映画『父と家族とわたしのこと』を観て,上野千鶴子『家父長制と資本制』を読んだ,その感想
感想ではないかもしれない
近代以降,自由で平等な理性的個人の集合としての市民社会が公的領域として成立する一方,性愛や暴力といった側面は家庭という私的領域へと封じ込められた(公私二元論)。また、経済的領域においては、自由市場が拡大し、市場において人間は商品交換の媒介者であり、かつそれ自身が労働力商品である存在として抽象化され、具体的人間の存在とその再生産は市場とは異なる場としての家庭に外部化された(疎外)。しかし家庭は,同時に「一般的互酬関係によって成立する愛の共同体」であるという神話によって覆われ,内部に存在する支配的・抑圧的関係は不可視化されてきた。
家父長制とは,市場の外部として位置づけられた家庭における階級構造と,その物質的基盤を指す。そこでは,性別や年齢といった属性によって権力関係が規定される。この意味で家父長制は,市場における階級構造とその物質的基盤である資本制に対して,相対的に自律した社会システムを形成していると考えられる(家父長制と資本制の二元論)。
マルクス主義は,資本制社会における資本家と労働者の階級構造を,その物質的基盤から分析した。しかし,国家という支配構造に対する分析は,必ずしも十分ではなかったと考えられる。国家による支配は多くの場合,直接的強制としてではなく,人々が国家に対して自発的に服従するような言語ゲームを通じて媒介される。その背後には,そうした服従を可能にする物質的基盤,すなわち生活形式の存在が想定される。
エマニュエル・トッドは,この生活形式の基盤を家族構造に見出した。(家族人類学)彼の議論に従えば,家父長的家族様式が支配的な社会では,それに対応する形で家父長的国家権力が形成されやすいと考えられる。
映画では従軍経験をもつ退役軍人がPTSDを抱え,帰国後に家庭内暴力を激化させる事例が報告されている。これは,国家が家族,とりわけ女性や子どもからケア労働と安全を搾取するという,家父長制的国家の典型的構図を示している。




