夏、ラーメン屋にて
一人でふらりとラーメン屋に立ち寄った。
裏通りにある小さな古い店で、書き入れ時だというのに客の列など無い。しかし、小汚いと一蹴することはためらわれる、独特の風情だった。店先に立つと、小麦麺の匂いが漂ってきて、きちんと営業中であることが分かった。熱くみずみずしい醤油の香りもする。
隠れた名店、などという言葉が脳裏をかすめ、俺は少しにやけながら、のれんをくぐった。レトロな券売機と、「らっしゃい」という年老いた店主の声が俺を出迎えた。
俺は試すような視線で店内をなめ回した。
ブラウン管のテレビ、青い羽根の扇風機、山積みの新聞と成人誌。L字型のカウンターの上には、空になったラーメンどんぶりが二つあるだけで、先客は既に帰ったもようだ。
俺は、いいねぇ、と自嘲気味に笑いながら、券売機に向かう。ありふれたメニューから、まだ売り切れていない『ラーメン 600円』を選択し、黙って食券を差し出した。店主はニヤリと笑い、調理に取りかかる。俺は、やけに滑る床を数歩歩いて、奥から三番目の席に腰を下ろした。麺を鍋に放り込んだ後のわずかな合間を縫って、すぐさまお冷が供された。俺はそれを勢いよく飲み下し、小さな氷を噛み砕くと、長いため息を吐いた。
扇風機の風が当たる。アンティークめいた風貌とは裏腹に、実用的な心地良さだ。お冷の喉越しと相まって、厳しい夏の暑さを、ひと時、忘れさせてくれる。
人間の生への執着というのは凄い。午前中、淀んだ部屋の中で、あまりの気だるさに、そのまま死に絶える事さえ考えていた。それが今、このラーメン屋の椅子に座ったことによって、それなりに回復してしまうのだから笑える。気付けば、何も入っていなかった胃袋も、いよいよもって食欲を呈す。
この夏に、弱った胃袋で、ラーメンのような熱くて脂っこいものを完食できるだろうか。そんな懸念もあった。が、それもまた、出されたどんぶりによってきれいサッパリ塗り替えられた。
勢いよく立ちのぼる湯気の奥に、適度に澄んだこげ茶色の水面が輝いている。具は、味玉、メンマ、ねぎ、もやし、海苔、ほうれん草、そしてチャーシューが2枚。600円でこれなら、なかなか豪華な方ではないか。特にほうれん草。普段、あまり野菜を摂っていないので、ありがたい。
俺は震える手でレンゲを構え、まずはスープを一口、口に含んだ。
旨い。
云ってみれば、旨みの液体だ。安っぽい塩気はない。粘度は無いのに、信じられないほどコクがある。ダシの種類はよく分からなかったが──ブレンドか? ──とにかく、恐ろしくアトを引く味だった。俺は、すくっては口に運ぶことを繰り返した。
次第にねぎが吸い込まれる。サクサクとした食感と独特の香りが、俺に箸の存在を思い出させた。もどかしい手つきで割り箸を割り、ほうれん草を取り上げる。しっとりとスープに濡れたそれは、慈悲に満ちた苦みと甘みで、舌先から身体中にじんわりと染み渡った。麺は俺好みのストレート麺で、すするたびに食欲を加速させるし、味玉は「何故これしか入っていないのか!」と思うほど、つるりと口の中に吸い込まれた。まったりと広がる黄身のゼラチン食感、白身の香り。名残惜しさを断ち切ってメンマともやしをつまめば、小宇宙はあっという間に茶色一色だ。
俺はまた一口スープを飲んでから、浮遊する二枚のチャーシューに対峙する。割り箸の先でそれらをつつきながら、俺は目を疑った。どうやら、この二枚は違う種類のようだ。一枚は脂身のついたトロリとしたもので、もう一枚は筋肉質な部位のギュッと締まったものだ。芸が細かい。俺は一枚一枚を噛みしめ、滲み出るそれぞれの旨みに舌鼓を打った。
あっという間の食事だった。
忘れていた時の経過を思い出さるように、首振り扇風機の羽音が聴こえてくる。
五臓六腑を満足させた俺は、気付けば、背もたれの無い椅子の上、上体を反らして天井を見ていた。長年、湯気と油によって刻まれたであろう、おぞましい汚れは、店主の孤高な戦いを物語っていた。店主は俺に背中を向けていたが、一杯のラーメンを通じて、俺はささやかな連帯感を感じていた。
名店、認定だ。
店を出る際、俺は再び店内を振り返った。
俺が飲み干したラーメンのどんぶりが荘厳に鎮座している。
風が、俺の涙の上を通り抜ける。
思いがけず、こんな名店に出会えるとは、最高の誕生日になった。
END
いかがでしたでしょうか。
余談ですが、僕も先日、誕生日を迎えました。