第4章
◇ 4 ◆
なんていうか、ますます負けられなくなったってことかな。
◇
明け方、窓を開け、外を見る。
遠くの空が、下の方から明るくなってきている。
濃い紫色から、群青色へと変わっていく。
吐き出した息が空気を白く染める。
少し動かした指先に、窓のサッシに付いていた水滴が触れた。
「冷たっ!?」
思わず、口に出して、手を引っ込めた。
部屋の中に入ってくる風が、冷たい。
そう、冷たいと感じる。
寒いと感じる。
ああ、寒いって、こんな感じなんだ。
身体が内側から痺れてくるような、そんな感じ。
とても新鮮な感覚。
だから、少しだけその感覚に身をゆだねながら、思考を巡らせる。
――いつもなら、眠くなってくる時間。
今日も段々眠くなってきてはいるけれど、まだ、寝たくない。
こんなことを思ったのは、初めてだ。
理由は色々あるだろう。いや、色々あることが理由なのだ。考えることが色々ありすぎて、しかも、ポジティブな感情とネガティブな感情が入り混じって、頭の中がぐちゃぐちゃになっている。この感情を少しでもスッキリさせないことには、どうにも眠れそうにない。
外の空気でも吸えば、この状態が少しでも改善するかと思ったけど、実際はそうでもなかった。一晩中、佳苗が残した記録を読んで、色々考えた挙句、なんの結論も出せず、なんの決断も下せないままこんな時間になってしまったという事実が突き付けられただけだった。
でも、あと少しな気がする。
あと少しで掴めそうな気がする。
佳苗の記録を読んでいる間、何度か、その内容とは関係ない光景が一瞬頭の中にフラッシュバックしては消えるということがあった。それらは、確信は持てないけれど、きっと私の、佐々岡美月の記憶だ。一瞬だけ浮かび上がっては消える、いくつかの記憶。連続はしていない点の記憶。無数の点は、一つの線になるはず。ただ、それにはまだ足りない。足りなすぎる。
無理矢理思い出そうとすると、酷い頭痛がした。
だからだろうか。
自分の記憶を取り戻すことで、何か大切なものを失ってしまう。
そんな気がした。
だとしても、記憶は絶対に取り戻したい。
だって、それがなければ、私はいつまでも佐々岡美月に戻れないから。
だって、それはきっと佐々岡美月のアイデンティティそのものだから。
「――――っ」
不意に、身体がブルっと震えた。
……ああ、窓、開けっ放しだったっけ。
窓を閉めてからそこを離れる。
冷え切った身体を自分で抱くようにしながら、結局全部は読み切れなかったノートの山を見やる。
その脇には、それらを読み始めるきっかけになった、佳苗のメモがある。
……ああ、そうだ。佳苗はまだ私が目覚めているかどうか、ちゃんと分かってるわけではないんだ。ただ、状況からそう判断しただけなんだろう。だとしたら、このまま彼女に何も伝えないのは色々とマズイ。
よし、私も彼女に倣って、メモを残すことにしよう。
私は佳苗が書いてくれたメモを裏返し、そこにカチカチ出したシャーペンの芯を当てた。
斎藤佳苗へ――。
文字を書くのは、私が目覚めてから、これが初めてではないだろうか。いや、初めてだ。
それにしては、意外と素早く、意外と綺麗な文字が書けるものだ。
身体が覚えているのか。
それとも、身体が思い出しつつあるのか。
あるいは、佳苗のお陰なのか――。
なんにしても、ほんの少し前までは、靴紐を結ぶことすら困難だった私が、普通に字を書けたという事実。それは私にとって本当に奇跡のような出来事で、心の底から喜びが込み上げてきた。
自然と、顔がにやけていた。
メモを書き終えると、一仕事終えた達成感からか、緊張の糸が切れたのか、一気に眠気が押し寄せてきた。大群になって押し寄せてきた。
――意識が一気に落ちていく。
ちゃんと、ベッドの上まで移動したのかどうかすら、定かではなかった。
◆
私の……もとい、美月の両親は共働きで、しかも二人ともシステムエンジニアとかいう小難しい名前の職業だ。業界ではSEなどと呼ぶらしいけど、別の業界では効果音という意味に取られかねない。や、「職業が効果音」って、意味不明もいいところだが……。そういえば以前お父さん――正確には美月の、だけど――が、「SEというのは『少しエロい』の略だから覚えておけ」などと間違った知識を私に植え付けようとしていた。もちろん私はそんな嘘に騙されることはなかったけど、もしお父さんに権威と名声があったら危ないところだった。なにしろ某有名漫画家はSFを「少し不思議」の略にしてしまったのだから……。
それはさておき、SEという仕事にはフレックスタイム制というシステムが導入されていることが多いらしく、美月の両親の職場にもその制度がある。どういう制度かというと、簡単に言えば、決められた時間――美月の両親の職場の場合、午前十時から午後三時――に職場で働いていて、かつ就業時間だけ働いていれば、あとは何時に出勤して、何時に帰宅してもいいという制度らしい。つまり、朝早く出勤して、その分早く退勤してもいいし、遅く出勤して遅く退勤するようにしてもいいということだ。とはいえ、忙しいときは忙しく、暇なときは暇という職種でもあるらしく、忙しいときは朝早く出て夜遅く帰ってくるか、徹夜という場合もあるけど、暇なときは朝遅く出て、夜も早めに帰ってきたりする。
そんなわけで――。
「今日は、暇なのね」
私はリビングでなぜかパジャマ姿のまま三点頭立をしているお父さんに話しかける。
「ふはは。昨日大きなプロジェクトが完遂したからな。徹夜地獄ともこれで当分おさらばだ」
無駄に割れている腹筋が見えている。
「見よ、この無駄に洗練された無駄の無い無駄な動きをっ」
言いつつ、三点頭立から頭を浮かせて普通の倒立に移行。そしてすぐに三点頭立に戻す。そしてまたすぐに普通の倒立に――。これを高速で繰り返す。
冬の朝だというのに、額に汗が滲んでいる。
見ていて暑苦しい。
「ふははははっ。頭に血が上るぞっ」
だったら今すぐにでも止めてほしい。
「あ、美月、朝ごはんできてるわ、よっ」
そう言いつつ、キッチンから早歩きでこちらに近づいてきたお母さんは、最後の「よっ」と同時にお父さんの足を思いっきり後ろに押した。
「ぬおっ!?」
当然、体勢が大幅に崩れる。
「むむむむむむ――」
思いっきりエビぞり状態のまま耐えている。そして――。
「起き上がりこぼし!」
謎の掛け声とともに逆立ちの体勢に戻った。
「ふっ。我が筋肉と背筋の前ではその程度の攻撃は何の意味も成さんのだよ」
「それなら……やあっ」
「む? むむむむむむむむむっ!? あっっーーー!!」
バタンと横に倒れて、もだえ苦しむ。
「熱い! 足の裏が妙に激しく熱いにょ!」
熱さのあまり語尾がおかしくなっている。
「あら。ごめんなさい。偶然手元に目玉焼き作ってたフライパンがあったからつい――。ああ、安心して。目玉焼きはもう全部作り終わってお皿に移してあるから」
「や、そういう問題じゃないよ、お母さん」
さすがの私もツッコミを入れざるを得ない。
「えっ? 他にどんな問題が?」
笑顔でそんなことを――。
「くそっ。こうなったら、お前のキーボードのエンターキーとバックスペースキーの動作を入れ替えてやる! 文章を打ち終わってエンターを押すたびに最後の一文字が消えるという恐怖に戦くがいい!」
凄んでいる割にとても微妙な嫌がらせだった。恐怖でもないし、戦きもしない。
「じゃあ、お返しにあなたが愛用してるマウスの右リックもチャタリングするように物理的に故障させておいてあげる」
「なにっ!? 左クリックだけでは飽き足らず、右クリックまでだと!?」
既に左クリックは故障させられているようだった。というか、そんなマウスをまだ使ってるのか……。
「右クリックがチャタリングしても左クリックほどの被害はないが、なんか地味に嫌な気分になるっ」
私には意味がわからないけど、どうやらこちらも地味な嫌がらせのようだ。――というか、チャタリングって何だろう?
「では説明しよう。チャタリングとは――」
何も言ってないのにお父さんが説明し出した。いま私、不思議そうな顔でもしてたのかな……?
「チャタリングとは、イカの胴を輪切りにして衣を付けて油で揚げたとても美味しい――」
「それはイカリング!」
カンッと、フライパンで後頭部にツッコミを入れるお母さん。
「ぐはっ!? 後頭部が痛熱い! というわけで、今日の夕飯のおかずにイカリングを希望する」
「はいはい。どさくさに紛れて夕飯のリクエストしないの。夕飯の話はいいから、まず朝食を食べましょうね」
「ふむ。苦しゅうない」
腕を組んでふんぞり返るお父さん。
「何様よっ」
カンッ!
「ふおっ!? 今度は頭頂部が痛熱いっ!」
「あら。ごめんなさい。偶然手元にフライパンが――」
「くそぅ! いい歳して大人げないぞ!」
「あらやだ。私はまだ二十六歳よ」
「二十六だと。何を言って…………はっ!? それは十六進数で表してるなっ!」
「年齢を十進数で言わなければならないなんて決まりはないわ」
「くっ……相変わらずムカつくどや顔だなおい」
――そんな、美月の両親がともに仕事に余裕があるときの、普通の朝だった。
◆
私は薄くなった感覚を頼りに、なんとか駅までたどり着いた。というか、家から駅まで、普通に歩いて十数分の距離なのに、ここまで苦労するとは……。
ふと、リハビリをしていた頃を思い出した。
そうだ。あの頃は、もっと薄い感覚の中で、必死に歩く練習をしていたのだった。
あの頃と比べれば、今は全然マシだ。うん。いけるいける。
今朝、寝起きに見た美月の返事。
「斎藤佳苗へ。佐々岡美月です。今まで本当に色々ありがとう。実は、今の私には移植手術を受ける前の記憶がないんです。でも、もう少しで思い出せそうだから、安心してください。だから、それまで、私が記憶を取り戻すまで、あとちょっとだけあなたに任せてもいいですか?」
――もちろん!
私はそう答えた。
そう返事をメモに残した。
だから、まだ、頑張らなくては。
でも、美月には悪いけど、ちょうどよかったかもしれない、とも思う。なにせ、明日は例の球技大会の日なのだ。最後にそれくらい楽しませてもらっても、バチは当たらないだろう。
改札を通り、ホームまで、階段を下りていく。
慎重に、慎重に。
足元を見ながら、ゆっくりと。
……こんなんで球技なんてできるのだろうか。
難しいだろうな。
でも、ノリと勢いでなんとかなるかなぁ……。
などと考えながら、階段を下り切り、そのまま自分の足元を見ながら歩いていると、ドン、と頭が誰かにぶつかった。
「あっ。ごめんなさ――って高浜君?」
慌てて顔を上げると、今ぶつかった相手が高浜君だったことに、多少の驚きを覚えた。だって、今日は普通にバスケ部の朝練があるはずなのだ。
「よう」
「おはよう。えーと……」
挨拶をしながら、私は高浜君がこの時間にここにいる可能性を二つほど思いつく。
「今日も栞たちにコート乗っ取られたの?」
「いんや」
はずれ。
ということは、考えられる可能性はあと一つ。
「じゃあ、寝坊?」
「残念。それも違うんだなぁ」
おっと、手詰まりだ。
オセロで四つの角すべてを取られたときの気分。
ここは降参するのが潔いだろう。
「じゃあ、なんでこの時間にここに――?」
「昨日の夜、なぜか清澄さんから俺のケータイに電話があって。いや、ケータイの番号教えた記憶はないんだけどね……。なんで知ってるんだろ……。まあ、それはいいや。で、清澄さんが、『明日の朝、美月が大変なことになってるかもしれないから、駅で待っててあげて。ああ、彼女の家の前で待ち伏せしててもいいよ。その場合、私が、クラスメイトの女子の家の前で待ち伏せしてるストーカーがいます、って通報するけどね』とか言っていたからさ」
「…………」
流石は栞だ。
読まれている。
気づかれている。
それも、完璧に。
――高校一年生の初め、同じクラスに清澄栞がいたことに、私は途轍もなく驚いた。それと同時に自分の目を、耳を、疑った。だけど、その色白で高校生とは思えないほど小さい――「何この可愛い生き物、持って帰りたい」と思うくらいの――少女は、その特徴ある澄んだ声で、確かに言った。「私は、万能です」と。あの容姿で、かつ、初対面の人たちを前に、声高々にそんなことを言える同年齢の女子なんて、私が知っている清澄栞しかいないはずだ。や、いない。他にいてたまるものか。
そもそも、数年前に親友だった人を見間違えるわけがない。
でも、栞が、こんなレベルの低い――偏差値六十程度だけど、彼女にしてみれば低すぎると言っても過言ではないくらいに低い――高校に、なぜ入学したのか。その理由を、同じクラスのミッチーこと、相沢美智子が一年生の初めのころに聞いたらしく、私はミッチー経由で聞いたのだけど、とても単純で明快だった。
『面白そうだから』
ただ、それだけ。
どうやら、栞の目から見て、私たちの高校は、「面白そう」な高校らしい。や、私からしても、実際に面白い。色々と――。ただ、その面白さは、栞がいることで、二倍にも三倍にもなっていることは確かだ。
それはいいとして、私が一年生のときに栞と同じクラスになり、最初に心配したことは、私が斎藤佳苗であることがバレてしまうのではないかということだった。だから最初に栞と話すとき、「はじめまして」という自分の言葉が、緊張のあまり、やけに片言のようになっていた気がした。
心臓移植云々の話をしたら確実にバレてしまうと思ったから、当然それは隠して、過去の話もなるべくしないようにしてきた。
斎藤佳苗としての性格も、なるべく表に出さないようにしようとした。ただ、それはあまり上手くいかなかった。
私は演技が下手だった。
私は自分を偽るのが下手だった。
だから栞に「中学の頃、あなたによく似てる友達がいたんだよー」くらいのことは言われるだろうと覚悟していた。そう言われたときに、いかに自然に、冷静に対応するかも、事前によく準備していた。でも、私が佐々岡美月として栞と仲良くなって、友達として、親友として、ずっと一緒に過ごしてきたけれど、そんなことは一度も言われなかった。
だから、バレていないものだと思っていた。
だから、気づかれていないものだと勘違いしていた。
――ああ、まったく、私はなんて馬鹿なんだろう。
気づかれないはずがないのだ。『栞だから』という一言ですべてを納得させてしまえるほど何もかもが規格外な彼女に、私の存在ごときが、バレていないはずがない。
恐らく、いや、ほぼ確実に、高校一年生のときに初めて会った瞬間にバレていたのだろう。
「おーい。なんかボーっとしてるけど大丈夫か?」
高浜君が私の目の前で手をパタパタ振りながら心配している。
「あ、うん。だいじょ――」
ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ、と鞄の中でケータイが震えた。
「あ、ちょっとゴメン。なんかメール来たみたい」
言って、鞄の中からケータイを取り出してメールを確認する。
『差出人:清澄栞 表題:無題』
――栞からだ。
『ハヨー。調子はどうかな? 高浜君送り込んどいたから、よろしくやっといてねー』
何を!?
『あと、お節介かもしれないけど、私から森広先生に話しといたから、何かあったら森広先生に相談とかするといいよ。あ、もちろん森広先生には他の人に言わないように口止めしてるから大丈夫だよー。イジョ』
既にうちの担任にまで根回しをしているとは、さすが栞だ。
私の状態もこんなだし、何かあってからでは遅いから、担任くらいには知られていてもいいのかもしれない。ただ、どこまで栞が話したのかが気になる。あと、あの森広先生にどこまで栞の口止めが効果を発揮するのかも疑問だ。たとえば、森広先生が美月の両親に栞から聞いた話をしないとも限らない。
「――うん。心配だ」
「え? 何が?」
「高浜君!」
「は、はいっ?」
「急いで学校行こっ」
そして森広先生に会って、栞からどこまで聞いているのかくらいは確認しよう。
「ああ、それはいいんだけど――」
何やら困った顔をして視線を横に逸らす高浜君。
「なに?」
「……いや、電車一本分、急げなくなった」
言われて、高浜君の視線の方を見ると、ちょうどホームに来ていた電車のドアが閉まって、ゆっくり走り出すところだった。
「どうして早く教えてくれなかったのっ!?」
無駄に高浜君に掴みかかる。
「お、俺の所為か?」
「たぶんねっ!」
「たぶんかよっ!」
まあ、よくあるやり取り。
「…………」
ただ、今回は私が勢いよく掴みかかったから、お互いの顔がやけに近いことに今気づいた。お互いの呼吸のリズムが分かるくらいの近さ。初めは大して気にならなかったけど、気にし出したら、一気に……一気に、なんだろう?
……恥ずかしい?
近いまま、目が合ったまま、無言の時間が続く。
……や、気まずい!
どうすれば!?
そうだ、私が高浜君に掴みかかっているだけなのだから、私が放せばいいんだ。
「……こほん」
無言のまま高浜君から一歩離れて、咳払いをする。
咳払いという行為が既にわざとらしいけど、その咳払い自体もかなりわざとらしいものになってしまった。やはり私は演技が下手だ。
高浜君は高浜君で、
「むぅ……」
とか言いながら、後頭部を掻いていた。
◆
私は一人で家庭科室のドアを開けた。
そこには――
「ここで待っていれば、必ずあなたは来ると思っていましたよ」
私に背を向け、そんな台詞を言っているのは、数学教師、私の担任、森広先生だった。
「や、そりゃ校内放送で、堂々と私の名前とこの場所を指定して呼び出しかけたら、嫌でもここに来ますって……」
しかも、私が校内に入った瞬間、見計らったように校内放送が入った。
や、問題はそんなことよりも――。
「いえいえ、校内放送をしたのは僕ではありませんし、僕が頼んだわけでもありません」
「そうなんですか……。や、むしろそうでしょうね」
「清澄さんが勝手にやったことです」
まったく……。あいつは放送委員だったか?
いや違う。
即答できるくらいに違う。
でも、私の耳に入ってきた放送の声は間違いなく栞のものだった。第一声で、や、第一オノマトペで分かった。
「なんにしても、『ピンポンパンポン♪』は自分で言うものではないと思うんですけどね」
先生がとても真っ当な感想を漏らす。
「同感です」
ホント悪ふざけもいいところだ。
つーか、なんで栞は私と先生を会わせる場所に家庭科室をチョイスしたのだろうか?
単なる気まぐれなのだろうか。それとも――。
「まあ、それは置いておいて、もうすぐ朝のホームルームも始まってしまうので、早々に本題に入りましょうか」
森広先生は私の方に向き直ると、黒フレーム眼鏡を右手の中指でスッと直しながら言う。
「あの……」
「いや、何も言わなくても大丈夫ですよ。大体の事情は把握しているつもりです。なにしろあの清澄さんから聞いたのですからね」
当然といえば、当然。先生たちの間でも栞の信頼度は途轍もなく高い。
校長先生の意見よりも栞の意見の方が優先されるという噂まであるくらいだ。
そんな栞から『事情』を聞いた森広先生は話を続ける。
「――つまるところ、あなたはクラスメイトの高浜君のことが好き、ということですね」
「…………は?」
「しかも、あなたは以前彼から告白されていて、それを断っているそうじゃないですか」
「あの……なんの話を……」
「一度振っているから、今更言い出すことも憚られるのですね。分かります」
なんか勝手に分かられてる!?
「しかし、なぜ清澄さんが僕にこんな話をしたのか解せません」
私にも解せないんですけどっ!?
「なんにしても、僕から何らかの介入をするようなことはしませんし、誰かにこの話をするつもりもありませんので安心して……あれ? 佐々岡さん?」
後半の先生の言葉はほとんど耳に入ってこなかった。
私はただ拳を握りしめて、肩を震わせながら叫ぶ。
「しぃーをぉーりぃーーーーーっ!!」
全力ダッシュ。
身体が思うように動かなかったことが嘘のように、怒りで全身が跳ねるように動く。
陸上部時代最盛期のときと同じ、や、それ以上のスピードでもって家庭科室を飛び出し、栞のクラスを目指して走る。廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、駆け上がり、また廊下を疾走する。
と、栞がちょうど教室に入っていくのが見えた。
「しぃぃーをぉぉーりぃぃぃーーーーーっっ!!」
お腹の底から出した、さっきよりも怨念を込めた声で叫びながら、栞に突っ込んでいく。
当然、「ボケとツッコミ」の「ツッコミ」の方ではない。
闘牛士に襲いかかる闘牛の如く、栞に突っ込んで行く。
「あにゅ?」
私に気づいた栞は、へんちくりんなワードを口にしながら、こちらに身体を向ける。
その瞬間、私は彼女の両肩をがっしりと掴んで、走ってきた勢いそのまま廊下の隅まで押していく。
ドン、と廊下の隅の壁に栞の背中が当たったところで、私たちは止まった。
それまでの間、栞の足が床から数センチ浮いていた気がする。
どんだけ軽いんだこいつは。
「あははははっ。朝から楽しげだねー?」
本当に楽しそうな顔で、陽気な笑い声を上げる栞。
私を遊園地のアトラクションか何かと勘違いしているんじゃないだろうか。
「こっちは全然楽しくないっつーの! あんた、森広先生になんつーことを吹き込んでくれてるのよ!」
「うん? 私は客観的事実を淡々と告げただけで、何も間違ったことは言ってないと思うけどなぁ」
「あってるとか間違ってるとか、そういう問題じゃないの!」
「うーん?」
じゃあどういう問題? と言わんばかりの顔で小首を傾げる栞。
まったく、まったくこいつは!
「まあまあ、そんな怒った顔しないで」
「誰が怒らせてるんだ」
「気づいてなかったのは森広先生と高浜君本人くらいなもので、他のクラスメイトはほぼ全員気づいてることだと思うけど?」
「え……!?」
思いもよらない言葉に、思わず呼吸が止まる。
「にゃはは。気づかれてないとでも思ってたの?」
「そ、そんな――」
――はずはない、とは言えなかった。
自分ではその気持ちを抑え込んでいたつもりだった。隠しているつもりだった。
でも、考えてみれば私は、演技が、自分を偽るのが、ほとほと下手なのだった。
「まあまあ、そう落ち込まないで。そこがあなたのいいところでもあるんだからさ」
にぱっと笑うと、栞は私と壁の間からスルリと抜ける。そして、その笑顔のまま、さらっと言う。
「それから私、バスケ部の武部君と付き合うことにしたから」
「へえ………………って、はぁっ!?」
は? いまこいつ何と――? 武部君って、あの栞のこと好きだとか言って来栖キャプテンに相談したりしてたあの? それならまあ話は分からなくも……いやいやいやいや、分からないって! 大体、栞、キャプテンからそのことを聞いて、断ってたんじゃなかったっけ? よく知らないからとかなんとか――。それに、実は栞はこれまでにも数人の男子から告白されていたけど、全部断ってたじゃないか。っていうか栞に告白するとか、ロリコンだロリコン! そうか、武部君もか。武部君もなのかっ。男はみんなロリコンなのかっ!
唐突な栞のカミングアウトに頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「――というのは半分冗談で」
「は? あ、ああ、冗談ね。冗談。そうだよね。あはははは。…………って、半分?」
「そ。半分」
そう言って、栞は自分のスカートのポケットから真っ白の携帯電話を取り出す。
……そう、栞はケータイまで白なのだ。というか、元は別の色だったケータイを自分で白くしたようだ。そのうち学校指定の紺色のローファーまで白く塗りだすんじゃないかと気が気でない。
「武部君から告白されたんだけどね、いや、流石によく知らない人と安易に付き合いたくはないから、とりあえずお友達からってことで、ケータイの番号とアドレスの交換をしたのよ」
「そ、そう……」
まあ、その程度のことならこれまでにも似たようなことが何度か――。
「ただし、武部君に教えたのは私のケータイの番号とアドレスじゃなくて、美月の番号とアドレスだけどね」
「ないよ!!」
これまでにこんなこと一度たりともなかったよ! あってたまるものか!
「なにさ! 何がしたいのさ、栞はっ!」
「これで、夜な夜な美月のケータイに武部君から愛のメールが来るように――」
「なってたまるかっ!」
「あははははっ。冗談、冗談。流石にこれは百パーセント冗談だよ。はははははっ」
お腹を抱えながら笑う栞。
そんなに私の反応が面白かったのか。
「こんにゃろ!」
なんだかムカついたから、栞の頭を掴んで髪をぐしゃぐしゃにしてやろうと思い、手をブンと振り下ろす。が――。
「はははははっ」
笑いながらも栞はスッと私の手を避けた。
「む……」
もう一度、今度は反対の手を、さっきよりも少し速く振り下ろす。
「おっと」
……また避けられた。
「……このっ」
「あはっ」
また――。
「このっ。このっ。このっ!」
「ほっ。ほっ。ほっ」
栞の頭を狙い、左右の手を交互に振り下ろしたが、ことごとく躱された。ピコピコと、まるでモグラ叩きのよう――。
「くっ……」
「まだまだ甘いねー。っと、そろそろホームルーム始まっちゃうから教室戻らないとだよ」
栞は私のすぐ横を通り過ぎて、スタスタと自分の教室の方へ歩いて行く。
「あ、うん……」
少し遅れて私も彼女の後ろを追おうとする。と――。
「――とりあえず、安心したよ」
言って、栞はスタっと歩みを止めた。
そして、クルリとこちらに振り返ると、いつになく楽しそうな顔で――。
「まだまだちゃんと動けるみたいだね。じゃあ、明日の球技大会、全力でいかせてもらうよ♪」
まったく。たとえどんな状況であっても、手を抜く気など全くないくせに――。
◇
眠りの中。
それは夢のようであって夢ではなかった。
夢でないことは、すぐに分かった。
それは、あまりにも鮮明で、どこまでも鮮烈で、圧倒的に明確な、私の過去の記憶だった。
思えば、とても平凡で、つまらなくて、幸せな幼少時代だった。
――生まれつき私は心臓が弱く、ちょっとした運動すら困難だった。できて、ちょっとした小走り程度。全力疾走なんてできるはずもなかった。少しでも激しく身体を動かすと、たちまち胸が苦しくなって、立っていられなくなってしまうのだった。
ただ、それ以外は、至って普通だった。普通に小学校に通い、普通に授業を受け、普通に友達と談笑する。どうでもいいことだけれど、女子の間で占いが流行っていた。よく覚えていないけれど、三つのサイコロを使う占いだった気がする。あと、ときどき男子に混ざって特殊な鉛筆を転がして戦う遊びもしていたような……。
まあ、そんなこと今となっては本当にどうでもいいことだ。だけれど、当時の私はそれで楽しかった。それで幸せだった。何か特別なことが起こるわけでもない、ただの日常が。
ただ一つ、たった一つの不満を除いて――。
運動ができないということは、当然、体育は全部見学。サッカーもバスケもリレーも跳び箱もマット運動も縄跳びも水泳も――全部、全部。
グラウンドの隅にしゃがみ込んでひとりで眺める、みんなが楽しそうに運動している姿が、羨ましくてしょうがなかった。
あるクラスメイト言った。
「佐々岡さんが羨ましいよ。私、運動すっごく苦手だし、できることなら、佐々岡さんみたいにずっと体育見学してたいな」
その言葉に悪意などなかったのだろう。それどころか、私を気遣った言葉だったのかもしれない。だったとしても。そうだったとしても、私にはその言葉が腹立たしかった。
見学したいのなら、すればいい。仮病でもなんでも使って。あなたには、選択肢がある。運動することも、しないことも、選ぶことができる。私には、それができない。私には、運動する、という選択肢が存在しないのだ。
それに、そんなことを言っておきながら、あなたは、笑っているじゃないか。体育の授業中、確かに運動神経はいいようには見えないし、何かの試合で活躍しているわけでもないけれど、楽しそうに笑っているじゃないか。
――ムカつく。
そう思うと、胸がズキリと痛んだ。
嫉妬心。
ないものねだり。
そんな思いを、グッと抑えて、私は生きていた。
でも別に運動ができなくても、楽しいことはたくさんあった。
友達とテレビゲームをして遊んだ。トランプをして遊んだ。漫画を読んだ。小説を読んだ。歩くことはできるのだから、家族旅行だってできた。
そう。私は幸せだったのだ。
小学校六年生の夏までは――。
きっかけは些細なことだった。いや、きっかけですらなかったのかもしれない。
その夏一番の暑さの日だった。
身体が熱くて、意識がふらふらとしていた。
ちょっとした脱水症状だと思った。
家族も、私自身も。
ところが、病院で点滴を打って安静にしていても、全然良くならなかった。良くなるどころか、悪化していった。
大きな病院に運ばれ、精密検査を受けて、そのまま入院することになった。
どうやら私の心臓が悪い状態になってしまったらしかった。
手術をすればどうにかなるといったものでもないようで、ひたすらベッドの上で点滴の日々だった。
初めのうちは車椅子で移動するくらいのことはできた。
でも、数ヵ月後にはそれさえする元気もなくなり、寝たきりになってしまった。よくお見舞いに来てくれていた友達も次第に来てくれる頻度が減っていった――。
思った。
たかが運動できないことがなんだったんだろう、と。
私はなんてくだらないことで嫉妬して、腹を立てていたんだろう、と。
私は失った。
運動はできなくても、楽しいことがたくさんあった日々を――。
幸せだった日常を――。
それから私の症状は、少しずつ、本当に少しずつ悪化していった。
じわり、じわり、と私を追い詰めるように――。
◇
ある程度予想はしていた。
それなりの覚悟もしていた。
でも、だからといって、このタイミングはないだろう。
なんだろう。悪意があるのではないかとさえ思ってしまう。
それほどに、絶妙なタイミングだった。
それほどに、残酷なタイミングだった。
「どうしたんですか? 佐々岡さん。まさか、分からない、なんてことはないですよね?」
眼鏡を右手の中指でスッと直しながら、数学の先生らしき男性が私を見据えている。
「うぐぐ……」
いくら記憶が全部戻ったとはいえ、私の知識は数学どころか小六の算数レベルで止まっているのだ。その知識でいきなり高校二年生の数学の授業についていけるわけがない。もう頭の中はクエスチョンマークだらけだ。
いま私が解くようにと先生に言われた問題をもう一度見てみるが、これがどうにも意味不明でならない。なぜエックスが出てきているのか。いや、エックスくらいならまだいい。そのエックスの右上についている小さい2はなんだろうか。印刷ミス? 嫌がらせ? いやいや、それらは読めるだけまだマシだ。最大の問題はコレ。式の一番左にある「∫」という謎の記号。もはやどう読むのかすら分からない。何かの呪文の一部に使われていそうな記号である。
とまあ、こんな状況に陥る直前に私は目覚めたわけだから、逆に言えば、その直前に佳苗は眠りに就いたということだ。
――いや、彼女に悪気はないはず……たぶん、恐らく、きっと。
こんなことなら、彼女の「日常の記録」だけでなく「授業の記録」、すなわち授業用のノートも読んでおくんだった。……読んだところで、一晩でここまで追いつけるわけなどないのだけれど。
「2エックス3乗マイナスエックス」
「ほへ……?」
右隣の席から小さな声が聞こえて、思わず妙な声を出してしまった。
「ん? どうしたんですか? やっと答えが分かったんですか?」
「あ、ええと……」
どうやら、先生には今の隣の人の声は聞こえなかったようだ。席が後ろの方でよかった。そして今のはきっと答えを教えてくれたんだ。
そう信じて、私は同じことを口にする。
「2エックス3乗マイナスエックス……です」
「はい、正解です。いや、よかったよかった。佐々岡さんの数学力が急低下したのかと不安になりましたよ。ははは」
先生は笑いながら黒板に向かって、私が言った答えを書いていく。
ごめんなさい。急低下どころか、地面まで垂直落下してます。佐々岡美月の数学力……。
それはそうと、さっき隣から聞こえた声に、なぜか聞き覚えがあったんだけど。
そう思い、チラッと右隣を見て、思わず「あっ」と声を出しそうになって、どうにか堪えた。
そこには、現在このクラスの男子で唯一顔と名前が一致してる人――高浜祐樹君が座っていた。
◇
さて、困った。
色々と考えたいことがあった。
記憶が戻ったことで、思っていたほど何かが劇的に変わったわけではなかった。記憶が戻っても、結局私は私のまま。ただ、私が私であること、私が佐々岡美月であることに強い確信と自信が持てるようになった。ただそれだけのこと――。
とはいえ、全く何も変わらないということはない。
むしろ、これから色々なことが変わっていくことになるんだろう。
そして、どう変わっていくかは私次第なところが大きい。
だから、これからどうしていくかを本気で考えなくてはいけない。
考えるべきことは、たくさんある。
だというのに……。
「じーーーーーー」
見られてる。
「じーーーーーー」
なんか見られてるよっ!?
「あの……高浜君、なんでそんなに見てるの?」
私の机を挟んで、ちょうど正面に座って、わざとらしく「じーー」とか口で言いながらずっとこちらを見ている高浜君に話しかける。
「いや、だってほら、『ちゃんと見てろ』って言われたから」
「そういう意味じゃないと思うよ!」
なぜこんな状況になっているのか。理解が追いつかない。
別に目が覚めたら既にこんな状態になっていたというわけではない。私はあの数学の時間からずっと起きていたし、周りで何が起こっていたかもちゃんと見ていた。
ただ、ほんの数分のうちにこの状況になってしまったものだから、頭の方が状況変化についてこれなかった。
だから、改めて何がどうなってこんなことになっているのかを整理することにする。
――ことが起こったのは本当に数分前のこと、かろうじて五分経ったかどうかといったところだ。
「それでは、今日の授業はここで終了します」
数学の先生がそう言い終わった直後、見計らったように授業終了のチャイムが鳴った。それは同時に昼休み開始のチャイムでもあった。
そして、教室内が一気に騒がしくなる。
ただ、どういうわけか、その騒がしさは、私の知っている休み時間特有の無秩序な騒がしさではなく、ある種の統率が取れた騒がしさのように感じた。その騒がしさは、同じ目的を持っているようだった。その騒がしさは同じ方向を目指しているようだった。例えるなら、みんなで一匹の獲物を集団で仕留めにかかっているような――。
そしてみるみるうちにその喧騒は私に向かって押し寄せてきた。
え? 私が獲物? などと考える余裕もないうちに、私は大量のクラスメイト――その大半が女子だったけど、男子も数人混じっていたようだった――に囲まれた。
「やあ、ミツキン。元気か?」
私を囲んだ女子集団の中でも前の方にいた人が話しかけてきた。
なにやら変なあだ名で呼ばれた気がする。
茶髪のショートカット。若干つり目。そして変なあだ名。
ああ、この人が『ノリと言葉の響きだけで人にあだ名をつける女』空閑晴河さんか。
「ま、まあまま元気、だけど……?」
私は初対面の相手に、少し戸惑いながら返事をする。
「そうかー、それは残念だなぁ」
と、今度は空閑さんの隣にいた、黒のミディアムストレートヘアで若干細め体型の女子が話しかけてくる。しかも、残念、などと言いながら、顔は嬉しそうだ。満面の笑みだ。
「『まあまあ』ってことは万全ってことではないんでしょ? 明日の試合に向けて体調は万全にしといた方がいいよねっ」
「ちょっと待て、リョウ! ここはアタシが説明するって約束だっただろ」
リョウ?
ああ。ということは、こっちの人は岡島涼香、通称「リョウちゃん」か。
確かこの二人はバスケ部だったはずだ。
「別にいいじゃない。誰が言っても同じことなんだし。それに、そんな約束をした覚えはない」
「なに!? 覚えがないだと? 一夜限りの過ちだったと!? 酒に酔った勢いだったとっ!?」
「どうしてそういう発想になるのさっ! 酒なんて飲んでないし!」
「乙女の純情を踏みにじりやがって! もうアタシ、お婿に行けない!」
「人聞きの悪いことをっ! ってか、女か男かはっきりしろっ」
「どう見ても女だろ!?」
「いや、全体的に男っぽいし」
「なっ!? 誰がナイチチだっ」
なんかよく分からないうちに謎の漫才が始まっている。
「あー、ダメだ。この二人じゃ話しが進まない。私が話を――」
横から、特徴的な短めのサイドポニーの女子が割り込んでくる。身長は低めだ。
まあ、このクラスでサイドポニーってことは――。
「「ミッチーは黙ってて!」」
空閑さんとリョウちゃんの声が見事にシンクロした。
ともかく、今割り込んできたのはミッチーこと相沢美智子。陸上部で種目は長距離……だったはず。
「なにをぅっ」
と、ミッチーが空閑さんたちに向き直る。
「――要するに、私たちは練習に行きますけど、美月さんは昨日の今日ですから、ここでゆっくり休んでいてください、ということを言いに来たんですよ」
このタイミングで割り込まれたっ!? のようなことを、空閑さん、リョウちゃん、ミッチーの三人が同時に言ったようだったけど、今度は三人が同じようで違う台詞だったから、それぞれが何と言ったのか正確にはわからなかった。
「ナイス千恵ちゃん」
そう言いながら、最後に割り込んできた千恵ちゃんの頭をワシワシと撫でているのは…………観察するに、たぶん鈴村朱莉だ。百七十センチ近くはありそうなスラッとした長身。ただでさえ背が高いのに、凄くいい姿勢で立っているから、余計に長身に見える。
そんな朱莉に、えへへー、と言いながら、飼い主に頭を撫でられている猫のような顔をしている千恵ちゃんは逆に女子の中でも背が低い方だから、朱莉と千恵ちゃんそれぞれの高さと低さが強調されている。
と、いうか、この二人、こんなに仲が良かったのか。佳苗の日記からはそんな情報は読み取れなかったのだけど……。もしかしたら、バスケの練習から逃げようとしていた組として、この数日で友情が芽生えたのかもしれない。
だとしたら、なんというか……嬉しい。
「あと付け加えると、今日は男子と合同練習するから、クラスみんなで練習行く」
「おおっ!? その説明まで取られた! しかもスズリーにっ」
と、謎の驚きを見せる空閑さん。
「スズリーって、もしかしなくても、私のことだよね……」
なんか、墨が磨れそうなあだ名だ。
そんなあだ名を付けられ、不服そうな顔をする朱莉に対して得意げな顔で空閑さんが答える。
「おう。『すずむらあかり』だからな。最初と最後を取ってスズリーだ。カッコいいだろ」
「微妙」
凄く細い目をして答える朱莉。
「微妙とか言うなっ! まあいい。一番大切な話が残っているからな。では、その話をアタシが――」
「ちなみに、全員で行ってしまうと佐々岡が独りになってしまって可愛そうだから、コイツを置いていくことにする」
後ろの方から私の周りの人たちを掻き分けるようにして、クラス一でかい男子が、高浜君を摘んで持ってきた。そして、私の前の席の椅子を私の方に向くように回転させると、高浜君をそこにドサリと置いた。
「あの……俺、そんな話聞いてな――」
「というわけだから、高浜君、美月のことちゃんと見ててねー。じゃあ、私たちは行こうかー」
ミッチーのその言葉をきっかけに、全員がぞろぞろと教室から出て行った。
私と高浜君と、空閑さんを残して。
空閑さんが悲しそうな顔をして言う。
「……なあ、ミツキン。これは集団イジメじゃないだろうか?」
「いや、そんなことはないと思うけど……」
「アタシだって、ミツキンに何か説明したかったのに! みんなの馬鹿ーっ! 今日はアタシ遅刻しなかったのにー!!」
最後は関係があるんだかないんだか……いや、高確率で関係ない台詞を叫びながら彼女は教室を飛び出して行った。
――そして、私と高浜君の二人だけになった。
「……なあ、ミツキン。これは集団イジメじゃないだろうか?」
高浜君が空閑さんと全く同じことを私に聞いてきた。
「いや、そんなことは…………」
こちらは否定しきれないものがあった。
「――で、君は誰なんだ?」
「え……!?」
唐突に発せられた、高浜君の鋭い言葉と視線に私の思考が止まった。
「よくよく考えてみれば、俺達、何度か会ってるよな?」
自分の記憶を探るように、眉間のあたりに右手の人差し指を当てて考えながら言う。
「少なくとも、これまでに二回は会ってるな。確か両方とも、会ったのは家のそばの川原だったか――」
「…………」
「なーんて、カッコつけたこと言ってるけど、気づいたのはついさっきなんだけどね」
彼はおどけるように、表情を崩して言う。
「さて、そろそろ答えてほしいんだけど。君は美月じゃないだろ?」
「いや、私は……」
何か答えなくちゃ、と思って口を開いたけど、その先が続かない。
何をどう説明すればいいんだろうか?
そもそも、説明していいのだろうか?
高浜君に気づかれてしまったという事実が、なぜか私の胸をギュッと締め付ける。
昨日、栞に事実を突きつけられたときだって、ここまで苦しい感覚はなかったのに。
だいたい、彼女がすべてを知っているのは仕方がないことだとして、高浜君にはどうして気づかれてしまったのか?
いや、逆だよ。逆。
どうして今の今まで彼は気づいてくれなかったのか。
だってそうでしょ。彼は一度「美月」に告白してるんだよ!?
今はどうだか知らないけど、自分が好きになった人の中身が本人かどうかなんて、普通最初に会ったときに気づくでしょ。それが無理でも二回目には気づこうよ。ついでに、昨日の放課後にも一回ここで会ってるよ! それには気づかなかったの!?
「――ホント、鈍感……」
「え?」
「鈍感って言ったのよ!! まったく……」
大きな声を出したら、まあ、少しすっきりした。
彼は驚いたような、困ったような顔をしているけど。
――ああ、そうか、彼のさっきの質問にはまだ一切答えてなかった。
「うん。確かに私はあなたが知ってる『美月』じゃない」
もう、迷いはなかった。
「でも、それは半分間違い。本当は――」
きっと佳苗は望んでいないだろうけど、でも、やっぱり、どうしたって――。
「私が『美月』で、あなたが知っている方は『佳苗』って娘なんだ」
◇
――ああ、私はなんて自分勝手だったんだろう。
そんな自己嫌悪に私は沈んでいた。
今日一日、いや、半日くらいだった。まあともかく、それだけの時間を学校で過ごして、ようやく気づいた。どうして今まで気づかなかったのか。佳苗の「記録」を読んで気づくことだってできたはずなのに。
クラスメイト全員が私に優しかった。
それは、クラスメイト全員が佳苗に優しいということ。クラスメイト全員と佳苗が仲良しだということ。
朱莉や千恵ちゃんのように、最近仲良くなった娘もいるけれど、佳苗はこんなに多くの人と仲良くなっている。
私に同じことができるかと問われたら、答えは確実に「ノー」だ。私は引っ込み思案だし、佳苗ほど他人に気配りができるわけでもない。現に、私の記憶の中で、こんなに多くの友達がいた時期など一度もなかった。
それに、なにより、佳苗はあの超人真っ白娘の人生を変えてしまっている。佳苗はそれだけ凄い人なのだ。
そんな佳苗が、私のために多くの時間を使い、私のために多くの苦労をして、そして、私のために何の躊躇もなく消えていこうとしている。「何の躊躇もなく」は私の勝手な考えだけど、そんな気がしてならない。
本当にそれでいいのだろうか?
確かに心臓以外はすべて私の身体なのだけれど、だからといって、そんなことは私の中の佳苗の存在が消えていい理由にはならない。だというのに、私は彼女が消えていくことが自然なことのように、当然のことのように、今朝メモを残してしまった。
――今まで本当に色々ありがとう。
――だから、それまで、私が記憶を取り戻すまで、あとちょっとだけあなたに任せてもいいですか?
なんて身勝手なことを書いているんだろうか、私は。
それに対して――。
「もちろん!」
私のそのメモの下に書かれた、私のとは違う特徴を持った文字。こんなにも短い文なのに、たった一言なのに、思いやりと慈しみに満ちているように感じる。これが「佳苗」なんだろうな、と思う。
――私はすでに一度彼女を裏切っている。だから、まあ、「だから」というのもおかしな話なのだけど、もう徹底的に彼女を裏切ってやろうと思う。まあ、「裏切る」といっても、悪いことをするのではなく、私が彼女にとって良いことだと思えることをするだけ。
彼女の期待を裏切る。
彼女の希望を裏切る。
つまり、彼女が思っている通りにはさせない、ということ。
まあ、彼女にとっては悪いことかもしれないけれど、もしそれをやらなかったら、私の気が済まない。絶対に後悔する。この先ずっと。だから、やるしかないんだ。
まず、手始めにやるべきことは――。
考える。ひたすらに思考を巡らせる。
私の得意分野だ。なにせ、身体がまともに動かない間は、これが私のできる唯一のことだったのだから。
考える。ただ、それだけ。でもそれは、単純な、純粋な、一般的な思考ではない。
思考は、その方向性を明確に定めながらも、分散させ、迂回させ、並行させ、時にはグルリと回転させる。
様々な感情を織り交ぜる。幾つもの想いを、自分のモノかも他人のモノかも分からないままに、積み上げては崩して、散乱させてはまた積み上げる。
一直線の思考よりも、実はこの方が、ゴールに辿り着くのが断然早かったりする。
急がば回れ、というやつだろうか。
――ほら、もうやるべきことが見えてきた。
見えたら、行動。
私は意気揚々とケータイを取り出して…………固まった。
「操作方法、わからない……」
◆
かなえ は こんらん しいてる。という表現がこれほどしっくりくる状況は私の人生においてきっと初めてだった。混乱しすぎて「い」と「て」が入れ替わってしまったほどだ。世にも奇妙な物語でもなかなか無い状況だ。や、そもそも私の意識が美月の中にあること自体が既に世にも奇妙な物語すぎる。奇妙すぎて困るくらいだ。逆に困りすぎて奇妙だ。
……もはや自分でも考えてることがよく分からない。
おかしくなりすぎだ、私。
あー、なんか混乱しすぎて逆に冷静になってきた。
それに、落ち着いてみれば、それほど大したことでもない。
確か、私が寝てしまったのは数学の授業中で、そして、いま目が覚めたら、夜の川原だったというだけ。普通の人間でこんなことが起こったらそれは一大事――や、大惨事かもしれないけど。
「さて――」
私はグーッと伸びをしながら辺りを見渡す。
周りは暗く、澄んだ、静かな月の光が、小川に反射している。少し遠くを見ると、眠りについた住宅街から街灯の人工的な白い光がぼやっと漏れ出ている。
ここは家の近くの川原だろう。それはすぐに分かった。ただ問題は、なぜこんなところにいるのか、ということ。私は……や、私じゃないか……。
「美月、あなたは、こんなところで何をしていたの?」
小さな声で問いかけるように言ってみたけど、当然、返ってくる言葉はなく、静寂が辺りを包んでいる。小川の流れる小さな音も、その流れ自体も、この静寂に飲み込まれてしまっているよう。
静寂と静止。
私がいるこの場所だけが、世界から切り離されているように感じる。
音の無い世界。止まった世界。
ただ、ゆらゆらと動く水面の月だけが、この世界が止まってはいないことを教えてくれる。
暗く濃い藍色に染められた水面に浮かぶ、明るく薄い黄色の月。
私は、吸い寄せられるように、川の流れに近づいて行く。
「――――っ!?」
歩いている途中で、グラっと身体がブレて、倒れそうになるのを必死に踏み止まった。
――全身の感覚がさらに薄まっている。
そういえば、目を覚ましたときに座っていたけど、そこから立ち上がるだけでもかなりの苦労を強いられた気がする。そのときは、急に変な場所にワープしてしまった気分だったから、驚きの方が勝っていて、そっちにはそれほど意識がいっていなかったのだろう。でも、今こうして歩いてみると、恐ろしいほどに感覚が薄くなっているのを感じる。麺つゆに例えるなら、今朝の段階では十倍に薄めてご利用されていたのが、今は百倍に薄めてご利用されているような状況だ。薄まりすぎてもはや元がなんだったのかわからないくらいだ。
まったく、酷いものだ。
そう思いながら、水際にしゃがみ込んで、水の中にゆっくりと指を入れた。
――ああ、これは本当にひどい。
冬の川の流れの中に指なんて入れたら、普通は冷たく感じないはずがない。や、普通は「冷たい」では済まされない。冷たさを通り越して、痛みや痺れを感じるはずだ。なのに、私の薄まった感覚では、ほんの僅かにヒヤッとした感覚があるような気がするだけ。まるで分厚い革手袋でもしているかのよう。
「…………」
ああ、そうか。私はもう二度と、この水の冷たさも、北風の寒さも、ストーブや布団の暖かさも、普通に感じることはできないのか……。
そう思うと、無性に悲しくなって、視界が滲んだ。
「――――っ」
グッと堪える。
だめだよ。こんなことで――。
当たり前のことが、当たり前になるだけ、なんだから。
「おーい。ずっとそんなことしてると凍傷になるぞ」
「あはは。そうだよねー。……って、高浜君!?」
今の感覚では信じられないほどのスピードで、私は立ち上がって振り返る。
「まったくお前は……。ほら、ちょっと手貸して」
言いながら、私の両手を強引に引き寄せて、ハンカチでぐりぐりと無造作に水滴を拭ってくれる。目で見てそうされていることは分かるのに、そうされているという感覚はほとんどないから不思議なものだ――。
などと考えていると、拭き終えたハンカチをズボンのポケットにしまった彼が、両手で私の両手をギュッと握ってきた。
「な、なにを――!?」
「ったく、氷みたいに冷たくなってるじゃないか。何やってるんだよ、この前といい、今といいさ」
「……この前?」
なんのことだろう、と私が首を傾げていると――。
「ああ、そうか。そういうことか」
高浜君は何やら真剣な顔をして頷きながら、何かに納得している。
より一層さっぱりだ。
「お前まで何でこんなことしてんだよ、佳苗」
「うーんとねぇ……って、ええっ!?」
あれ? 聞き間違い?
今、高浜君、私のこと、「佳苗」って――。
「まあ、そう驚くなって。本当のこと聞いちゃたんだよ。……色々とね」
「本当のことって……。まさか、栞!?」
だとしたら、たとえ栞だとしても許さな――。
「いや、美月さんから」
「……えっ? なに……それ……。嘘でしょ? 美月が、そんな――」
思考が一瞬で混乱状態になる。
「嘘じゃないよ。美月さんから聞いたんだ。初めは、そんな話信じられなかったし、受け入れることもできなかった」
そりゃそうでしょ。だいたい、今の私が、信じられてないし、受け入れることもできてないよ! 対象は違うけども。
「でも、その話聞いてから、ずっと考えて、ずっと悩んで、一つ分かったことがあった」
いやいや、美月さん。なにぶっちゃけちゃってるんですか!? しかも高浜君相手に。や、高浜君だからどうとかじゃなくてさ。もし話すにしても、タイミングとか、手順とか色々と――。
「――俺、やっぱ佳苗のことが好きだ」
「…………ほ、あ?」
お、や……。高浜君が今なにやらオカシナコトヲイッテイタヨウナ……。
「あの……い、いま……ナニカ、オッシャイマシタカ?」
「なんだ聞いてなかったのか? しっかりしてくれよ。つーか、結構前に一度同じようなこと言っただろ。俺は佳苗のことが好きだ、って。いや、まあ、あのときは「美月」って呼んでたけど、さすがに知らなかったんだからそこは勘弁してくれ」
確かに、私は彼から高一の最後に一度、好きだ、と告白されている。
「でも、それは、ちゃんとことわ――」
「なんか、中途半端な、変な返事しかもらってないんだよな。『私はそういうの無理だから』だったっけか」
「う、ぐ……」
ちゃんと断れてなかった……。
「だから、今ここで、ちゃんとした返事が欲しいと思ってさ」
凄く近くで、正面からまっすぐに、どこまでも真剣な目で見つめられる。
「……………………」
「……………………」
暫しの沈黙。
次に言葉を発さないきゃいけないのは私だ。でも、何と言っていいのか分からない。だって、私はきっともうすぐ消えてしまう。果たしてそのことも彼は知っているのだろうか。知っていて、こんなことを言っているのだろうか。だとしたら、なんて――。
「――月が綺麗だね」
私は彼に背を向けて、空を見上げる。
雲ひとつない、乾いた空気に磨き上げられたように澄んだ夜空には、真ん丸の月が薄い黄色の光を放っている。
「……ああ」
彼は少し小さい声で、それだけ口にして、また黙った。
「美月、か……。いい名前だよね」
「……」
「ほら、水面にも月が綺麗に映ってる。あんなに遠くにある月が、こんなに近くに――。でも、それは水の動きに合わせてユラユラと歪んだり崩れたりして……こんなにも儚い。そう、どんなに本物の月と同じように見えても、結局は偽者。まったく違うものなんだよ。――私はずっと美月のフリをし続けてきた。美月であろうとした。でも、全然、ダメダメだった。あの水面の月の方が、よっぽど優秀だよ。本物の月が欠ければ、あの月も同じように欠けるし、満ちれば同じように満ちる。私は、美月のために、なんて言いながら、結局は自分がしたいことをしていただけ。それを言い訳にして、好き勝手に――。美月のためどころか、逆に迷惑だったんじゃないかな……。ホント、つくづく、バカだな、私……」
「――ホント、つくづく、お人よしだよ、お前は」
「え……!?」
耳元で高浜君の声が聞こえて、振り返ろうと思ったけど、身体が動かなかった。や、動かせなかった。だって、いつの間にか、彼に後ろから抱きしめられているんだから。
そんな重大なことにすら気づけないほどに私の感覚は薄くなっているのか……。
「だって、美月さんのために、美月さんのことを想って、泣けるんだから」
「…………」
ああ、そうか。なんか視界が滲んでいると思ってたけど、私、泣いてるんだ。
「もしかしたら、もうすぐ自分自身が消えてしまうかもしれないってときに、それよりも美月さんのことを考えてあげられてるんだから」
ああ、やっぱり知ってたんだ。
知っていながら――。
「だから、そんな佳苗だから、俺は好きになったんだと思う」
――なんて、イジワルなんだろう。
「それに、佳苗は佳苗だ。美月さんとは違う。違って当然。水でもなければ鏡でもないんだから。それなのに自分を隠して生きるってのは、凄く辛いことだと思う。なのに、佳苗はこんなにも長い間頑張った。美月さんを想って――。それを『迷惑』だなんて、思うわけないだろ。感謝してるに決まってる」
「……そっかな。うん。それなら、良かった」
心が、スッと軽くなったような、そんな気がする。
それと同時に、彼に抱きしめられているという現実からくる気恥ずかしさと動揺に襲われる。
「…………」
「…………」
短い沈黙が、やけに長く感じる。ほんの数秒が数分にも数十分にも――。
もっと感覚があったら――彼に抱きしめられていることをもっと強く感じられたら――もっと長い時間に感じたのだろうか。もっと動揺してしまっていたのだろうか。だとしたら、感覚が薄くなっていて良かった。だって、私はこれ以上、彼のことを好きになっちゃいけないんだから。
「――――っ!?」
唐突に、彼は私の身体をグルリと半回転させて、両肩をガシッと掴んできた。
要するに、いま物凄い近い位置で私たちは対面している。
「…………」
「…………」
そしてまた、短くて、長い沈黙。
「何度も言うけど、俺は佳苗のことが好きだ。だから、佳苗の素直な気持ちを聞かせてほしいんだ」
「――――」
ああ、もう!
そんな真剣な顔で見つめられたら――。
でも、それでも私は――。
「ありがとう。気持ちは凄く嬉しいよ。でも、ゴメン……最後まで自分の意地を通したいんだ。もしここで折れたら、今までの自分を全部否定しちゃうみたいで、嫌なんだ。ワガママだけど、本当にゴメン」
彼の目を真っ直ぐに見て、そう言った。
「…………」
しばらく彼は無言で私を見つめ続けてから、「そっか」と小さく呟いて私を放した。
「ホント強情だよな。でも、そんなとこも含めて好きになっちゃったんだから仕方ないか」
「……っ」
私は恥ずかしさのあまり、顔をそらしてしまった。
よく臆面もなくそんなことを言えるものだ。
「でも、世の中にはおまえよりも、もっとワガママで、もっと頑固なやつもいるから、気をつけろよ」
「え……。それって、どういう――?」
「さあな……。なんか、そんな気がするだけだ」
彼はそれだけ言うと、黙って空を見上げた。
その黒い瞳の中には、明るく丸い月が、とても綺麗に映り込んでいた。




