第3章
◆ 3 ◇
もう一度、もう一度だけ――。
◇
いつのことだったろうか。
遥か昔のことだったようにも思えるし、とても最近のことだったようにも思える。
美月の机の上に一冊のノートが乗っていた。
なんの変哲もない大学ノート。表紙に持ち主の名前などは書かれていなくて、ただ「11」という数字だけが書かれている。まあ、ここにあるということは美月のものだろう。だけど、いつも机の上を奇麗にしている美月にしては珍しい。ノートや教科書はもちろん、シャーペンすら転がっていないことが多いというのに――。
私はそんなことを考えながら、片手でそのノートの適当なページを開いた。
それは何気ない行動だった。別に、中を読みたいだとか、彼女の書く文字がどんな文字なのか見たかったとか、そんなことは一切なかった。そこに山があるから登るのと同じくらいの感覚で、とても自然にノートを開いていた。
――そのとき、私は初めて美月の日記を読んだ。
◆
「のおおおおおおおぉぉぉっ」
昼休みに突入するなり、私は一人頭を抱えて唸っていた。悶えていた。猛んでいた。
……最後のは意味的に何か違う気がするけど、そんなことは棚の片隅へ湿気た煎餅と一緒に追いやっておくとして、だ。
今朝、私はとても早起きをした。それはもう物凄い早起きだった。なんと、いつもより二千四百秒も早く起きたのだ。分に直せば四十分だけど、やはりそんな些細なことは気にしてはいけない。
で、その早起きは、今日こそ千恵ちゃんを説得するためのものだった。彼女がウチのクラスで一番早く教室に来る人物であることは結構有名なことだったりする。なにしろ断トツなのだ。二番目に来る人と二十分くらいの差があるのだ。そんなわけで、千恵ちゃんよりも早く教室に到着し、彼女が来たところで怒濤の説得を開始するつもりだった。完璧な作戦……なはずだった。ところが、私が教室に着いてから千恵ちゃんが来るであろう時間までの五分の間に、私は自分の机に突っ伏して爆睡してしまったのだ。眠くて仕方なかったのだ。――いやはや、慣れない早起きなどするものではないな。わはは。
「って、わははじゃなぁーいっ!!」
ぐわっと両手を上げながら自分で自分にツッコミを入れて叫ぶ。その直後。
「うるさい!」
スパーンッ!
「ぐへっ」
ミッチーにツッコまれて撃沈した。
ハリセンでスマッシュだった。
コングのシールドさえも一発で割る勢いだった。
プリンだったら一発でお星様になるところだ。
「いつの間にそんな凶器を……」
音の割にはさほど痛くもなっていない後頭部を擦りながら、振り返る。
「いや、あんたが授業中ずっと浮かない顔してたから、そのうち叫び出すだろうと思って、作っておいたのさ」
ミッチーは、ぺちぺち、と自分の掌に白い手作りハリセンを当てながら、得意げに答えた。
「よ、読まれてた!?」
「朝飯前ね。あ、これ作ったのは朝じゃなくて英語の授業中だけど」
「…………」
「で、何があったの?」
一応、心配してくれているらしい。だけど、そんな笑みを浮かべながら掌にハリセンぺちぺちやってたら、私が真面目な話をしてもツッコんできそうな気がしてならないよ、ミッチー。
「や、実は今朝ね――」
と、ミッチーに真相を明かそうとした、正にその時。
「あの、美月さん」
ミッチーの影から、スッと千恵ちゃんが出てきた。
突然現れた彼女に、ミッチーも私も「おわっ」と声を出して驚く。
そんな私たちのリアクションなど気にも留めていない様子で。
「早くバスケの練習に行きましょうよ。もうあまり時間がないんですよ?」
「え!? あ、ああ……。うん、そうだね」
おや? と思いながらも、私は千恵ちゃんの言葉に同意した。
「お、やる気満々だね、千恵ちゃん」
ミッチーは別段驚いた様子もなく、そう返した。
――ああ、なるほど、きっと私が知らないうちに、ミッチーが千恵ちゃんを説得してくれていたのか。と、思った直後。
「美月、上手いことやったんだね」
ミッチーが私の耳元でそんなことを囁いた。
……ほ、へ?
◇
彼女は、音もなく教室前方のドアを開けて入ってきた。そして、私の顔を見て目を丸くしていた。
とりあえず、私は冷静に状況の分析を始めることにした。
彼女が入ってくるまで、この教室には美月以外誰もいなかった。そして、今入ってきて、恐らくは驚いているのであろう人物、身長は私よりもちょっと低めで、髪はストレートでロングなサラサラヘアー、何よりもフレームの一部に申し訳程度に薄い桃色が入っている眼鏡が良く似合っている彼女は、まあ、私の記憶やらなんやらが正しければ、千恵ちゃんだろう。
美月がいて、千恵ちゃんが来た。だけど、美月はどうやら寝ているらしい。
「…………」
うん、なるほど。状況が掴めてきた。
つまりは、そういうことなのだろう。
そして、偶然というべきか、必然というべきか、ともかくこの場に居合わせた私――いや、そもそも「居合わせた」という表現も正しいのかどうか分からないけど、この際、その程度の正誤については無視することにして、私が美月の代わりに千恵ちゃんを説得するのがいいような気がする。それに、上手くいけば、美月も喜んでくれるだろう。
自然と、自分の頬が緩んでいるような気がした。
誰かが喜んでくれるのを想像するだけで、人はこんなにも嬉しい気持ちになるものなのか。
――おっと、まだ彼女の説得に成功するかも分からないのに、私は何を考えているのだろうか。捕らぬ狸の皮算用。飛ぶ鳥の献立。……私は狩りでもしようというのだろうか。甚だ物騒な話だと思う。
――えーと、私は何をしようとしていたのだっけ?
軽い頭痛がするのと同時に、思考の方向性が少々おかしくなっていることに気づいて、思考の世界から現実の世界へと意識を戻す。と、千恵ちゃんが私の目を見ながら、ゆっくりと後退するという逃げ方をしていた。……私はクマか何かなのだろうか? だったら狸や鳥じゃなくて、鮭や蜂蜜を――。
「――って、ちょっと、千恵ちゃん!」
慌てて彼女を追おうとして――。
「はうっ?」
ビタン!
私は見事に全身を床に打ちつけていた。
有り体に言えば、転んでいた。
「…………痛い」
自分が転んだという状況を認識した後で、やっと痛みが追いついてくる。どうやら今日も私は私らしい。それにしても、ちょっとした痛みなら痛みとすら感じない私の感覚が、痛みを訴えるということは、今の転び方は結構ヤバかったんじゃないだろうか、と少し心配になる。
「あ、あの……大丈夫、ですか?」
おっと。千恵ちゃんが心配して近寄ってきてくれた。
お、これは……チャンス、というやつだ。
「た、助けて……」
必要以上に苦しそうな声を出しながら、右手を千恵ちゃんの方に差し出す演技派な私。
「は、はひっ」
妙な声を出しながら、私が伸ばした手を両手で掴む千恵ちゃん。
「んーっしょ」
と、千恵ちゃんが私を引っ張り上げようとする。
そこで、私は気づいてしまった。
私はこの体勢からだと、一人で起き上がるのにも相当な集中力を要するほど運動神経に欠陥を抱えていることに。そして、千恵ちゃんもまた、私程ではないにしても、結構な運動音痴であることに。
つまり、そんな二人がこうしてどちらかを助けようとした場合、十中八九――。
「ひやっ!?」
「うわっ!?」
――二人とも犠牲者になってしまうのである。
「うぅ……」
なにがどうしてこうなったのかは、想像に難くないけど、途中経過は、まあ、どうでもいいから端折るとして、とにかく現状。
仰向けの千恵ちゃんの上に私が押し倒したような形で倒れている。ついでに、私の顔が千恵ちゃんの胸の谷間に埋もれていたりする。なるほど、背はさして高くないけど、胸は結構ボリュームがあるようだ。羨ましい限りだ。で、もし私が男だったら、ここで千恵ちゃんが「キャー」とか悲鳴を上げて、なんかこう、面白いことになるのだろうか。だとしたら、いささか残念でもある。自分に不甲斐なさすら感じる。なぜ私はこんな大事な時に男じゃないのか、と。
「あの……どいて、ください……」
「あ、ごめん、千恵ちゃん」
言いながら、私は細心の注意を払いつつ、一人で立ち上がる。
「い、いえ、私こそ――」
千恵ちゃんもフラフラしながら一人で起き上る。もちろん私は手を貸さない。理由は……ねえ?
それはそうと、これだけ色々大変なことが起きているというのに、どうして美月は起きないのだろうかと、少し不安にもなるのだけれど、まあ、今この時においては、起きてくれない方がむしろ好都合だからよしとする。
「さて、千恵ちゃん」
「は、はい……なんでしょうか?」
もう逃げられないと悟ったのか、直立して私の目を見ている。眼鏡の奥のその瞳は、それでもやはり、何かに怯えているようにも見える。
――理由はとても単純。私にしてみたら、それに気づかない方が不思議なのだけれど……。うん、でもやっぱり、普通は気づけないのかもしれない。
苦しみ。
痛み。
恐怖。
そういった感覚は、いや、それ以外の感覚も並べてそうなのだけれど、それがなくなった段階から、徐々に、時には急速に消えていく。消えて、忘れて。そして、思い出そうとしても、それを感じていたときの感覚を完全に思い出すことなどできない。感覚なんて、そんなもの。こんな身体だからこそ、一つひとつの感覚を、とても「愛おしく」と言ってもいいほどに、大切にしている私ですら、そうなのだから。
過去に、ある状況で、ある感覚を味わったことのある人が、今それと同じ状況に置かれている他人の感覚を理解できるかといえば、まあ、できて六割といったところだろうか。まして、これまでに同じ状況に置かれたことのない人だったら――。
「さて、千恵ちゃん」
なんとなく、もう一度言ってみた。
二人とも無言の状態が微妙に続いた気がしたから、というか、実際にそうだったから、仕切り直しというやつである。
「ただでさえ、とっても伝わりにくいのに、言葉にしなかったら、もっと伝わらないよ。……私には、あなたの気持とか、感覚とか、少しは分かるけどさ」
千恵ちゃんの眼鏡の奥の目が大きく見開いた。
疑っているのだろうか?
それとも、驚いているのだろうか?
よく分からないから、気にせずに続ける。
「みんながバスケの練習してるの見て、一緒にやってみたいと思ったんでしょ?」
「…………」
彼女は真面目な顔で私の目をジッと見てから、無言でコクリと頷いた。
「でも、どうしても踏み出せなかった。それは、他のみんながきっと忘れてしまっている、いや、もしかしたらバスケットボールというスポーツでは感じたことすらない感覚なのかもしれないね」
実際に私がやったら、千恵ちゃん以上にそれを感じるのかもしれないけれど。
「目まぐるしく動く人、凄いスピートで飛び交うボール。千恵ちゃんは、きっと、そんな中にいることが――」
「とても怖いんです」
「とても怖いんでしょ?」
私が少し言葉を区切ってから言ったら、千恵ちゃんの言葉と完全にかぶった。
彼女は、少し震えながら言っていた。
でも、そう。
言葉に、してくれた。
「怖くて、仕方ないんです。体育でバスケをやったときも、あのコートの中に立つだけで、身が竦んで、動けなくなってしまうんです」
うん。それは私にもよく分かる。きっと私も同じ感覚になるはずだ。でも、それが本当に彼女とまったく同じ感覚かといえば、全然そんなことはないのだろうけれど。
「それに、そんな私が練習とかに参加しても、皆さんの邪魔に、足手まといにしかならないんじゃないかって――」
言いながら、俯いて、肩を震わせている。
「うーん。それは、違うんじゃないかな」
「え……?」
「例えば、み――」
「……み?」
「いや、その……みんな。そう、クラスのみんなは何て言ってくれてる? というか、実際、クラスのみんなはどう思ってるって感じる?」
「それは……多分、私にも参加して欲しいって――」
そう。それは決して美月ひとりの思いではないのだ。
「そして、千恵ちゃんは、一緒にやってみたいって思ってるんでしょ?」
足手まといにはなってしまうかもしれない。でも――。
「真面目にやれば、きっとみんな受け入れてくれるよ。邪魔だなんて思わないと思うよ。少なくとも、私は、ここはそういうクラスだと思うんだけど、間違ってるかな?」
「間違ってないと思います」
ほぼ即答だった。
なんだ。分かってるじゃないか。
だったら、私から言うことはもう――いや、お節介かもしれないけど、もうひとつだけ言っておこう。
「なんだか、千恵ちゃんは凄い戦力になる、らしいよ」
「え? それって、どういう――」
千恵ちゃんの目が丸くなる。
うーん、驚いているのかな、やっぱり。
「それは今日の昼休みの練習で分かるよ」
「そうなんですか?」
「うん。ただ、それにはもちろん練習が要るから、今日と明日はかなり頑張らないとダメだと思うけどね」
「は、はいっ。私、頑張ります」
グッと両手を握って、力強く言ってくれた。
――これで一安心、といったところだろう。
ただ……疲れた。恐らく、こんな短時間にこんなたくさんの言葉を喋ったのは初めてだ。それに、異様に眠いし。いや、眠いのは朝だから当然か。千恵ちゃんの手前、大口を開けてしたいあくびを無理矢理かみ殺す。
千恵ちゃんはその後も、二言三言私に何かを言っていたけど、眠気のあまり、意識が飛びそうになっていて、その内容までは頭に入ってこなかった。ただ、そのときの、何かを話している千恵ちゃんの嬉しそうな笑顔だけは、しっかりと目に焼き付いていた。
私はボーっとしながら、ちょっとした達成感と、ちょっとした罪悪感を感じていた。前者の理由は明確だったけれど、後者の理由に気づくには、少しだけ時間がかかった――。
◆
何はともあれ、初めてクラスの女子全員でバスケの練習ができる。
「――はずだったんだけどなぁ」
私はあからさまに嫌そうな顔をしながら、言ってみる。
それで状況が少しも好転するわけではないのだけど、口にせずにはいられなかった。
「すまない。俺にはどうしても止めることはできなかったんだ。面白そうだから」
と高浜君。
「って、謝罪かと思ったら、最後に『面白そうだから』とか言った! ちょっと! その被害者は私なんだからね!」
「待てミツキン。ここで一番の被害者はアタシじゃないか?」
と空閑さん。
「や、通りかかったから、つい――。それに、ツッコミ役は一人でも多い方がいいから」
要は飽和攻撃、人海戦術だ。ツッコミ役三人で事足りるかどうかといえば、微妙……というか、何人いても無理な気さえするのだけど。
「はっはっはー。三人もツッコミが必要なほど高浜は凄まじいボケキャラなのだな?」
「いや、お前だから! むしろお前は『ボケキャラ』なんて生ぬるい分類に含めてはいけない人種だから! 日本全国の、いや全世界のボケキャラの方々に深く謝罪しろ!」
来栖キャプテンは今日も絶好調のようだ。そして、早速役目を果たしてくれている高浜君、お疲れ様です。
「つーか、なんでミツキンがクルスーに絡まれてるんだ?」
クルスーって……。どうして空閑さんはそんな独自のあだ名で人を呼ぶのだろうか。他にそんな呼び方をしている人は絶対にいない。
「色恋沙汰か?」
「的を射てる!」
「なるほど。ついにミツキンにも春が――」
「私じゃない、私じゃ!」
全力で両手を振って否定する。
「色恋だと? それは何色だ? ピンクか? それとも赤か? 赤? 赤い彗星?」
「シャ○か!」
「白い悪魔?」
「ガ○ダムかっ!」
「青いイナズマ」
「ス○ップかっ!」
「黄色いカレー」
「って何の話だ!!」
どんどん脱線していくキャプテンと、とりあえずツッコミだけは欠かさない高浜君。
「待つんだハマー」
空閑さんがなぜか高浜君の方を止める。またあだ名がおかしい。
「ハマー? ハマーって、俺のことか!?」
驚いている。
高浜君本人も初めて言われたらしい。
「うむ。白い悪魔といったら、どちらかというと『な○はさん』ではないだろうか」
「誰!?」
と、高浜君、私、キャプテンが同時に聞き返す。
「なっ……まさかの四面楚歌!?」
空閑さんが追い詰められた悪役のように、半身になって一歩後ずさる。
「というか、空閑さん、これ以上話をややこしくしないでくれるかな」
「ああ、アタシに勝ち目がないことは火を見るより明らかだからね」
勝ち目って……。
空閑さんも基本的に話を逸らすタイプらしかった。この場に彼女を引き留めたことは間違いだったのかもしれない。
まだ本題にも入れていないのに、時間がかかり過ぎだ。そろそろ本題に入らないと、本当に昼休みが終わってしまう。
「で、私を捕まえた理由はなんなのよ」
なんとなく予想はつくけど、一応キャプテンに聞いてみることにする。
「うむ。昨日も話に出したが、清澄と――」
「断る!」
どうせその話だろうとは思ったよ。ああ、分かっていたともさ。
「いや、待て、佐々岡。お前は何かを勘違いしている」
「勘違い?」
「そう。清澄と親しくなりたいのは俺ではない」
「は?」
言っていることが分からない。
「だって昨日、『清澄に惚れた』とか何とか――」
「『俺が』とは言っていなかったはずだ」
「……へ?」
「ここまで言えばもう分かるだろう?」
「……何が?」
正直、全然分からない。
「つまり、俺たちバスケ部の後輩の武部君が清澄に惚れて、武部君からどうすればいいかと相談された俺が、清澄と仲がいい佐々岡に相談を持ちかけたということに決まっているだろ!」
「決まってるの!? っていうか、そんなこと一から説明されなきゃ分かるわけないし、何より、昨日の時点でちゃんとそれを説明してよ!」
「以心伝心すると思ったんだがな……」
「するわけないでしょ!」
このキャプテンと以心伝心できる生命体なんてこの地球上には存在しない。いたとして、金星人か火星人あたりだ。
「その後輩もなんでこんなやつに恋の相談なんかしてるのよ! 絶対に人選を間違えてるでしょ!」
女性ファッション誌の表紙に原子力発電所を起用するくらいの人選ミスだ。
私は半ばキレ気味に高浜君と空閑さんを高速で交互に見る。
「いや……俺に聞かれても……」
「アタシは関係ないし……」
たじろぐ高浜君と空閑さん。
「……ゴメン。私が悪かった」
うん、八つ当たりは良くない。
「で、どういう経緯でその武部君とやらが栞を好きになったのかは知らないけどね――」
「いや、佐々岡、その話はもういいのだ」
「は?」
「実は今朝、武部君に『申し訳ないんスけど、来栖キャプテンに相談した自分が間違ってたっス。この話は忘れてください』と言われてしまってな」
「武部君、気づくのがちょっと遅いよ!」
「いや、気づかざるを得ない状況になっただけなんだけどな」
高浜君が自分の額を押さえながら溜息まじりに言う。
「こいつ、清澄さんと仲がいい女子を片っ端からとっ捕まえて、清澄さんと仲良くなる方法を問い詰めた挙句、大した情報も得られなかったからって、いきなり清澄さんに告白しやがったんだよ。しかも、そのときも武部君の名前は出さずに、ただ『お前に惚れた』とだけ――」
「うわ、最悪のメッセンジャー……。しかもそれ、武部君の許可を得ずにでしょ?」
「ああ、こいつがそんな殊勝なことをするはずがない」
「…………」
頭痛が……。
私も額を押さえながら溜息まじりに話を続ける。
「で、それに対する栞の返事は?」
「……それがまた厄介でな」
「厄介?」
「この馬鹿の『お前に惚れた』という一言に対する清澄さんの返事は、『一年の武部君のことかな? でも私、武部君のことは良く知らないから――』だったそうだ」
「なんで伝わってるの!?」
「清澄さんだからなー」
「…………」
清澄さんだから。栞だから。そんな理由で納得できてしまうのが怖い。
「さすがシオリンだな」
絶対に彼女はノリと言葉の響きだけであだ名を付けている……。そんな空閑さんは両手を組んで、うんうんと頷いている。
まあ、栞がなぜ武部君のことだと気づいたのかなんて、私たちが与り知ることなどできるはずもないのだから、この場においてそれについて思考することも議論することも無駄な時間に他ならない。それよりも切実なる問題……というか、究極の疑問として。
「――じゃあ、結局いま私がキャプテンに捕まってる理由ってなんなのよ?」
話の流れからして、キャプテンは武部君から関与を拒否されているようなものだから、栞と仲良くなる方法云々の話ではなさそうだ。だとしたら、一体全体、私になんの話があるというのか?
「いや、実はな――」
と、キャプテンは近年稀に見るほどの真面目顔で――。
「その一件以来、武部君が俺と話をしてくれなくなってな……。なあ佐々岡、俺はどうすれば武部君と仲直りできるのだ?」
「なぜそれを私に聞く!?」
想定外だ! 想定外過ぎる!
「俺はなぜそれを佐々岡に聞いている!?」
「知らないわよ!」
「なあ、ミツキン……。これは所謂、時間の無駄ってやつじゃないのか?」
「うむ。正にその通りだな」
厚い胸板を張って堂々とそんなことを言うキャプテン。
「……………………」
お前が言うな、などというツッコミはもはや誰も入れないのであった。
――そんなこんなで、貴重な昼休みの3分の1は無駄になってしまった。
それでも、残りの時間は目一杯バスケの練習でハッスルした。
初めての全員参加の練習。
みんなが真剣に、全力で、思う存分楽しんだ。
だから、最近少し身体の調子がおかしかったことなんて、忘れてしまっていた。嬉しくて、楽しくて、そんなことは完全に意識の外だった。むしろいつも以上に、他の誰よりも、走り回っていた。
けれど、その反動が練習を終えた直後に――。
そして……教室へ戻る途中の廊下で、私は、倒れた。
◆
「ミツキン、寝るなー!! 寝たらチューするぞ!!」
「すんじゃねぇ!」
ペチン! と、まるで芸人のツッコミのように綺麗な音で空閑さんの頭をはたくリョウちゃん。
相変わらず良いボケ&ツッコミのコンビだ。
私は、あはは、と保健室のベッドで、仰向けのまま笑う。
それはそうと、この状況はなんなのだろうか?
「美月ー、ホントに大丈夫?」
「あの……美月さん……大丈夫ですか?」
ミッチーに千恵ちゃん。
「あなたも大事な戦力なんだから、こんなとこで倒れないでよね」
「そうだぞ、ミツキン。やはりここは気付けのチューを」
「するなっつーの!」
朱莉に空閑さんにリョウちゃん。
「ま、あんだけ全力で走りまわってれば倒れもするわよね」
「そうそう。今日はもう無理しないで休んでなー」
「どうせ午後の授業は退屈な世界史だしねー」
「だねー」
実はクラスメイトの女子全員が、この狭い保健室に犇めき合っていたりする。
「ったく、私はそんな重病人じゃないって。ちょっと疲れがたまってるだけだからさ」
私はみんなに笑いかけながら言う。
「ほらほら、早く教室戻って。退屈な授業だろうと何だろうとちゃんと受けないと。学生の本分は勉強なんだからね。学生の本分は決して球技大会のバスケじゃない。だから、私はバスケのために寝るのさっ」
言って、私はガバッと掛け布団を頭までかぶった。
「美月ー。言ってることが無茶苦茶だぞー」
「学生の本分が勉強かバスケかバイトか恋かという問題は、フェルマーの最終定理が証明されてしまった今、人類が保有している最も難しい問題だが、それが何であったとしても、ミツキンの言うとおり、ここはゆっくり休むのがベストだろうな」
そんな空閑さんの台詞になぜか全員が納得した様子で、みんな口々に「お大事にー」とか言いながら、保健室から出て行った。
――まったく。まったく。まったくもう。
私は、布団の中でそんな言葉を頭の中で永遠繰り返しながら、目の下を手の甲で拭った。
◇
偶然開いた美月の日記。それはちょっとした恋愛小説の一部ようでもあった。ただ、それには、とても重要なものが致命的なまでに不足しているように感じた。たとえそれが日記であったとしても、恋愛小説であったとしても――。
5月24日 曇りのち晴れ
今朝も高浜君が一緒に登校してくれる。もう体調が悪くなることもほとんどないし、そろそろ一人で登校しても大丈夫。そのことを高浜君に言わないと――。
授業は特に変わり映えもなく、時間割通り。
放課後は駅まで栞と一緒に歩いた。今日の栞との話題はファッション。栞が左右で違う色のオーバーニー(片方がグレー、もう片方がダークパープル)を履いていたことが、その話題になった原因だった。別に今そんなファッションが流行っているわけでもない。そもそも栞がオーバーニーを履いているのを見たのは今日が初めてだった。だけど、その奇抜なファッションは栞には妙に似合っていた。背はちっこいくせに――いや、この場合、身長は関係ないんだけど――やけにすらっとしていて長く見える脚に色違いのオーバーニー、学校指定の紺のスカート、その間にほんの少しのぞいている色白の太ももが、確実に男子諸君の目を引くであろう特殊な何かを放っているようだった。その証拠に、今日の男子の栞への視線は普段の三割増しだった。つまり、ロリコン三割増しだった。
私がそんな栞の脚をジッと見ていると、「うみゅぅ?」とかなんとか、文字にするのが困難な言葉を発した……。
とりあえず、なぜそんな奇抜な脚をしているのか聞いてみると、「流行は追っても、乗っても面白くないんだよ。自ら作り出してこそ面白いんじゃない」という答えが返ってきた。
栞と別れ、一・二番線のホームに降りると、そこから少し離れたところに高浜君がいた。中間試験五日前からは部活が休みだから、そこに彼がいること自体は殊更不思議なことでもない。ただ、彼は私の知らない女子と何やら話をしていたのだ。それを見て、私は咄嗟に、今降りてきた階段の影に隠れた。そこから、そっと高浜君の方を窺う。彼が話している相手は、制服からして同じ高校の女子であることは確かだった。だけど、彼女は私に対して背を向けているため、誰なのかは分からない。それに、もし顔を見れても、同じクラスの女子なら誰か分かるけど、違うクラスや違う学年だったりしたらもうお手上げだ。何の話をしているかは、距離が遠すぎて、全く聞こえない。
彼らの方に近づいてみようかと考えていると、一番線(私が乗らない方)に電車が来た。彼と話をしていた娘が乗る電車だったらしく、彼女は小走りにその電車に乗り込んで行った。そして、その電車を彼は笑顔で手を振って見送っていた。
その後、一分もしないうちに二番線に電車が来た。
私は、その電車が発車して、次の電車が来るまでの十分間、階段の影から動かなかった。
――それから、私は一人で家に帰って、試験勉強をちょっとだけやって、あとはボーっと考え事をしていた。
◇
「大丈夫か?」
放課後、自分の机で頬杖をついていた私に、いきなり高浜君が話しかけてきた。
「?」
えーと……言われていることの解釈に困る。
今私は単に頬杖をつきながら遠い目をしていただけであって、決して意識を失っていたわけでも、走馬灯を見ていたわけでもない。
――窓から入る、傾きかけた太陽の光を浴びながら、ちょっとここで眠るのも悪くないかもしれない。そうしようか。いや、むしろそうするべきだ。などと考えていた所為で、現在、知能指数が大幅に低下している私には、その程度の思考が限界だ。
さて、どう返答したものか。
うん、困った。困った。困った。
「ハテナ?」
……うわー、困り過ぎて、自分でも意味わかんないことを口走ってしまったよ!
「……おまえ、なんか最近、ときどき変じゃないか?」
「変? 私が?」
とても心外だ。
非常に残念だ。
言い換えるなら、誠に遺憾でござる。
ござる?
やっぱり私は変なのかもしれない……。
「まあ、なんだ、その……色々頑張るのもいいけど、あんま無理すんなよ」
そう言うと、彼は私の頭をポンポンと叩くと――視界が上下にぶれたから、それなりの強さだったのだろう――心配そうな顔から一転、笑顔を私に向けて。
「んじゃ、俺は部活行くから」
と、手を振りながら教室から出て行った。
――そして、この教室は私一人になったのだった。
まあ、とはいえ、静まり返っているわけではない。この教室という空間の中に音を発するものはないけれど、開け放されたドアから見える廊下はまだ人通りが多いし、遠くからは早々に部活を開始しているどこかの部の、「イチ、ニ、サン、シッ」という声が聞こえてくる。
そんな放課後の静かな喧騒。
私は、今からの自分の取るべき行動を考えることにした。
ついさっきまでは、「寝る」という選択肢が「帰る」という選択肢を数光年先まで追いやるくらいの勢いで勝っていた。まあ要するに、寝ようと思っていたのだけれど、高浜君のお陰で、今はそんなに眠気もなくなってしまった。
なくなってしまった、のだけれど……今の私にある選択肢は――。
帰る。
寝る。
その二択だった。どんなに考えてもその二択だった。どうしようもなくその二択だった。
部活に行くとか、バイトに行くとか、遊びに行くとか、そんな素敵な選択肢は一切存在していない。皆無なのだ。まあ、でも、選択肢があるだけ幸せだと思う。全く選択肢がないよりは、選ぶ楽しみが、考える楽しみがあるというものだ。
何やら、白いコートを着た、色白の、小さな女子が私の目の前に跳ねるようにして現れた気がするけど、気にせずに私は私自身の選択肢をどうすべきか考え――。
「やほー。一緒に帰ろー」
「…………」
選択肢が「帰る」の一択になった。「なにやら妙に白い少女と一緒に」という、思いがけないオプション付きで――。
◆
それは凄惨な事故だったらしい。
らしい、なんて、他人事のようだし、いかにも伝聞的だけど、実際、これは人から聞いて初めて知った話なのだから仕方ない。
その日、私こと斎藤佳苗は友達の家に向かって自転車を走らせていた。
慣れ親しんだ道。
いつも通る横断歩道。
信号はもちろん青。
ただ、ちょっと左右の確認を怠った。
それだけ。
最期に聞いたのは自動車の耳を裂くような急ブレーキ音だった。
骨は何本も折れていたし、一部の内蔵にもダメージがあったらしい。そして何より、頭の打ちどころが悪かった。いや、全く受け身も取れずに、頭からアスファルトに叩きつけられれば、打ちどころも何も関係ないだろう。つまり、それが致命傷だった。
そんなわけで、不治の病に罹って恋人とロマンチックかつドラマチックなあれやこれやのイベントを経たわけでもなく、戦いの最中で「ここは私に任せて先に行くんだ!」とか言ったわけでもなく、私の十四年ちょっとという短い人生は、呆気なく幕を閉じた。
◇
白い少女は、本当によく喋るし、何より表情がとても豊かだ。というか、表情が大げさだ、と言った方が正しいかもしれない。他人とのコミュニケーションが著しく不足している私にも瞬時に分かるくらい、大げさに喜怒哀楽の表情を作っている。
ただ、あまりに取りとめのない話を次々にするものだから、私の脳の処理が追いつかず、話の内容はほとんど記憶に残っていない。まるで、スクランブル交差点の真ん中に立って、行き交う人々の会話を聞いていたような、そんな感覚だった。だから、より一層、その大げさで分かりやすい表情が深く印象に残ったのかもしれない。
駅前に着いて、そのまま駅に入って行くのかと思ったら、彼女が細い指で私のコートの裾をクイッと引っ張り、今日一番の笑顔で、小さな喫茶店を指差した。
「ちょっと、寄っていかない?」
特に断る理由もないから、二つ返事で同意して、その喫茶店に入ることにした。
「あ……」
彼女の後ろについて、お店のドアをくぐったところで気がついた。
私、お金、持ってるのだろうか?
うーん……まあ、鞄を漁れば財布の一つや二つは出てくるだろう。
いや、二つも出てきたらそれはそれで困る気がするけれど……。
「うん? どしたの? そんな、いきなりセパタクロー日本代表に選出されたような顔して?」
「セパタ……?」
なんだろう。新手の格闘技か何かだろうか。
「大丈夫、大丈夫。あなたにはセパタクローの十分な才能があるから」
な? え? 励ま……応援され、て……? んんっ!?
などと、私が混乱しているうちに、彼女はスタスタと店の奥へ歩いていき、窓際の席に座った。そして、笑顔で私を手招きしている。
あまりの素早さに、呆気に取られながらも、小さな丸テーブルの彼女の向かいの席に座った。
「あはは。じゃあ……あ、とりあえず、注文しようか。何か嫌いな飲み物ある?」
「ええと……特には……」
「おっけー。じゃ、マスター、『本日の黒い飲み物』二つお願いしまーす」
「黒い飲み物!?」
あいよー、とカウンターにいた痩せ型で口髭を生やした男性が無表情で答えた。
「そ。『本日のコーヒー』ならぬ『本日の黒い飲み物』」
「い、一体なにが……?」
「まあ、大抵は何かしらのコーヒーだね。たまにコーラとか黒ウーロン茶とかのときもあるよ。あー、あと稀に、黒蜜」
「黒蜜!?」
「うん。中ジョッキに入ったやつがドンと出てくる」
「それ……飲み物?」
「一応液体だから飲めなくはないかな。ドロドロしてるけどねー」
「…………」
そういう問題なのだろうか。いや、絶対にそういう問題じゃない。ドロドロしているのも嫌だけど、それ以上に、ムチャクチャ甘いじゃないか。凄くドロドロしているムッチャ甘い液体……。
唐突に、「どろり濃厚」という謎の単語が脳内に浮かんだけれど、私の記憶内の単語ではない気がする。……まあ、気にしないことにしよう。
などなど、期待よりも不安の方が十倍ほど大きな状態で待たされること数分、出てきたのはごく普通の白いコーヒーカップに入った、ごく普通の黒い――表面の泡は茶色っぽい――液体だった。見る限り、少なくとも、ドロドロはしていないようだ。
「エスプレッソのダブルでございます」
それだけ言うと、マスターはお辞儀をして、カウンターの方に戻っていった。
エスプレ……? ダブル?
エスプリの親戚?
エスプリが利いたジョーク。
エスプレが利いたジョーク?
……関係はない気がする。多分コーヒーの種類か何かだろう。
じゃあ、ダブルって何だろう?
シングルスとかもあるのだろうか?
……テニス?
そんなことを考えながら、私はそのエスプなんちゃらとかいう液体に口をつける。
「――苦っ」
予想以上に苦かった。こういうときは砂糖とかミルクを入れればいいはずだ。
「ええと……。砂糖とミルクは?」
「ああ、砂糖はこれだよー」
そう言って、テーブルの隅にあった白くて四角い容器の蓋を取って渡してくれる。角砂糖だ。
「ミルクはないよ。だって、ミルク入れたら、『黒い飲み物』じゃなくなっちゃうじゃん」
「…………」
そういう問題なのだろうかと、少し悩みながら、角砂糖を二つコーヒーの中に沈めて、かき混ぜた。
それから、数分間、お互いコーヒーを飲みながら、無言になった。私は単純にエス……エスプ……コーヒーの味を楽しんでいたから言葉を発さなかったのだけれど、これまで絶え間なく喋り続けていた目の前の少女が無言になったのには少し違和感を覚えた。
半分ほど私のコーヒーがなくなったとき、彼女は口をつけていたコーヒーカップをカチリと静かに置いて、沈黙を破った。
「さてさて……はじめまして、だね。佐々岡美月さん」
彼女はこともなげにそう言うと、笑顔のままで――。
「私の名前は清澄栞。自称、万能少女だよ」
そんな、理解に苦しむことを言った。
◇
いやいや、あなたが怪訝そうな顔をするのも良く分かるよ。というか、これを聞いて、はいそうですか、と納得してもらっても、それはそれで困るよね、うん。何しろ、私とあなたはこれが初対面なんだから。私の記憶が正しければ、だけどね。
――ああ、そうか、初対面だから当然この冗談も通じないわけだ。うーん、別段笑える冗談でもないんだけどねー。どっちにしても、物事は正しい順序を踏むのが大切だというわけよ。
じゃあ、私の能力全部紹介してたら文字通り日が暮れちゃうから、たぶん他人から見たら一番凄い能力を紹介するね。その能力、私は瞬間写像記憶能力って呼んでるんだけど、世間では瞬間記憶能力か映像記憶能力とか色々な呼ばれ方をしてるみたいだね。ま、呼び方なんてどうでもいいよね。で、どんな能力かっていうと、目に映ったもの全てを映像のように、または連続した写真のように記憶して、それをずっと覚えていられる。簡単に言っちゃえば、「見たものは全て忘れない能力」だね。
やー、そりゃ信じられないだろうけど……。よし、じゃあ、あなたの鞄の中から、何か適当な教科書を出してみて。
いいから、いいから。
――世界史だね。じゃあ、私は後ろ向いてるから、好きなページ開いて、その中の好きな一文を読み上げてくれるかな。
――えーと、それはね、百三十七ページの最初の一文だね。
手品でもなんでもないよ。単に、覚えてるだけ。……これで少しは信じてくれたかな?
ん? 他の能力? そうだねー。分かりやすいところでいけば、絶対音感かな。あとは……そうだ、これの方が実践しやすいな。高速暗算。えーと――あった、あった。じゃあ、この紙に好きな計算式書いて。四則演算ね。どれだけ長い式になってもいいよ。あと、どんな大きな数使ってもいいし、分数使っても、小数使ってもいいよ。あ、もちろんゼロで割るのはなしね。それはルール違反だから。
――ん、じゃあそれ見せて。
えっと、ああ、随分綺麗な答えになるね。答えは一〇二四。
え? いやいや、綺麗じゃん。二の十乗だよ、これ。
――さて、そろそろ本題に戻ろうか。いや、戻るも何も、まだ本題に入ってすらいなかったね。あはは。まあ、そんなこんなで、こんな常人離れした能力、しかもほとんどが生まれつきの能力をたくさん持っちゃってる所為で、私はかなり小さな頃から、具体的には小学校四年生の頃から、ありとあらゆるものに興味が持てなくなって、気力、生気を失っていたんだ。有り体に言えば、人生がつまらなかった。
そりゃそうだよ。なんでも他人よりずば抜けてできて、やろうと思ってできないことなんてほとんどなかった。もちろん、できないこともあったけど、別に、それをできるようになりたいとも思わなかった。必要なかったし、面白そうでもなかったから――。
天才少女、とか言われて、テレビに出されたこともあったなぁ。そんな風に、周りにもてはやされて、羨ましがられれて。でも、それが癪だったんだよ。私は全然楽しくもなんともないのに、周りだけが面白おかしく騒いで、勝手に羨望の目で私を見て――。
それで私は余計に何もしたくなくなった。だから、それから無為に過ごす日々がずっと続いた。能力を表に出さないようにして、何も考えないようにして――。
中学一年生になっても私はそのままだった。でも、そんな私にストーカーの如く付きまとった挙句、気を抜いていた私に鎌かけて、私に勝負を挑んで、その上、私を今のこの私に変えてくれたクラスメイトがいたんだ。
斎藤佳苗。ショートヘアーで、目がクリッと大きくて、身長は百六十六センチで、体重は……言わない約束――、右利きで、運動神経が良くて、とりわけ足が速いのが自慢で、明るくて、人懐っこくて、お節介で、人をまとめるのが上手くて、自分よりも人のことを優先する性格で、そして、私の親友で――。
佳苗のお陰で、私は色んなことが凄く楽しくなった。彼女に出会うまでの私の人生がモノクロなら、彼女に会った後はフルカラーだった。1ビットカラーから32ビットカラー。2色と16777216色。ホントにそれくらいの違いがあったんだよ。なにより、佳苗と一緒に過ごす時間が、とても楽しかった。
でも、それは一年も続かなかった。私が佳苗と仲良くなってほんの数ヵ月後に、彼女は事故で死んでしまった。車にはね飛ばされて、頭を強く打って……脳死という状態になった。医療器具で心肺機能は動いていたけど、それだけ。意識を取り戻すことは絶対にない状態。……だから、彼女の心臓は、心臓の病気だった同じ年齢の女の子に移植された。
佐々岡美月。あなたに――。
◆
少しづつ、身体を思うように動かせなくなっているのを感じる。徐々に、感覚が薄くなっているのを感じる。それは、まるで私の身体が、私の身体でなくなっていくかのように――。や、それは間違い。それが間違い。この身体はそもそも私の身体ではないのだから当然のこと。私の身体でないものが、私の身体のように動かせていた今までが異常だっただけ。
私は斎藤佳苗で、この身体は佐々岡美月。
より正確には、今こうして物事を考えているのは斎藤佳苗で、でも、それを考えている脳や身体――心臓以外すべて――は佐々岡美月。
なぜ斎藤佳苗の脳でないのに、斎藤佳苗の記憶を持っていて、斎藤佳苗として考えることができるのか。それはいくら考えても分からないし、今はもうどうでもいいことだ。それよりも、とても疑問だったのは、佐々岡美月はどこに行ってしまったのか、ということ。当然私は美月の記憶は持っていない。美月のことは何も分からない。だけど、この脳は美月のものなのだから、美月の記憶がないはずはないのだ。むしろ、私の記憶があることは異常であり、不可思議なことなのだ。
じゃあ、美月は一体どこに――?
心臓移植後、目覚めたときから、私は佳苗であり、美月ではなかった。ただ、術後、この身体は長いこと眠り続けていて、私が目覚めるまでに約一年を要したらしい。
そこから強引に導き出した一つの答えがあった。
そこから純粋に感じ取った一つの使命があった。
そして、今、その使命を果たし終えるときがきたのだ、と、そう確信した。
だから私は、今日の日記の代わりに、短いメモを残した。
佐々岡美月へ――。
◇
夜に目覚め、ベッドに横たわり、暗闇の中、ひたすらに朝を待つ。私が眠りに就くのを待つ。彼女が目を覚ますのを待つ。それが私の日常だった。
隔絶された空間。
ひどく現実味のない世界。
暗く、暗く、ひどく暗い、まるで牢獄のような部屋で、孤独に包まれ、夜をたゆたう。いくつも、いくつも、数え切れないほどの夜を、夢を見ることすらなく――。
取りとめのないことを、考えた。
例えば。
――私は何者なのか。
美月の身体に在りながら、美月とは違う。美月が起きてる間の記憶はまったくない。美月が眠っている間だけ、私は私としてここに在る。いつから私はここにいるのか、どうして私はここにいるのか、全然わからない。
思い返すと、私の記憶はいつも暗闇だった。美月は部屋の明かりを完全に消して寝るから、私が起きると、当然真っ暗な部屋の中だ。もちろん少し動けば、明かりを点けることもできた。でも、昔はそれをすることでさえ億劫になるほど、私は彼女の身体を上手く扱えなかった。目を開けているのに、上下左右が分からないくらい平衡感覚がなかった。だから、首だけ動かして、回りを見て、ようやく自分がベッドの上にで横になっているということを認識できるくらいだった。
起き上がって、そこそこ普通に歩けるようになったのは数ヶ月前だったと思う。でも、それが本当に数ヶ月前なのかは自信がない。こうして毎日毎日、夜に目が覚め、大抵は何をするでもなく横になったまま朝を迎え、眠りにつくのだから、今日が何月何日かなんて私には関係のない、どうでもいいことだった。だから、私が初めてまともに歩けたのがいつで、それからどれくらいの月日が経ったのかなんて分かるわけがない。私が勝手に数ヶ月前だと思っているだけで、実は数年前だったのかもしれないし、数日前だったのかもしれないけど、やっぱりどうでもいいことだ。
でも、こんなどうでもいいことでも、考えることがあるだけマシ。何も考えることもなく、空っぽの思考と冷え切った心で、ただ天井を眺めるしかない夜もあった。何もすることがなくて、何も考えることがなくて、横になったまま目蓋を閉じてみても、美月が眠っている間、私は眠ることができない。だから、いくつもの長い長い夜を、自分の存在さえも曖昧になるほど無気力に繰り返してきた――。
そう、これまで私は自分で自分が何者か分からない存在で、昼間に起きて活動している存在が佐々岡美月だと、ずっとそう思い込んでいた。そう思わざるを得なかった。
だというのに、白い少女、清澄栞は、確かに言った。
これまで何者か分からないと思っていた存在が佐々岡美月で、昼間に活動しているのが斎藤佳苗であると。
この私が佐々岡美月で、私の心臓が斎藤佳苗であると。
でも、それは本当なのだろうか。いまだに信じられない。だからといって、栞が嘘を言っているようにも思えなかった。
確かめたい。
どうやって?
わからない。
でも――。
私は、ベッドに横たわっていた自分の身体をスッと起こした。
「え……?」
これまでで一番、それはもう驚いて声が漏れるくらい、すんなり身体を動かすことができた。それはまるで、これが自分の身体であるかのように――。
驚きを隠せないまま、ベッドから降りて、机の前まで歩いて行って、さらに驚かされた。
そこにあった一枚のメモに。
佐々岡美月へ。私は斎藤佳苗と言います。もう気づいているかもしれないけど、これまで、あなたの身体を昼間好き勝手に動かしていたのは私です。でも、あなたがこれを読んでいるなら、あなたの意識があって、あなたが自由に動けているのなら、私はもう必要ないでしょう。私があなたの代わりに動いていた間のことは、できる限りこの下のノートに記録してあるので、読んでください。(量が多いから、適当に)
私は、そのメモが意味することを深く考える間もなく、その下に積んであった、十冊以上もの大学ノートの一番上に積まれていた、表紙に「1」と書かれているノートの最初のページを開いた。
佐々岡美月が目を覚ました後、それまでに何が起こっていたのかが分からないと困ることがあるだろうから、記録をつけていくことにする。
これが最初の記録だけれど、実際は三ヶ月ほど前から私こと斎藤佳苗は目覚めている。私は、今はあなたに移植された心臓のはずなのだけど、なぜか移植手術の後、あなたが目覚めなくて、私が目覚めた。その時はわけが分からなかったし、今だってどうしてこんなことになっているのか、正確なところは理解できていない。だけど、このことは誰にも話していない。医者にも、あなたのご両親にも。初めはそんなこと話しても信じてもらえないだろうと思ったからそうしていたのだけど、今は別の理由で話さないことにしている。
私が目覚めてから三ヶ月はリハビリの毎日だった。なんせ術後一年も眠り続けていたのだから、身体はガチガチに固まってしまっていて、ほとんど動かすことができなかったのだ。そもそも、私のものではない身体を動かせるようになるのか不安だった。最初は感覚さえも物凄く鈍くて、何かに触れてもそれを感じるまでに随分タイムラグがあった。不安で、苦しくて、とにかく辛い日々だった。それは、言葉にもできないくらいに――。
でも、必死にリハビリをしているうちに段々自分の体のように動かせるようになってきた。まだぎこちなくて不格好だけど、今ではこうして、他人が読めるくらいの文字も書けるようになった。
ここまで私は動けるようになって……でもあなたはまだ目覚めなくて――。
その理由は分からない。
けど、あなたはいずれ目覚める。必ず。そう私は信じている。
なんせ、これはあなたの身体なのだから。
今はちょっとしたイレギュラーで私が意思を持ってしまっているけど、それはきっとあなたが目覚めるまでの一時的なもの。
だったら、私がやるべきことは、あなたが目覚めるまで、あなたの代わりに身体がしっかり動くようにして、体力つけて、学校に行って、勉強して、友達も作って、あなたが目覚めたときに、辛い思いをしないように、いや、それどころかむしろ楽しく過ごせるように、行動していくことだ。だって私は、あなたの心臓。あなたの一部。当然、望んでこうなったわけでも何でもないけど、こうなってしまった以上は、あなたのために動き続ける。
一生、あなたのために。
一生、あなたとともに。
――それが私の使命だと思う。
そのためには、私は斎藤佳苗であってはいけない。言い出すタイミングを完全に逃してしまったというのもあるのだけど、いま私が美月ではないなんてことを言い出せば、きっと周りの人は悲しむし、これから先いろいろなことが上手くいかない。だから、私は佐々岡美月として振舞うことにする。でも、私には美月の記憶はないから、どう振舞えばいいのか分からない。ただ、都合のいいことに、美月としての記憶を持っていない私のことを、医者や美月のご両親は、「記憶喪失」だと思っている。長い間意識が戻らなかったことで、一時的に過去のことが思い出せなくなっているだけだ、と。つまり、期せずして、とても都合のいい状況になっている。
このまま私は「記憶喪失の美月」として美月が目覚めるまで生活して、美月が目覚めたら、すべてを美月に引き継げばいい。もし私が美月の代わりをしている間の記憶が、目覚めた美月になかったとしても、この記録を見てもらえれば、すべてとはいかないまでも、大部分は引き継げるはずだ。
そうできるように、私はこれから毎日、なるべく詳しくその日に起こったことを記録していくことにする。美月が読んだときに、ちゃんと分かるように書いていく。そして、美月の主観で読めるように、なるべく私の主観や私の思いは書かないようにしていく。
――そこまで読んで、私は一旦そのノートを閉じた。
それは、私が、「美月の日記」だと思っていて、何度か勝手に途中を読んだことがあったものだった。だけど、それは「日記」ではなく「記録」だった。ついでに言えば、「美月の」ではなく「斎藤佳苗の」だった。
そう、これは記録。だから、この最初の記録を除いて、彼女の感情や思いはほとんど書かれていないのだろう。実際、前に少し読んだページはそんな感じだった。だから、読んでいて違和感を覚えたのだろう……。
まあ、ともあれ、これで私が佐々岡美月であることはほぼ間違いないことが分かった。だけれど……ひとつ、疑問というか、問題というか、切実なる欠陥が残っている。
私の、佐々岡美月の記憶だ。
私が移植手術を受ける前の記憶。
それが、全く思い出せない。
それが思い出せなければ、結局のところ、私は佐々岡美月であって、佐々岡美月ではない。
だって、私は、空っぽだ。
机の上に何冊も積まれている「記録」を見る。
佳苗には佐々岡美月として過ごした日々がこんなにもある。佐々岡美月として生きた記録が、記憶が、こんなにもある。だったら、私よりも佳苗の方が、よっぽど佐々岡美月ではないか。
私は、どうすればいい?
私は、何をすればいい?
私は、どうやって生きていけばいい?
それは途方もなく、漠然とした、悩み。
たとえば、「帰るか、寝るか」といったように明確な選択肢があるなら、まだ考えようがあった。でも、今は何もない。真っ黒な濃い霧の中で立ち尽くしている。そんな感じ。
スッと、身体の力が抜けて、持っていた一冊目のノートが、手から滑り落ちた。
トン、とその角が左足の甲に当たった。
「いたっ」
痛みを、感じた。とてもはっきりと。凄く近い距離で。
話をしたことも、会ったことすらない斎藤佳苗が言っている気がした。
「何やってんのよ。私のこれまでの頑張りを無駄にする気?」と――。
ああ、そうだった。これからの生き方とか、そんな漠然としたことを考える前に、今の私に、確実にできることをしよう。
読もう。
佳苗が残してくれた、たくさんの記録を。彼女の想いを。
そこに、彼女の思いは書かれていないとしても、それ自体が、それ全てが、彼女の想いなのだから。




