蒼き炎の逆指名、ピットの激震
2030年5月11日、午後17時。
備前競艇場の予選全レースが終了した。西の空には、瀬戸内の島々の稜線を縁取るように、燃えるような茜色の夕日が沈もうとしていた。水面を走るボートのエンジン音は止み、代わりにピットに響くのは、翌日の準優勝戦に向けた各選手の整備用具がカチャカチャと触れ合う音だけ……のはずだった。
しかし、その静寂は一瞬にして、先ほどまでの激戦以上の衝撃によって粉砕される。大阪の女王・鎌倉明奈が愛知の岡野銀太に放った「デートのお誘い」という名の電撃戦。それが備前全体に広げた波紋は単なる色恋沙汰を越え、レーサーたちの闘争本能を異常な方向へと加速させていた。特に、山口支部の絶対的ヒロイン・守屋あおいの心の中では、嫉妬と対抗心が「絶対零度の氷」から「燃え盛る蒼い炎」へと相転移を起こしていたのである。
「ふぅ……。スー、今日もいい走りだった。あかりが整備してくれたエンジン、最高だな」
俺は勝利の余韻に浸りながら、相棒のパグのスーに新鮮な水を与えていた。首にかけたタオルで汗を拭い、夕日に目を細める。その無防備で、どこまでも澄み切った横顔。
そこへ、一歩一歩、確実な足取りで近づく影があった。守屋あおいである。彼女の背後では、愛犬のポメラニアン・ヘラが、いつになく真剣な表情で「今よ、主様! インを差すのは今ですわ!」と言わんばかりに尻尾を振り、主君の決意を力強く後押ししていた。
「……誠。ちょっと、いいかしら?」
「あ、あおい。お疲れ。さっきのレースの氷の壁、本当に凄かったぞ。おかげで新しいターンの感覚を掴めた」
屈託のない笑顔で答える俺。しかし、あおいの瞳に宿る光は、いつものそれとは明らかに異なっていた。彼女はヘルメットを脇に抱え、俺の数センチ前まで踏み込む。
「誠。……さっき、明奈さんが岡野くんに言ってたこと……。あなたも、ちゃんと聞いてたわよね?」
「え? ああ、デートの話か? 岡野くん、顔が茹でダコみたいに真っ赤になってて面白かったな。やっぱり女王様のオーラは違うよ」
俺の天然の受け答え。それはもはや防護壁に近い。だが、今日のあおいはその壁を物理的に破壊する覚悟でいた。
「……じゃあ、私も言うわ。誠」
彼女は俺の襟元を掴まんばかりの勢いで、その真っ直ぐな瞳を覗き込んだ。夕陽を反射した彼女の瞳が、翠色に輝く。
「この万衆衆魂祭が終わったら。……私と、デートしましょう」
「………………え?」
その瞬間、備前競艇場のピットの時間が物理的に停止した。
整備ブースで39号機のピストンを磨いていた野田あかりの手から、スパナが床に落ちて甲高い音を立てた。通りかかった佐賀の絶対王者・大峰幸太郎は、飲んでいたスポーツドリンクを派手に吹き出し、その背後の影で静かに精神統一をしていた東京の石田健太郎までが、驚愕のあまり「……闇が……乱れる……」と呟いて目を見開いた。
「あおい、今……なんて言った?」
俺は手に持っていた水汲みのひしゃくを落とし、呆然と立ち尽くした。足元のスーも、あまりの衝撃に「フゴッ!? フゴフゴフゴッ!」と、鼻を鳴らして完全に腰を抜かしている。
「聞こえなかった? 私と二人で、美味しいものを食べに行きましょうって言ったのよ!」
あおいの顔は、背景の夕焼けが霞むほど真っ赤に染まっていた Lights。しかし、一度口にした言葉を引っ込める彼女ではない。
「明奈さんに先を越されるなんて、山口支部の……いえ、私自身のプライドが許さない! ほら、最近お互い遠征やら違うレース場ばかりで、ゆっくり話す暇もなかったじゃない? だから、これは山口支部の団結を深めるための、不可避な行事なの! 分かった!?」
それはもはやお誘いではなく命令であり、強制的な進入であった。あおいの眼差しには、優勝戦の1マークで全速差しを狙う時以上の凄まじい執念と、わずかな「拒絶されたら死ぬ」という少女らしい不安が入り混じっていた。
「お、おぅ……誠くん。これは……優勝戦で石神のダンプを受けるより、ある種厳しい戦いになりそうバイ」
大峰幸太郎が苦笑いしながら、未だフリーズしている俺の肩をポンと叩いた。
「……山口の女は、江戸川の濁流よりも激しかね。誠くん、あんたの三連覇には、歴史的な責任が伴うことになったバイ」
「師匠ぉぉぉぉ!!」
そこへ、我に返った野田あかりが、鼻息荒くタブレットを抱えて突撃してきた。
「これはギャル的に、万衆衆魂祭三連覇とあおいさんとのデート成功の二冠、いわゆるダブルクラウンを狙うしかないっすよ!! 伝説っす! 歴史の証人になるっす!!」
あかりは即座に「備前・最強デートスポット・シミュレーション」という名の怪しいアプリケーションを立ち上げ、画面上で俺とあおいのドット絵を歩かせ始めた。
【からくり競艇公式YouTube『カササギ』Template更新】
> 【恋のW申請】大阪の女王・鎌倉に続き、山口の女王・あおいも誠に公開デートを要求! 備前が「恋のマブイ」によって臨界突破、一気に3億5,000万を突破する歴史的色恋戦線!!
ピットの隅、沈みゆく太陽の最後の光を浴びながら、スーは複雑な心境で俺の顔を見上げていた。
誠……お前、三連覇って言っているけど、明日からのレースはただの競艇じゃないぞ。このピットに渦巻く女の執念は、あの石神の53,000マブイよりも重いんだ。
俺は未だにあおいの真っ赤な顔が脳裏から離れず、「デート……美味いもの……あおいと……?」と、ぶつぶつ独り言を繰り返している。一方で、パグのミヤビを連れた石田健太郎が、去り際、俺の耳元でボソリと囁いた。
「速水……気をつけろ。女がプライドと言い出した時……それは、その裏にある寂しさの裏返しだ。……夜のレースで、迷うなよ」
備前『万衆衆魂祭』。マブイを賭けた祭りは、今や愛と意地が複雑に絡み合う、一寸先も見えない嵐の中へと突入しようとしていた。三連覇を狙う黄金の龍、速水誠。
「……とにかく、明日も勝つだけだ。勝って、あおいと美味いものを……絶対に食う!」
俺が夕日に向かってそう叫んだ瞬間、ピットの全員が「お前、結局食い気かよ!」と心の中で一斉にツッコミを入れた。だが、この時の俺はまだ知る由もなかった。翌日の準優勝戦、色恋に浮ついたマブイを根こそぎ粉砕する、佐賀の絶対王者の無慈悲な鉄槌が待ち受けていることを――。次話、大峰幸太郎の漆黒の噴煙が、俺たちの黄金を容赦なく窒息させる!




