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海が呼んでいる

作者: 桔梗

とある小さな漁村。


毎年、決まって同じ日にひとり、村の誰かが“海に還る”。


その日は決して漁に出ず、村人たちは家の戸を閉め、音を立てずに息を潜める。


ある年、都会から赴任してきた若い教師が"その夜"を迎える。


彼は村に伝わる噂を信じず、普段通り海辺の家で眠っていた。

夜中に、戸を叩く音で目を覚ます。


「誰だ?」と問いかけても返事はない。


だが、ふと窓に目をやると、真っ黒な影のようなものが見えた。


「なんだあれ?」


再び戸を叩く音が聞こえた。


「ねぇ、あけて」


子供の声が聞こえた。


彼は、生徒の誰かが来たのかもしれないと思った。

もしそうなら、家で何かあったのかもしれないし、こんな遅い時間に一人で帰すわけにも行かない。


「ちょっと待って、今開けるから!」



ーー翌朝、家の中に彼の姿はもうなかった。


村人は口々に言う。


「ああ、今年もまた一人海に還ったね」


**


ーー彼が姿を消してから、ちょうど一年が経った。


夏の終わり、潮の香りが濃くなる頃、村にまたひとり、見知らぬ者がやってきた。

細身のスーツを着たその青年(湊)は、港に降り立つと、漁師のひとりにこう尋ねた。


「一年前、この村で教師をしていた男のことを調べています。俺の兄なんです」


村人たちは言葉を濁し、誰も目を合わせようとしなかった。ただ、ひとりの老婆がぽつりと漏らす。


「帰んなさい。じゃないとあんたも海に還されるよ」


だが彼は引かなかった。


湊は彼が住んでいたという、海辺の一軒家に向かう。

今は空き家となり、風の音だけが軒を鳴らしていた。


湊の兄は、村にある小学校の臨時教員として赴任した。

はじめは週に一度、携帯越しに海の写真や子どもたちとの何気ないやり取りが送られてきていた。


だがある日を境に、ぷつりと音信が途絶えた。


最後のメッセージは「今日、なんか海に還る日らしい笑 なんかよくわかんないけど笑」という軽い文面。


そして、彼はいなくなった。


**


ーー夜。


月は出ていなかった。

空も海も、まるで混ざった墨のような黒に染まり、境界がわからなくなっていた。

その闇の中、家の戸が叩かれる。


「ねえ、あけてよ」


声は確かに、優樹のものだった。電話越しに、何度も聞いた優しい兄の声。


「……優樹」


思わず、声が漏れた。その瞬間、扉の向こうから、もう一言。


「みなと、俺だよ」


自分の名前を呼ぶ声に、涙が込み上げた。


――だが、鏡が再び曇った。玄関脇の姿見が、どろりと濡れて歪む。

映った自分の後ろに、もう一つの影。

それは、人の形をしていなかった。


「ねえ、早く──開けて」


声が増えている。男の声、女の声、子供の声。何十もの“誰か”が、重なって響く。


湊は息を止め、扉から離れた。

指先が凍える。足の裏が濡れている。なぜか、床の上に“砂”がある。

気づけば部屋の中が、潮の香りで満ちていた。


ーー扉を開けてはいけない。


その時、ふいに優樹が昔話していたことを思い出した。


「俺がもし死んだら、多分、魂は海の近くにいると思うなー。俺、海好きだし。だから、俺がもし死んだらさー、お前は海に会いに来てよ」


その記憶は、あまりにも優しかった。


そして、潮が引くように、気配がすっと消えた。

家の中は静まり返る。窓の外、波打ち際に、びしょ濡れの誰かが立っていた。

それは、間違いなく──優樹の姿をしていた。


だが、湊は気づいていた。

あれは、優樹だけではない。


顔は優樹なのに、目の奥に、“他の誰か”の感情が、幾重にも折り重なっている。


湊は、ゆっくりとカーテンを閉めた。


明日もまた来るかもしれない。

けれど、兄にもう一度会えるのなら、戸を開けてしまってもいいかもしれない。

本気でそう思った。


自分の中の理性と、兄への愛しさと、狂気が、少しずつ溶けていくのがわかった。


波の音がやけに大きく聞こえた。


**


夢のなかで、湊は海を歩いていた。


裸足の足元には、潮が満ちたり引いたりして、まるで優しく引き留めるようだった。

その先に、優樹が立っていた。だが、彼は振り向かない。呼びかけても、まるで届かない。


「……待ってくれ」


手を伸ばしても、その背中は揺れて、波と一緒に遠ざかる。

そして次の瞬間、彼の肩越しに、もう一人の“顔のない誰か”がぬうっと現れた。


湊が目を覚ましたのは、夜明け前だった。外はまだ暗い。潮騒が遠くで鳴っている。


カーテンを開けると、海に続く道の先、波打ち際に何かがいた。

人のようだった。

人の形をしているようで、違う気もする。濡れた髪、ぬらりと光る輪郭。顔は見えない。

だが、その立ち姿だけで、湊は分かってしまった。


それは、“あの影”だった。

優樹と同じ服を着ていた。だがそれは、ただの模倣にすぎない。

まるで誰かの記憶から引き剥がして作られたような、粗雑な存在。


影は、一歩、海から上がった。

湊は思わず家を飛び出した。靴も履かずに、冷たい砂の上を走った。

引き寄せられるように、波打ち際へ。


「優樹!」


声が届いたのか、影が振り向く。

その顔には、確かに見覚えがあった。けれど、目が違う。何か別のものが、彼の目の奥から湊を見ていた。


「……湊」


その声は、たしかに彼だった。だが同時に、それはまったく知らない誰かでもあった。


「どうして来たの…来ちゃだめだよ…湊」


影の輪郭が、海水とともに崩れていく。

ーー海へ還ろうとしている。


湊は咄嗟にその手を取った。

その手は、とてもこの世のものとは思えないほど冷たかった。


「…帰ろう、優樹!お願いだから、俺と一緒に帰ろう!」


そのとき、足元に“もう一つの手”が伸びてきた。

それは、砂の中から生えたように、無数に。


ざあ……っと波が満ちると同時に、地面からいくつもの白い腕が現れ、湊の足首を掴んだ。

まるで、こっちへおいでとでも言うように。


「ごめんな、湊。俺、もう戻れないんだ…。でも俺…海好きだから…だから、大丈夫だよ…。湊は戻って…いつかまた…きっと会えるよ…」


優樹の口から、ゆっくりと海水が溢れた。言葉とともに、海が染み出す。


湊は、掴んでいた手を、そっと離した。

潮が引いていく。優樹は何も言わず、波とともに、再び海へと還っていった。

ただ、最後に見せた微笑みだけが、確かに彼だった。


**


翌朝、神社の老婆が、湊を訪ねてきた。


「海に還った人を見たんじゃね…」


湊は無言で頷いた。


老婆は、小さな木箱を差し出した。中には、古びた紙が一枚。

そこには、手書きの文字で、こう記されていた。


《海に還りし魂、やがて還し人となる》


老婆が語り出した。


「……あれはねえ、もう、何十年も前のことさ。突然、魚が獲れなくなっちまってねぇ…。飢えで死ぬもんが出たんだ。そしたら、争いごとまで起こるようになってねぇ…村のもんたちゃ言ったよ、“海神さまの祟り”だってねえ……。それで、どうしたと思う?」


「どうしたんですか…?」


湊は恐る恐る聞いた。


「村人たちゃ、どうにか海神様の祟りを鎮めようと、まだあどけない男ん子を……生きたまんま、海に“還した”んよ。男ん子が泣いて叫んでも、耳ふさいで……“これで済むなら”ってねえ……。そのあとは、魚も獲れるようになって、争いもなくなって、なんとか村を立て直したんじゃよ。けど、それで終わらんかった。ある年から若いもんが、毎年ひとりずつ、姿を消すようになったのさ。ある晩、ふっといなくなって、翌朝には、もう……どこにもおらん…村のもんは、今でも信じてるのさ。あんとき沈めてしもた男ん子が、海神様の化身になって、村人を海に還しとるんじゃって…」


湊はその言葉を抱いたまま、再び波打ち際に立った。

朝の光に濡れた砂は、どこか白く、まだ夜の記憶を残していた。


「……優樹」


湊は海を見つめた。頬を伝う涙は、潮風に溶けてゆく。

遠くの波の向こうに、言葉にならない想いが広がっていた

 

──潮騒の音のなかに、誰かの囁きが混じっていた。


「みなと、ねえ……また、会いに来てよ」


声の主は、もう誰でもなかった。

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