第142話:天空の死神、愛知の超滑空――水谷佳恵の「エア・ジェノサイド」
2030年4月22日、午後3時。
江戸川競艇場を包む空気は、もはや「水の競技場」のそれではなくなっていた。
第8レース。予選の主役として登場したのは、愛知支部が誇るチルト3度のスペシャリスト、水谷佳恵である。
山口支部の速水誠が「泥を掴み、一瞬だけ跳ねる」という野性的な飛翔を見せるのに対し、水谷の走りは、空気力学とマブイの波動を完全に同調させた「永続的な滑空」であった。彼女にとって、江戸川の濁流は走るための路面ではなく、機体を浮かせるための「気流の供給源」に過ぎない。
「速水誠。あなたの黄金、空の上で叩き落としてあげるわ」
水谷は、鋭い銀髪をヘルメットの中に押し込み、愛機『ストリーム・ヴァルキリー』のシートに深く身を沈めた。
彼女もまた、誠や瓜生と同じく、通常のマブイを持たない「虚無の器」。しかし、彼女はその空白に、愛知の風とエンジンの超高回転が生む「風のマブイ」を充填し、人為的に空の覇者へと成り上がる。
「第8レース、予選スタート! 注目は5号艇、愛知の水谷佳恵! チルト3度をさらに叩き、機首がまるで離陸前の戦闘機のように天を向いています!!」
ピット離れからして、水谷の挙動は異常だった。
通常、江戸川の上げ潮の中では、チルトを上げれば機体は不安定になり、波に叩かれて転覆のリスクが高まる。しかし、水谷の機体は、プロペラが水を掻く瞬間に発生するマブイを、機体左右に増設された「エア・スタビライザー」へと瞬時に供給。
「ふふ……風が、私を呼んでいるわ」
スタートラインを越えた瞬間、水谷の機体は水面を離れた。
それは誠の『スカイ・ハイ』のような、泥を蹴る「跳躍」ではない。機体下部に生じた高圧の空気の層に乗る、完全なる「浮上」。
水面から実に1.5メートル。江戸川の荒波が届かない「絶対高度」を維持したまま、水谷は時速140キロメートルを超える速度で1マークへと突っ込んでいった。
1マークには、先行する山口支部の若手や、逃げを打つ実力者たちがひしめき合っていた。
だが、水谷の視界に彼らの姿はない。彼女が見ているのは、他艇の頭上に広がる「空の回廊」だけだった。
「邪魔よ。そこは私の領空なんだから」
水谷がコントロールレバーを極限まで引き、機体をバンクさせた。
通常、空中に浮いた艇は水面の抵抗がないため、外側へ大きく流れてしまう。しかし、彼女のマブイは空気を凍結・圧縮し、空間そのものに「爪」を立てた。
『奥義:エア・ジェノサイド』!!
「な、なんだあの旋回は!? 水谷が空中を走っているぞ!!」
実況が裏返った声で叫ぶ。
水谷の機体は、先行する4艇の頭上を、文字通り「飛び越えながら」旋回したのだ。
旋回の際に機体後方から放たれた猛烈なダウンフォース(下向きの風圧)が、直下にいた他艇を水面へと叩きつける。
1番艇も2番艇も、水谷が通過した後に生じた「真空の轍」に吸い込まれ、江戸川の泥水の中へ無惨に沈没・失速していった。
それは、競艇という概念を破壊する「上空からの蹂躙」。
水面を走る者たちを蟻のように見下ろし、ただ一人、神の如き速さでバックストレッチへ抜け出した。
バックストレッチに出た水谷の背後には、もはや誰もいない。
彼女の機体からは、銀色のマブイの火花が尾を引いて輝き、江戸川の空に美しく、しかし残酷な境界線を刻んでいた。
ピットでは、誠がその走りに戦慄していた。
「……あれが、本物の空中戦。『スカイ・ハイ』は、まだ泥に依存してた。水谷さんは、江戸川の泥すらも『風を発生させるための素材』としてしか見てない……」
(……誠、ありゃあ「死神」だぜ。風のマブイを使いこなしてやがる。あいつに上を取られたら、俺様も黄金の紋様を出す暇もねぇだろうな)
シロもまた、水谷が放つ冷徹な「空の殺気」に警戒を強め、唸り声を漏らす。
一方、ピットのモニターを見ていたあかりは、悔しそうに歯を食いしばっていた。
「師匠! あんなの、競艇じゃないっす! 飛行機っすよ、あんなの! ウチら山口支部が泥を耕してる間に、あんな綺麗に上を飛ばれるなんて、ギャル的に許せないっす!!」
「あかり、違う。あれは水谷さんの、血の滲むようなセッティングの賜物。……あのアライメント、0.01ミリ単位で風の抵抗を計算してる」
誠は水谷の機体の「静止したような安定感」の裏にある、極限の技術を読み取っていた。
からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新
> 【空中虐殺】愛知の水谷佳恵、江戸川の空を完全支配! 他艇を風圧で沈める『エア・ジェノサイド』が炸裂! 累計PVは一気に2億5,000万を突破。誠よ、これが空の王者の走りだ!!
>
PVのコメント欄は、水谷の美しくも恐ろしい旋回に対する驚愕で埋め尽くされていた。
「江戸川って、いつから航空ショー会場になったんだ?」
「山口支部の泥臭い走りを、一瞬で過去にしたな」
「水谷佳恵、冷酷すぎる……」
レースを終え、一滴の泥も被っていない純白のスーツで帰還した水谷佳恵。
彼女は、タラップに立つ誠の前で足を止め、ヘルメットのシールドを上げた。
「速水誠。あなたの『スカイ・ハイ』、私に見せてくれるのを楽しみにしていたけれど……。今のままじゃ、私の機体から出る『排気』で墜落してしまうわよ」
水谷の言葉は、嘲笑ではなく、純然たる「事実」としての宣告だった。
誠は、逃げずにその銀色の瞳を見つめ返す。
「……確かに、今の僕じゃ、水谷さんの風には勝てないっす。でも、江戸川の泥には、空にはない『粘り』があるっすよ。次の優勝戦、必ず隣を飛ばせてもらうっす!」
「ふふ、いい威勢ね。……でも、私の領空には、泥なんて届かない」
水谷が去った後のピットには、斬られたような風の余韻だけが残っていた。
山口支部の連勝を止めたのは、他ならぬ「空」からの刺客。
誠は、あかりと共に機体の再セッティングを決意する。
「あかり。39号機を、もっと『軽く』、もっと『鋭く』する。水谷さんの風を切り裂くための、新しい翼が必要だ」
「任せるっす、師匠! ウチの最強のヤスリで、プロペラを薄刃にしてやるっす!!」
江戸川・マブイ開花賞、2日目終盤。
黄金の泥と、銀色の風。
二つの対照的なマブイが激突する宿命の優勝戦へ向け、物語はさらなる加速を見せる。




