痩せた土地
前回のあらすじ:種を手に入れた
種を手に入れて拠点に戻った翌朝、俺はいつもよりずっと早く目が覚めた。
テーブルの上に広げた、あのブリキ缶に入っていた数種類の種と、母の筆跡にも似たメッセージが書かれた紙片。それらを改めて手に取る。一粒一粒が、まるで小さな命の塊のように感じられた。そして、紙片に込められた「希望を捨てないで」という言葉が、心の奥で温かく響く。
「ああ、俺はこれを育てるんだ」
その決意は、昨日よりもさらに強く、明確なものになっていた。
水路から汲んできたばかりの冷たい水で顔を洗い、気合を入れる。今日は、この種をあの畑に蒔くのだ。
かつての記憶を頼りに、どの種がどのような特性を持っているのか、どのように蒔くのが良いのか、必死に思い出す。きっとこの種はあの頃食べていた食材たちだ。
「この丸いのは……大豆、か? こっちは麦に似ているな。平たいのは、カボチャかウリの仲間かもしれない」
種類ごとに種を分け、それぞれの種に合った場所を畑の中に割り振る。日当たりが良い場所、少し湿り気のある場所。両親やシェルターの家族が昔、話してくれた断片的な知識を総動員して、計画を立てた。だが、一回でうまくいくとも思っていない。それぞれの種の三分の一だけ使う。
準備が整うと、俺は種と、錆びついた鍬とスコップを手に畑へ向かった。
昨日までただの黒い土くれだった場所が、今日は未来への希望を託す聖地のように見える。
丁寧に耕し、水路から水を引いて適度に湿らせた畝に、俺は一粒一粒、祈りを込めるように種を蒔いていった。
小さな種が、この痩せた土に根を張り、芽を出し、やがて豊かな実りをもたらしてくれることを想像する。それは、この荒廃した世界で生きる俺にとって、あまりにも眩しい光景だった。
もし、本当に作物が収穫できたなら……。もう、毎日飢えと隣り合わせの生活を送らなくても済むかもしれない。獣のように、ただその日を生き延びるためだけに食料を探し回るのではなく、人間らしく、計画的に食料を得ることができる。
「頼むぞ……育ってくれ……!」
そう心の中で強く念じながら、最後の種を蒔き終え、優しく土を被せた。
額には汗が滲み、腕は少しだるかったが、不思議と疲労感はなかった。むしろ、身体の奥から新たな活力が湧いてくるような感覚さえあった。
これが、希望というものなのだろうか。
種を蒔いた日から、俺の新たな日課が始まった。
毎朝、日が昇るとすぐに畑へ行き、土の様子を確かめる。乾いていれば水路から水をやり、雑草のようなものが見えれば丁寧に抜き取る。夜、眠りにつく前にも、もう一度畑の様子を見に行く。まるで、我が子を見守る親のような心境だった。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
数日経っても、畑には何の変化も見られない。ただ、黒い土が広がっているだけだ。
「まだ……まだなのか……?」
焦りが胸をよぎる。種の種類によって発芽までの日数が違うが、それでも不安は募るばかりだ。この荒廃した世界で、古い種が、本当に芽を出すのだろうか。そもそも、このグラウンドの土に、作物を育てる力など残っているのだろうか。
雨が降らない日が続けば、水路から水を引く作業も楽ではなかった。太陽が照りつければ、土はすぐに乾いてしまう。夜には、どこからともなく現れる虫が、せっかく蒔いた種を食べてしまうのではないかと気が気ではなかった。
それでも、俺は毎日畑に通い続けた。
諦めたら、そこで終わりだ。父さんも母さんも、きっとそうやって希望を繋いできたはずだ。俺がここで諦めるわけにはいかない。
種を蒔いてから、十日ほど経った朝だった。
いつものように畑へ向かうと、黒い土の表面に、見慣れないものがあるのに気づいた。
「……なんだ、あれは?」
目を凝らすと、それは、本当に小さな、小さな緑色の双葉だった。
土の殻を破って、懸命に顔を出している。
「め、芽が出た……!」
思わず声が漏れた。俺は、その場に駆け寄り、双葉の前に膝をついた。
それは、この灰色と茶色の世界で見た、どんな宝石よりも美しく、力強い生命の輝きに満ちていた。風に揺れるそのか細い姿は、あまりにも儚げだったが、同時に、この過酷な環境に屈しないという強い意志を感じさせた。
よく見ると、他の場所からも、ぽつり、ぽつりと緑色の芽が出始めている。
「やった……やったぞ……!」
俺は、天を仰いで叫びたいような衝動に駆られた。涙が溢れてきて、視界が滲む。
この小さな芽は、俺にとって、単なる植物の始まりではなかった。それは、この世界で再び人の生活を築けるかもしれないという、具体的な希望の象徴だったのだ。
しかし、その喜びも束の間だった。
数日後、発芽した苗たちの成長の様子を観察していると、俺はいくつかの異変に気づき始めた。
まず、成長が恐ろしく遅い。そして、葉の色がどこか薄く、黄色がかっている。茎も細く、ひょろひょろとしていて、今にも倒れてしまいそうだ。
「何かがおかしい……水はちゃんとやっているはずなのに……日当たりも悪くない……」
何日も悩み続けた末、俺はある可能性に思い至った。
それは、父さんが何気なく言っていた言葉だった。
『作物を健やかに育てるには、水と光だけでなく、豊かな土壌が不可欠なんだよ。土壌には、作物の成長に必要な様々な養分が含まれていないと。お前もご飯を食べないと力が出ないだろ?』
そして、堆肥の作り方や腐葉土の利用の仕方を教えてくれた。
『豊かな土壌……養分……肥料か……』
その言葉が、頭の中で雷のように響いた。
そうだ、この学校のグラウンドの土は、元々運動場として使われていた場所だ。植物を育てるために作られた土ではない。ただ瓦礫をどかして耕しただけの、痩せこけた土壌。そこには、作物が健全に育つために必要な栄養分、つまり肥料が決定的に不足しているのではないだろうか。
かつての集落では、父さんたちが畑の隅に大きな穴を掘り、そこに落ち葉や野菜くずなどを集めて堆肥を作っていたのを思い出した。そして、それを畑に混ぜ込んでいた。また、森の奥から、黒くてふかふかした土(腐葉土だろう)を苦労して運んできていたこともあった。
「そうか……ただ種を蒔いて水をやるだけでは、ダメだったんだ……」
愕然とした。家を作り、水路を引き、種を見つけ、そして発芽までこぎつけたというのに、まだこんなにも大きな壁が残っていたとは。
作物は、水と光だけでは育たない。人間と同じように、栄養が必要なのだ。
当たり前のことかもしれないが、この荒廃した世界で、その当たり前を確保することが、これほどまでに難しいとは。
作物を元気に育て、安定した食料を得るためには、何としても肥料となるものを見つけ出すか、あるいは作り出さなければならない。
俺は、新たな決意を固めた。次なる目標は、肥料の確保だ。
かつての集落で行われていた堆肥作りを思い出し、まずは落ち葉や枯れ草を集めることから始めてみようか。あるいは、動物の糞を探しに、山のもっと奥まで行ってみるか。
その夜、俺は完成した水路から引いた水を飲みながら、弱々しく育つ畑の芽を、月明かりの下で愛おしそうに見つめていた。
「大丈夫だ、必ずお前たちを大きくしてみせるからな」
心の中で、小さな命たちに語りかける。
そして、ふと空を見上げた。
満天の星が、まるで手の届きそうなほど近くで瞬いている。
目の前には、やるべきことが山積みだ。
畑を守り、作物を育て、そして生き抜く。そのためには、どんな困難も乗り越えなければならない。
俺は、星空の下で、静かに、しかし力強く、次の行動への意志を固めていた。