第126話:堤防の上の再会 ― 泥水と鉄粉、混ざり合うマブイ ―
2030年4月1日、17時30分。
江戸川競艇場の堤防を揺らす風は、昼間の喧騒をどこか遠くへ運び去り、代わりに重苦しい静寂を連れてきた。
西日に照らされた中川の水面は、まるで流された血が凝固したかのような、赤黒い輝きを湛えている。その濁流を、一人、速水誠は重い足取りで歩いていた。
機体の整備はあかりに任せてある。落水の衝撃でひしゃげたカウル、水を吸った電気系統、そして何より、誠自身の「自信」という名の機関部。すべてが深刻なダメージを負っていた。
肩には、びしょ濡れになって機嫌の悪いシロが乗っている。普段の黄金の輝きは失われ、毛並みは江戸川の泥にまみれてボサボサだ。
「……悪いなシロ。散歩がてら、少し風に当たろう」
誠の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
(ケッ、散歩っつーより、ありゃ水泳だったぜ。ったく、あの江戸川の『無のマブイ』……ありゃ反則だろ。あおいのお嬢の『羽衣』が高級シルクなら、ここの水は使い古した雑巾だ。呼吸するだけでマブイが汚れる気がしやがる)
シロが恨みがましく愚痴をこぼしたその時。
夕日に染まる堤防の柵に腰掛け、微動だにせず川を眺めている影があった。
「兄貴、相変わらず派手に沈んでたな」
不意に投げかけられた声。振り向いた誠の目に映ったのは、からくり競輪の過酷な戦闘用特殊スーツを脱ぎ、ラフなジャージ姿になった実弟、速水健吾だった。
昼間のレースで見せたあの「超回転」の余韻だろうか。彼の周囲の空気は、いまだにアスファルトが焼けるような熱を帯びている。
「……健吾。さっきは、助かった。お前の共鳴がなかったら、1マークの手前で『水縄』に引きずり込まれて終わってた」
誠は柵に手をかけ、弟の隣に立った。
「礼なんていいよ。俺も、兄貴のマブイがノイズに負けてガタついてるのを見て、自分のクランク(ペダル)が重くなった気がしただけだ。兄弟の縁ってのは、効率が悪いな」
健吾はそう言って、足元の小石を濁った川へと蹴り込んだ。石は小さな飛沫を上げ、瞬く間に渦巻く泥水に飲み込まれて消えた。
「競輪も競艇も、結局はマブイを何に変換するかの違いだろ。俺は自前の『脚』、兄貴は機艇の『プロペラ』。でも、流してるエネルギーの源流は同じはずだ。なのに、今の兄貴は、その源流に泥を詰め込まれて、自分から窒息しに行ってるように見えるぜ」
誠は、自分の震える右指を見つめた。
異常振動症。
落水時の衝撃と、江戸川特有の不規則な波による反動。神経に焼き付いたその「震え」は、脳が命じる精密な動作をことごとく拒絶していた。
「江戸川の波は、琵琶湖や宮島とは違うんだ、健吾。マブイを込めれば込めるほど、反発するんじゃなくて、川底の深い泥に吸い込まれる。空回りする感覚なんだ」
「当たり前だろ、そんなの」
健吾は柵から飛び降りると、誠の目の前で自分の屈強な太ももを力強く叩いた。その音は、まるで金属がぶつかり合うような重い響きを持っていた。
「兄貴はいつから、そんなにお行儀の良いレーサーになったんだ? バンク(競輪場)だって、綺麗な場所ばかりじゃない。雨の日の重馬場、先行する奴が跳ね上げる泥水、真横から飛んでくる罵声……。綺麗な『翼』を広げて優雅に飛ぼうとするから、その隙間に泥を塗りたくられて足を取られるんだよ」
健吾の瞳に、からくり競輪という「地上の肉弾戦」で磨き上げられた、剥き出しの「野性」が宿る。
「兄貴さ……綺麗な水面を走ろうとするのを、一回やめなよ。マブイを『流す』んじゃなく、『叩きつける』んだ。 浮力を得るためにマブイを使うな。泥の中に重い杭を打ち込むみたいに、水面を、地球を、力で掴むんだよ」
「……叩きつける……杭を打つように……」
誠の脳裏に、かつて父に教わった基礎の基礎――ボートの挙動を体で覚えるための泥臭い旋回訓練が蘇った。いつしか誠は、洗練された「魔法」のような走法に頼りすぎていたのかもしれない。
それまで誠の肩で不貞腐れていたシロが、健吾の言葉に呼応するように、不敵な笑みを浮かべて誠の頭をバシッと叩いた。
(……おい誠。健吾の坊主、いいこと言うじゃねぇか。俺だって元は野生の機獣だ。あおいのお嬢の『羽衣』に守られて、すっかり家猫気分だったが……泥水啜って生き抜くなんてのは、俺たちの先祖の得意分野だぜ?)
シロの体から、いつもの眩い金属性のマブイとは異なる、鈍く、重厚な黒鉄色の波動が漏れ出した。
それは、美しさを捨て、生存と破壊に特化した太古の闘争心。
「シロ……お前まで……」
誠はその重い波動に触れ、指先の震えが、別の性質の「震動」に上書きされるのを感じた。
「綺麗な旋回はいらない。欲しいのは、あの荒波をねじ伏せ、泥を掴んで前へ進むための『爪』。……そうか。波を切るんじゃない。波を、壊せばいいんだな」
誠の瞳から、迷いの霧が晴れていく。
江戸川という魔物を攻略するために必要なのは、天女の舞ではない。魔物よりも深く、鋭い爪を立てる、執念の走りだ。
「健吾。次のレース……見ててくれ。ダービーキングなんて看板は、今、この川に捨てた。俺の『泥臭い』、本物の走りを見せてやる」
「ああ。期待してるよ、兄貴。もし負けたら、俺の自転車の後ろに乗せて、千葉まで引きずり回してやるからな」
兄弟は、沈みゆく夕日の下で、短く拳を合わせた。
ピットに戻った誠は、夜を徹してあかりと共に39号機の再構築に没頭した。
「師匠……本気っすか? このセッティング、機体の寿命を半分削るような過負荷っすよ!?」
あかりがモニターを見ながら、驚愕の声を上げる。
「いいんだ、あかり。シロの『野性』と同期させるには、これくらいの剛性が必要だ。プロペラのピッチを極限まで重くして、水を『切る』んじゃなく、『叩く』設定にしてくれ」
誠の瞳には、かつてない覚悟が宿っていた。
からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新
> 【密会】速水兄弟、江戸川の堤防で何を語る? 競輪と競艇、交差する二つの魂。明日の誠は、昨日とは違う『何か』を纏って現れるのか!? 累計PVは8,500万!!
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【予選二日目:速水誠の戦略】
* 新奥義の開発: 『螺旋波切』をさらに重く、深く進化させた、江戸川特有の走法**『杭打旋回』**。
* 機体改修: 異常振動をあえて吸収せず、推進力に変換するための特殊防振フレームのパージ(解除)。シロの黒鉄マブイを直接プロペラへ伝達する直結回路の構築。
* 精神状態: 「王」としてのプライドを捨て、一人の「挑戦者」としての狂気を宿す。
江戸川の濁流が、再び牙を剥こうとしている。
だが、今の誠は、その牙を噛み砕く準備ができていた。
「(あおい……見ててくれ。俺は、泥の中から這い上がる)」
明日の江戸川。そこには、光を失った代わりに「力」を手に入れた、黒き彗星が姿を現すだろう。




