは言いたかった。

「あ――」

「させない!!」

 大きな声と同時に、パシンッ、と私の右手を掴む音がした。感覚なんて疾うになくなっているはずなのに、右手に握られた温かさを感じる。

「だれ……?」

 声のした方に顔を向ける。

 ぼやけていてよく見えないけど、なんだか、とてもよく知っている人の顔が、そこにあるような気がする。

「佳苗っ!」

 かなえ……。なんだろう。凄く、懐かしい響きだ。

「まだだよ……。まだ終わってないんだよ。あなたが言い出したことでしょう? ちゃんと最後までやり遂げなさいよ!」

「なにを――」

 なにを、言っているのだろう……?

 もう私には、なにも残っていない――。

「あなたのことを待ってる人たちがいるんだよ!」

 誰が……?

「ミッチーに千恵ちゃんに朱莉さん、それに空閑さんにリョウさん。他にもたくさんいる。それに……高浜君だって――」

 わからない……。

「栞に勝つんだって言い出したの、あなたでしょう? そのあなたが、頑張ってるみんなをほったらかしにして、勝手にどこ行こうとしてるのよ!? そんなの、私が許さない!」

「――――っ!?」

 私の手を握る力が強くなる。

 握られたところから、温かさが全身に広がっていく。

 水面の上を広がる波紋のように、少しずつ、でも確実に、身体の隅々まで温もりが伝わっていく。腕から肩に、肩から胸に、胸から腰に、腰から脚に。そして、頭にも――。

 冷え切って、凍り付いていた頭が、温もりで満たされていく。

 ――たくさんの人たちの顔を思い出す。

 ――たくさんの出来事を思い出す。

 そして、私自身のことも――。

「そっか……」

 私の周りは――。

「そうだったね、美月」

 ――こんなにも温かかったんだ。

 険しかった美月の顔が、スッとほころぶ。

「思い出した? じゃあ、行くわよっ」

「――――」

 彼女のとても綺麗な笑顔に見とれているうちに、私は闇の中から引き上げられていた。

 

          ◇


 真っ白な世界。

 ここには、佳苗と私だけ。

 さっきまで佳苗が沈みかけていた暗闇も、川も、空も、月もない。ただただ真っ白な空間。どこまでも続く、暖かい白。どっちがどっちかも分からない。

 でも――。

「さあ、行こう」

 私はそう言い、彼女の手を引いて歩き出す。

 ひたすら進めばいい。進んだ方に出口がある。進んだ方が出口だ。そういう確信がある。

「美月……」

 佳苗が私の後ろから、躊躇(ためら)いがちに声をかけてくる。

「なに?」

「どうして、こんなことを――?」

「私があなたに凄く、物凄く、この上なく感謝してるから、かな。あなたは私にとって、凄い恩人なんだから」

 私は彼女の方へ振り返って、ゆっくり後ろ歩きをしながら、話を続ける。

「私はあなたのお陰で、今こうして生きていられる。その上、昔はやりたくてもできなかったことが、たくさんできるようになった」

「できなかったこと?」

「そう。一番はスポーツかな。生まれつき心臓が弱かった私は、スポーツというものをやったことがなかったの。一度、なんでもいいからスポーツをやってみたかった。サッカーでもバスケでも、徒競走なんかでもよかった。思いっきり身体を動かして、誰かと競って、勝って喜んだり、負けて悔しがったり、そいうことをしたかった。まあ、そんなわけだから、スポーツならなんでもよかったんだけどね……実は一番やりたかったのがあったんだ。なんだと思う?」

 佳苗は狭い歩幅で歩きながら、うーん、と腕を組んで考える。

「――バスケ?」

「残念、ハズレ。正解はCM2の後で」

「CM2!?」

「嘘、嘘。正解はね、ドッジボール」

「えっ?」

 なぜか随分と驚いた顔をしている。

「そんなに驚くようなことかな?」

「や、まあ、いろいろと……ね」

「ふーん」

「なんでドッジボールなの?」

「大した理由じゃないんだけどね、小学生の頃、休み時間になると、みんなが凄い勢いでグラウンドに飛び出して行って、ドッジボールしてたんだ。私は教室の中から窓越しにそれを見てたんだけど、それがとっても楽しそうで、羨ましかったから――」

「でも、今日の午前中、ドッジボールできたんでしょ?」

「うん。思ってた以上に面白かったよー。まあ、初めてだったから、いろいろ苦労したけど、最終的には勝てたしね」

「そっか……。その……チームの、クラスのみんなは……」

「……ん? クラスのみんなが、なに?」

 聞き返すと、佳苗は少しだけ難しそうな顔をしてから。

「――や、いいや。いろいろ聞きたいこともあったし、言いたいこともあったんだけど、美月のその笑顔見てたら、どうでもよくなったわ」

「え? 私そんなにニヤけてる?」

 私はペチペチと自分の顔を両手で触って何かを確かめる。

「自覚ないの? 今ここに鏡があったら見せてやりたいわー」

「あははっ。残念ながらその言葉、そっくりそのまま返してあげる」

「ええっ!? 私もっ?」

 彼女もペチペチと自分の顔を両手で触っている。

 二人してなんてマヌケなことをしてるんだ……。

 そんなことを思った直後、二人同時に「ぷっ……あはははははっ」と吹き出した。

 それから二人で一頻(ひとしき)り笑った。

 楽しかった。

 嬉しかった。

 温かかった。

 二人でずっと笑っていたかった。

 その理由は、きっと私も佳苗も一緒なんだと思った。いや、違う。ただ、そう思いたかった。だって、そうじゃないと、私は泣き出してしまいそうだったから――。

「さて、そろそろ行かないと、みんなが待ってるんでしょ?」

 そう切り出したのは佳苗だった。

「そうだね。それじゃ、さっさと戻るとしますか!」

 私は、レッツゴー、と掛け声をかけつつ左手をかざしながら回れ右をして、さっきまで向かっていた方にまた歩き出す。

「――じゃあ、頑張ってね、美月」

「えっ!?」

「振り向かないで!!」

 振り向こうとした私の身体を、佳苗の大声が一瞬抑止する。

「なにを言って――っ!?」

 それでも振り返ろうとした私の背中に、ドンッ、と佳苗がぶつかってきて、そのまま彼女の両腕が私の両腕とお腹をギュッと締め付けてくる。

「佳苗……?」

「お願いだから……振り向かないで」

 彼女の声は、微笑んでいるようでもあり、泣いているようでもあった。

「……どうして? ここまできたのに。あとちょっとなのに。あなただって、最後までやり遂げたいでしょ? それなのに、どうして――?」

「そうだね。ワガママを言うなら、みんなのところに戻りたいし、バスケもやりたい。せめてこの試合の最後までって、そう思ってた……」

「いいじゃない、それで……!!」

「でもね、もう無理みたいなんだ……」

 私の身体の前に回された彼女の両腕が、少しずつ、消えていく。締め付けられている感覚も薄まっていく。

「戻ろうよ、みんなのところに。それで、バスケしようよ!」

 私は喉の奥から搾り出すように声を発する。

「泣かないでよ、美月」

「だって、だって……」

 (こら)えきれなくなって、温かいものが頬を伝う。

「大丈夫。私はあるべき場所に帰るだけ。本来の役割に戻るだけだから」

 私をなだめるような、とても穏やかで優しい声。

「なんで……なんでそんなに冷静でいられるの!?」

「ずっと前から、覚悟していたことだったから――」

「嫌だよ……。私は、嫌だよ。だって、佳苗は私のためにこんなにたくさんのことをしてくれたのに、私はまだ佳苗のために何もしてあげられてない」

「そんなことないよ。本当なら数年前に終わっていたはずなのに、それが、あなたのお陰でこんなにも長いこと楽しむことができたんだから。それに、最後に、独りぼっちになりそうだった私に、こうして、こんなにも素晴らしい贈り物をくれた。それだけでもう十分だよ」

 佳苗の身体はもうほとんど見えなくなって、今にも消えそうになっている。こんなに近くで喋っているはずの彼女の声も、もう遠くの葉擦(はず)れのようにしか聞こえない。

「でも、でも……それでも私は……っ」

 次から次へと、止め処なく溢れ出す。

「参ったなぁ。ホント、彼の言うとおりだった……」

「え……?」

「や、なんでも――。そうだなあ。じゃあ、一つだけ心残りがあるから、それを美月の手で叶えてくれないかな」

「なに? なんでも言って」

「栞に勝って。バスケで栞のクラスに勝って」

「……うん。任せて」


 それじゃあ――

 

 佳苗のその言葉はもう声にはなっていなかった。

 それでも、私には確かに聞こえた。


 ――ありがとう。


「それは私の台詞だよ……。ありがとう、佳苗」

 両手で頬を(ぬぐ)ってから、振り向くことなく、しっかりと前を向いて歩き出した。

 どこまでも続く眩しい光の中へ。


          ◇


「――ぉぉおおおおおっ!!」という歓声が耳にフェードインしてくる。

 ちょうど、どちらかのチームのシュートが入ったところのようだ。だけれど、まだ目が明るさに慣れていない所為で状況がよくわからない。私は何度も(まばた)きを繰り返しながら状況を把握しようとする。

「おはよう」

 ぬっと私の前に顔が現れた。

「たっ、高浜君!?」

 ゴンッ!

「いたっ!」

「いつっ!」

 驚いて身体を起こしたら、彼の額と私の額が激しくぶつかった。

「ううう……」

 二人とも呻きながら自分の額を押さえて(うずくま)る。

「いきなり立とうとするなよ……」

「高浜君が唐突に近すぎるんだよ……」

 というか、察するに、もしかして私、高浜君に――。

「膝枕されてたっ!?」

「正解だ」

 私のそばに立っていた大きな男がそう答えた。

「誰? ……って、ああ、来栖キャプテンか」

 この学校にこれほど背の高い人間は、男子バスケ部キャプテンの来栖啓を除いて存在しないはずだ。

「膝枕は俺の案だ。グッドアイディアだろう?」

 その巨体がビシッと親指を立てて聞いてくる。

「う、うん? えーと……」

「ふはは。グッドアイディア過ぎて良い褒め言葉も見つからないようだな。案ずることはない。『なんてアーティスティックなんだ!』みたいな素敵な褒め言葉を期待しているわけではないからな。ただ一言、『グッドモーニング』と返してくれればいいのだよ」

「グ、グッドモーニング?」

「残念ながら今は夕方だがなっ!」

「ええっ??」

 私の頭の中はクエスチョンマークで満たされていた。

「もうお前は黙ってろ。お前が喋ると話が脱線するどころか、別次元にすっ飛んでくから。ほら、美月さんも困ってるだろ」

「さもありなん!」

 偉そうに言いながら胸を張る来栖君。

「悪いな。こいつのことはブレーキが壊れたジェットコースターだとでも思って諦めてくれ」

「は、はあ……」

 分かったような、分からないような。

「あ、いや、そんなことより――」

 と、本題に入ろうとしたところで、ドタドタと女子達が集まってきた。

「はぁはぁ……さっきから、なに楽しそうに、騒いでるのさ。こっちは、大変なことに、なってるってのに……」

 息も絶え絶えといった感じでリョウちゃんが話しかけてくる。

「まったくだ。遊んでる場合じゃないぜ」

 額の汗を拭いながら空閑さんが言う。

「さっさと、手助けに来い」

 どうやら試合の途中でタイムを取ってこっちに来たようだ。

 女子は全員同じように汗だくで息を切らしている。両膝に手をついて肩で息をしている()もいるし、中には疲労で脚がガクガクと震えている娘までいる。

「あのっ」

 私はそんなみんなに頭を下げる。

「ごめんなさい。私、佳苗を……連れ戻せなかった……」

 唇をかみ締める。

 せめて涙だけは、流さないように。

「なに、気にするな」

「そうです。頭を上げてください」

「……佳苗のやつ、何か言ってた?」

 朱莉に聞かれて、頭を上げてから答える。

「栞に、栞のクラスに勝って、って。それから、『ありがとう』って――」

 それはきっと私に向けたものでもあり、みんなに向けたものでもあったのだと思うから。

「――ったく、『みんなで戦って、みんなで勝てばいいのよ』とか言ったのはどこの誰だったか……」

「まあ、そう言うなスズリー。その『みんな』のうち、まだ一度もこの試合に出てないやつがいるじゃないか。そいつを出せってことだろうよ」

「そうです。それではじめて『みんなで戦った』ことになるんですから」

「はぁはぁ……。というか、代わってもらわないと、もう私が限界だわ……」

 両膝に手を置いて荒い呼吸をしながら、ミッチーが言う。

「ついさっきまでは、勝ってたんだけどね。いまさっき栞に入れられて50対51。1点差で負けてる。残り時間は、たった48秒。……美月、いける?」

「当然いけるよな、ミツキン」

「いける。……いや、勝ちにいきます」

 一瞬、みんなが息を呑んだのが分かった。

 それと同時に、自分が無意識のうちに右手の甲をみんなの前に差し出しることに気づいた。本当に無意識の行動で、自分でもビックリしたくらいだ。でも、これが私の意思ではないのだとしたら――。

「はっはっは! 上等だ。ハナッからそのつもりでやってんだからな」

 空閑さんがそう言って私の手の上に自分の手を重ねた。

「あと一本決めればいいだけだもんね」

 さらにリョウちゃんがその上に手を重ねる。

「……勝つよ」

 短くそれだけ言って、朱莉も手を重ねてくる。

「えーと……が、がんばりましょう!」

 千恵ちゃんも――。

「私たちのことも忘れてもらっちゃ困るわねー」

「そうそう。後半の最初頑張ったの私たちなんだから」

 他のみんなも次々に――。

「ちょっと、私も入れてよー」

 最後の方には隙間がなくなって、肩と肩の間から無理やり腕を入れてくる。

 そして――。

「あとは、任せたよ」

 最後にミッチーが手を重ねて、クラスの女子十四人全員の手が、みんなで出来た円の中心に重なった。

 私はみんなの手の重みを感じながら、さらにその上に自分の左手を重ねて言う。

「みんなで戦って、みんなで勝つ!」

 全員が「おーっ!!」と声を出して、一度深く沈めてから、持ち上げながら互いの手から離れる。

「さあ、行こう!」

 ――コートに出たのは、空閑さん、リョウちゃん、朱莉、千恵ちゃん、そして私。

 こっちチームのゴール下から、リョウちゃんのスローインで試合が再開する。

 受け取った私はドリブルを始める。私がバスケットボールをやるのは当然初めてだけれど、これまでに何度もやったことがあるかのように、身体が自然に動く。

 その直後、私の前にやや身長が高い娘と私と同じくらいの娘の二人が並んで立ちはだかった。

「絶対に行かせない!」

 二人は腰を落として両手を広げている。その間にはほとんど隙間がなく、どちらかの横から抜くことも、パスを出すことも難しそうだ。

 とはいえ、まあ、こんなところで時間を食っている場合じゃあないんだよね。

 私は体育の授業をずっと見学していたけど、何も考えずにただ見ていたわけじゃない。こういうときはこう動けは上手くいくんじゃないかとか、こんなプレイをしたら面白いんじゃないかとか、色々考えながら見ていた。

 そんなことを考えても無意味だと思っていた。

 一生役に立たないと思っていた。

 でも――!!

 左手でドリブルしていたボールが床から跳ね返ってきたところを、右手で左下にバックスピンをかけながら叩く。それと同時に身体を右側へ傾けて、右足を一歩だけ踏み出す。

 向かって左側の娘はボールにつられて、右側の娘は私の身体につられて、一歩ずつ左右に動く。

 真ん中!!

 踏み出した右足の反動を利用して身体を前方に。バウンドして戻ってきたボールを左手で正面に。

「なっ!?」

 驚く二人の間を飛ぶように駆け抜ける。

 視界が開け、私と反対側、右サイドを走っている朱莉がフリーなのが見える。

 ドリブルで行くよりパスを出した方が早そうだ、と真ん中のラインを越えたあたりを走る朱莉に全力でパスを出す。

 パンッ、と朱莉の右手がそれを受け止める。

「おっと。パス強いよ」

 そんなことを言って、苦笑いしているけど、随分軽々と受け止めてたように見えた。

 その朱莉に、試合終盤とは思えない身のこなしで長身の娘がボールを奪いにかかる。

 朱莉がドリブルを始めるその瞬間を狙っていたのだろうけど、朱莉の手から離れたボールは床ではなく、私の左手に、パシンッ、と強く当たった。

「人のこと言えないじゃない」

 朱莉にパスを出した後、自分でも驚くほどのスピードで、朱莉よりも相手ゴールに近い位置まで私は走っていた。

 誇張でもなんでもなく、身体が羽のように軽い。

「これ以上は、行かせないよー」

 今度は目の前に、白くて小さい少女がどこからともなく現れた。それは瞬間移動でもしてきたのではないかと思うくらい気配がなく、そして高速な動きだった。

「あなたとやりあうのは初めてだね、美月。でも負けないよ。なんせ私は万能だからねー」

 心臓がドクンと大きく跳ねる。

「『自称』でしょ?」

 私を鼓舞するように、鼓動が強く、速くなる。

 ――うん、大丈夫。

 さあ行くよ、佳苗。

 左手で真下にバウンドさせていたボールを少しだけ強く右下に。左足を一歩前に出して栞に対して半身に。右手で跳ね上がってきたボールに触れるフリを一瞬してから、高速で身体を右回転させる。その途中、左手でボールに触れ、栞と左脇のラインの間に叩きつける。そして、身体をボールと栞の間に割り込ませて、そのまま左手のドリブルで一気に駆け抜ける。

 抜いた!

 誰もいないゴール下に駆け込んで、シュートを打つ。

「あまいよっ!」

 また音もなく私の前に現れた栞が、高く、のけぞるように飛んで、私の手から離れたボールに指先を掠らせる。

 ゴンッ、とボールがリングに弾かれる。

「おとなしく入ってなさい!」

 高くジャンプした朱莉が、空中でボールを掴み、そのまま再度リングめがけて投げる。

「させない!」

 朱莉の真後ろを走ってきていた長身の娘が、朱莉とゴールの間に回り込んで飛び、指先でボールを弾く。

「しぶてぇな、おいっ」

「それはこっちの台詞っ」

 空閑さんと相手チームの娘が同時に飛ぶ。先にボールに触れたのは空閑さん。でも、すぐにそれを奪われそうになる。

「リョウ!」

 空中で相手の手をかわしながら右後ろにいたリョウちゃんにパスを出す。

「打たせないっ!」

「あんたホントいい仕事してるわ」

 即座にリョウちゃんの前に両手を上げて立ち塞がった娘に向かって言いながら、リョウちゃんは手首の動きだけで後方にボールを投げる。

「ナイスパスです」

 それをノーバウンドで千恵ちゃんがキャッチした。

「終わりです」

 千恵ちゃんはボールを持った両手を頭の高さまで上げながらジャンプした。

 そのシュートを止められる人はいなかった。もし千恵ちゃんにパスが渡った瞬間に、栞が全速力でそこへ向かっていなかったら、の話だけれど。

 栞が千恵ちゃんのシュートコースを塞ぐように高く飛ぶ。

「美月さん!」

 千恵ちゃんの横の方に移動していた私に、真っ直ぐ、速いパスが飛んできた。

「あっ!?」

 栞の目が見開いていた。

 彼女はまだ空中にいる。もう私を邪魔することはできない。

 顔の前でボールを構える。

 ――心臓の力強い鼓動が聞こえる。

 膝を曲げてから、軽くジャンプする。

 ――全身に温かい血液が巡り、指先の神経が研ぎ澄まされる。

 ああ、もう外れる気がしない。

 ジャンプが最高点に達した瞬間、左手でボールをゴールに向けて押し出した。

 直後、試合終了のブザーが鳴り響いた。

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