第四章 ヒノ(8)
散々転げ回ったあとで、リンはぜいぜいと肩で息をしながら立ち上がった。
「うう、ひどい目に遭いました」
まるで、被害者のように言う。大きなため息を漏らしたヒノが、
「自業自得」
と言い返したのも、仕方がないことだった。
「あなただって、さんざん自分が助かる為に、その子を利用した癖に、よく言います」
リンは、そんな反論をした。何のことかと思えば、
「ヒノは、封印から脱出するために、あなたを巻き込んだってことです。全部自分の為」
ということが言いたいらしかった。気にする程のことじゃなかった。むしろ、
「ってことは、ぼくもヒノの役にたてていたってこと?」
そういうことであれば、ぼくも嬉しいくらいだ。ぼくの問いに、
「うん。そうだよ。あなたが一緒に住んでくれれば、全部うまくいくって分かってた」
と、ヒノも認めてくれた。それは、何よりのことだった。ぼくの選択は間違っていなかったってことだからだ。
「良かった」
「そう言ってくれるって、分かってたよ」
ぼくたちが笑い合う。それが気に食わないらしく、リンは地団駄を踏んで悔しそうな顔をした。でも、
「帰って怒られてきなよ。どうせ宇田路玄辰がターゲットだったんでしょ? それと組むってどういうことさ」
そう突っ込むヒノの言葉に、リンは言い返す言葉がなかったようだった。良くは分からない話だけれど、図星だったらしい。
「煩いです、馬鹿バーカ」
捨て台詞を吐いて、リンは何処かへ逃げ去って行った。ちょっと泣いていたかもしれない。炎が熱かったのか、ヒノの言葉が悔しかったのかは分からない。両方だったのかもしれなかった。
「と、とりあえず、勝ったの?」
ぼくはヒノに聞いた。もうトリガーには指を掛けていない。なにしろ火炎放射は、撃っていたぼくも結構熱かったから、我慢できなかったのだ。
「うん、ありがと。助かったよ。それから」
ヒノは頷いてから、
「はじめまして、アーベル! 私がヒノだよ。ちゃんと面と向かって、やっと会えたよ!」
そう名乗って、ヒノは、ぼくに飛びついてきた。銃を抱えたままだとヒノを受け止められないし、銃は放り出して良いものなのか分からい。ぼくは一瞬迷ったけれど、結局、ヒノを受け止める方を選んだ。重い音を鳴らして、銃が少し離れた場所に落ちる。屋根の瓦に、何枚かひびが入ったようだった。そんな音を聞きながら、ぼくは飛びついてきたヒノと抱き合う格好になった。ヒノの正体は狐だったけれど、じゃれるように飛びついてきた姿は、やっぱり犬のようだった。
「でもね、話したいこと、教えてあげたいことはいっぱいあるけれど、まだちょっとしか話せないんだ。上が厳しくって、駄目だって言われちゃった。いつか、全部話せるといいな。でも、しばらく組織には戻るつもりないし、今は気にしなくっていいかなって思う」
ヒノは笑いながら、ぼくから離れるとそんなことを言った。このすごい装備が必要な仕事なんだ。きっとそれだけ重大なものなんだろう。秘密が多いのも、仕方がないと、ぼくにも思えた。
「あ、でも変な組織じゃないから安心して。わたしやリノは、それぞれ別の、世界の平和を維持する為の組織に所属してるんだ。宇田路玄辰は、わたしたちとしても、介入しないといけないターゲットだったんだ。簡単に言うと、本来いるべきじゃない世界に入り込んで、その世界を荒らそうとするやつってとこ。今回は、わたしは宇田路玄辰を排除する任務は負ってなかったけどね。別の任務でドジを踏んじゃって、ずっとあの家に封じられてたから。それで、あなたが来てくれるまで、ずっと閉じ込められてたんだ。必死だった。あなたに逃げられたら、ずっと、あのままだって、分かってたから。最初は、ほんとに必死だった。でもアーベルはわたしを信じてくれた。いつだって信じてくれた。分かってたけど、嬉しかったんだ。とっても嬉しかった」
ああ、そうだ。ヒノの話を聞いて、それで僕は一つ思い出した。
「家、なくなっちゃったのか。これからきみはどうするの?」
そうなると、ヒノともお別れってことなんだろうか。急に不安な気持ちと、寂しい気持ちが、押し寄せてきた。
「ううん。単にあそこに封じられてたってだけで、あれがわたしの家って訳じゃないんだ」
ヒノがかぶりを振る。そして、
「わたしの本当の家は、他にあるんだよ。だから、もしアーベルさえよければ、これでさよならじゃなくって、また、一緒に住んでほしい。今度はちゃんと、触れ合える同居人として。答えは分かってるけど、あなたの声で聞かせてほしい。人間の世界に帰らないって」
ヒノのお願いは、
「うん。一緒にいるよ」
ぼくから逆にお願いしたいくらいの内容で。だから、答えに迷うことは、やっぱりなかった。でも、ぼくには、聞かずにはいられないこともあった。
「その家は、驍嚇達も、一緒に住める?」
「勿論。狐の御殿は、おっきいからね」
ヒノは両手を広げて、そんな風に笑った。
「そうだ。驍嚇」
リンとの勝負の前に、地上に飛び降りていった驍嚇達のことを思い出した。屋根の縁へ行って、地上を見下ろす。建物の前には、いつの間にか馬から降りた千妙堂善治達、白岡の兵の姿もあって、ちょうど宇田路玄辰が捕縛されて行くところだった。それならそれでいい。確かに、玄辰が生きているなら、処断は、白岡村の中で行われるべきだ。
「善坊に任せた。いいよな?」
ぼくたちを見上げた驍嚇にも意見を求められたけれど、その幕切れに対して、ぼくも文句がある筈がなかった。それよりも、村の人達の前に、驍嚇とマリが堂々と立っていることの方が驚きだった。
「ここにいる者達は、驍嚇殿が敵でないと理解しています。ですから、心配はご無用です」
善治の説明に、ぼくもほっとした。善治たちは、今回の騒動を治めなければならない。玄辰を縄で捕えると、すぐに兵を引き上げていった。おそらく、同じように山賊も幾人かは捕らえているのだろう。それも裁かなければならないのだと、容易に想像できた。
「ま、無事終わったな。随分手伝ってもらっちまった。助かったぜ。達者でな」
驍嚇がぼくたちに手を上げて挨拶する。きっとこれでぼくたちが去ると思っているのだろう。
「それなんだけど、あの家はヒノの家じゃなかった。本当の彼女の家は別にあるらしい」
ぼくは彼等が立ち去る前に話を持ち掛けた。
「驍嚇も暮らせる程の御殿らしいよ。良かったら、皆で住まない? ヒノも大丈夫だって」
「うーん、だがなあ」
驍嚇は悩む様子を見せたけれど、
「アニさん、私は、もう洞窟暮らし、嫌デス」
と、マリにせがまれていた。彼女は驍嚇の肩ではなく、地面にいるときに度々そうしていたように、驍嚇の腰に縋りついた。
「うーん、そうか。そうだよな。マリに、鬼同然の暮らしは酷ってもんか。そりゃ分かる」
驍嚇も察しはいい。すぐに、マリの気持ちを理解したようだった。そして、彼は基本的にマリに甘い。だから、マリにせがまれた彼の答えは、分かっていた。
「分かった、そうするか。たまには悪くねえ」
と、頷くのだ。
「よし、じゃ、決まりだね」
ぼくたちに告げるヒノの顔も、嬉しそうだった。ずっとひとりぼっちで封じられていて、外にも出られなかった彼女だ。帰る場所がちゃんとあるとはいえ、一人で帰るのが、寂しかったのだろう。
「どうやって行くの?」
もっとも、歩いて行ける場所だとは思えない。ぼくは首を捻って、ヒノに聞いた。それがおかしかったのか、ヒノは満面の笑顔を咲かせた。
「ふっふー。もとに戻ったわたしにお任せあれ。この人数なら、狐の御殿に連れて行くのは、ちょちょいのちょいさあ」
そうだった。彼女は太陽の化身と言われる程のすごい狐様だった。そのくらいのことは、当然できるに違いない。
「ほいっと」
彼女が指をくるんと回す。するとどうだろう。ぼくたちはいつの間にか、並んで本当に御殿の前に立っていた。地面はふわふわとした薄い桃色で、空は明るい青。混じりッ毛のない白の雲が流れていて、日差しは春の暖かさだった。
「おお。こりゃ見事だ」
真っ赤に塗られた立派な柱に支えられた、三階建ての御殿を眺めて、驍嚇が感嘆の声を上げる。確かに、煌びやかで、大きなお屋敷だった。
でも、完全に和風という訳でもない。屋根には煙突があって、もくもくと煙があがっている。それとは別に、御殿の裏手で、湯気らしき靄が上がっているのも見えた。
「あの湯気は?」
「あれは、温泉の湯気。温泉はいいよお」
ぼくの問いに、ヒノが笑った。
ヒノは温泉が大好きらしい。ぼくが知った、ヒノ自身についての、最初の詳細だった。




