第四章 ヒノ(4)
勿論、ぼくたちが歩みを止めるなんてことはなかった。そして、前に進めばいつかは目的の場所に辿り着くもので、ぼくたちの目には、やがて肉眼で蛮鬼城が見えるようになってきた。
草と岩肌が斑に入れ混じる土地に、多数の鬼の姿も見えた。蛮鬼衆はやっぱり城の外に出てきていて、けれど、その理由は、ぼくが予想していたようなものとは違っていた。
「む、来たか。思ったよりも早かったな」
蛮鬼衆と対峙し、たった一人で無数の鬼を足止めしている人物がいたのだ。蛮鬼衆は、本来であれば山賊たちの対処のために出陣してきた白岡村の軍を襲いたがっていて、考えてみれば、そんな大暴れの機会を、粗暴な鬼たちが大人しく見逃しておく筈がなかった。
「だが、助かったぞ。苦戦を演じるのもほとほと限界を感じていたところだった。うむ」
若者だ。ぼくと同じくらいか、少し年上くらいの、少年といってもいいくらいの若者だった。額に鉢巻きを締め、羽織を纏い、きらりと輝く立派な太刀を手にしている。その姿は、まるで――。
「鬼を蹴散らすのなら簡単だったのだが、それでは玄辰とやらに逃げられてしまうのでね」
強い。明らかに百を超える数の鬼がひしめき合っている地で、悠然と、若者は清々しくもある笑い声をあげた。足止めをしていたらしいことは分かるのだけれど、その割に、一切息が上がっていない。
「お前達が到着したからには、もう遠慮はいらんな。少し待ってくれ。今道を開けさせる」
そう言うと、若者は、刀を振り上げて蛮鬼衆を真っ直ぐに睨みつけた。けれど、彼が駆けだす寸前に、その目の前に、邪魔が入った。何処からともなく躍り出てきた黒い獣だった。
猿の顔、犬の体、雉の翼。以前ぼくたちも襲われた、あの物の怪だ。
「ふむ」
何の前触れもなく襲ってきた物の怪の爪をひらりと躱すと、若者は短く声をあげ、
「頼んだ」
とだけ、誰かに告げる。すると、彼の言葉に呼応するように、突進してきた獣が物の怪に、逆に躍りかかった。犬だ。その背には猿が乗っていて、上空が一瞬陰ったかと思うと、一羽の鳥が急降下して来て、その戦いに加わった。
「物の怪には、普通の打撃は」
ぼくが警告しようとすると、
「案ずることはない。私の仲間は、このような紛い物に後れを取る程、腑抜けてはいない」
と、青年は涼しい声のまま、答える。そして、マリが、
「でも、鬼の数、一人で倒すのには、多すぎマセンか?」
そう不安がる声にも、
「それも心配無用だ。何、相手が鬼であれば何百何千いようと恐れることはない」
若者は、さらに穏やかに笑い声を上げ続けた。
「任せてくれ。何しろ私は、鬼退治であれば、日本一だ」
そう告げて、鳥獣たちの戦いには一瞥もくれずに鬼に向かって駆けだした。
若者が言う通り、鳥獣たちはほぼ一方的に、物の怪を無力化していた。猿が物の怪の背に乗り翼を封じ、犬が物の怪の爪や牙を引き付け、雉は物の怪の急所を狙う。確かに、ふしぎな力でも宿っているのか、鳥獣たちの攻撃は、物の怪の闇を散らし、確実に弱らせていった。正直言って、二匹と一羽は、単体でもぼくより強いだろうと、見えた。
そして、鳥獣たちの強さが本物のように、若者の強さも桁外れだった。鬼たちも若者に我さきと襲い掛かったものの、まったくその攻撃が若者を捉えることなく、逆に若者が刀をひとふりするたびに、確実に地に倒れる鬼は増えていった。まったく、勝負になっていなかった。
「相変わらず、鬼を相手するあいつは強ぇや」
さも相手をするのが自分でなくて良かったと言うように、驍嚇が呆れたような声を上げる。そういえば、驍嚇は、彼を知っていると言っていたっけと、ぼくも思い出した。
鳥獣たちの猛攻の前に、物の怪が消えた。
倒したというよりも、逃げ去ったという方が正しかったのかもしれない。物の怪は、空気に溶けるように消えていった。
目標を退けた鳥獣たちが、若者の援護に回る。強力を始めた若者達の強さはすさまじく、寄る鬼たちを瞬く間に打ち倒していく。疲れも知らず、ただひたすらに、彼等は鬼を倒し続けた。あまりに鬼が彼等に対して歯が立たないので、その光景が珍妙な遊戯のようにしか、ぼくには見えなかった。
呆然とぼくが彼等の戦いを眺めていると、
「お、ちゃんと手伝ってくれたんだ。流石、約束は違えない男だなあ」
という女性の声が背後であがった。ぼくには、とても聞き覚えのある声だった。でも、実際に、声として聞いたのは、その時が、初めてだった。
「良かった、良かった。鬼ことは彼に任せておけば心配いらないよ。彼は鬼退治って概念みたいなもんだから。何人束になろうと、鬼という存在は、彼には絶対に勝てないんだ」
そんな説明の声に、ぼくたちが振り向く。そこにいたのは、一頭の狐だった。でも、ただの狐じゃなかった。毛並みは黄金色に輝き、眩しいくらいで、尾は幾又にも割けていて円を作り、煌めきを伴った光の輪のようだった。まるで、昇りたての日の出のような。
「さ、行こうか。宇田路玄辰は、皆が対決しないといけないよ。彼は、人は懲らしめないからね。そこまで甘えちゃいけないんだよ」
ひらりと前に出ると、狐はぼくたちを急かすように、先頭を歩き始めた。
「ヒノ?」
と、ぼくが追いかけると。
「犬じゃなくて狐だけどね。概念ずらしは当たり。狐は犬の仲間だけど、狐は化けて、犬は化けない。それで、狐に比べると、犬の方が封じやすかったんだろうね。昔の話だよ」
ヒノは、四足歩行で、ぼくたちの前を歩いた。彼女が進む先には、まだ若者と戦っていない鬼が残っていたけれど、なぜか鬼が勝手に道を開けていく。ヒノは若者の横を通り抜けながら、
「ありがとね」
と、声を掛けた。
「うむ。大丈夫だ。もう少しで終わる。待っていてくれても良いのだよ? 最後まで見届けてもらえると、こちらとしても頼みは果たしたことを、しっかりと証明できる」
若者が鬼を倒しながら、相変わらず気仙話のような涼しげな声で告げると、
「そうかもね。ん。今更玄辰も逃げられないだろうし、そうさせてもらおうかな」
ヒノは、のんびりと答えた。
「うむ」
若者の剣が、ヒノの信頼に応えるようにより一層の冴えを見せた。鬼はばったばったと薙ぎ倒され、それからしばらくすると、本当に立っている蛮鬼衆は、一人もいなくなった。
さらに驚くべきことに、
「此度、まだお前達は村を襲ってはおらぬ。心を入れ替え、どこか人の来ぬ場所で、人々に迷惑を掛けぬ暮らしをやり直すと誓うのであれば命は許そう。どうだお前達、誓えるか」
鬼たちに、そんな問いかけを始めた。彼には、蛮鬼衆を、殺すことなくただ懲らしめるだけに留める、手加減を加える余裕さえあったのだ。
「うう、わかった。わかったからもうやめてくれ」
鬼たちは、立てる者から、這う這うの体で退散しはじめた。次々に起き上がると、蛮鬼衆は、皆一様に、逃げるように走り出す。その背中に、青年がもう一度声を掛けた。
「約束を違えるでないぞ。その時は、今度こそ、その首が落ちる時と肝に銘じるのだぞ」
若者の対応はあまりに堂に入っているように見えた。ぼくから見ると、とても手慣れた感じがして、
「鬼退治のプロフェッショナルって、いるんだ」
という感想が、口から零れて落ちた。
「そう思ってもらえると、私としても感無量だよ」
若者は臆面もなく笑い、その評価が彼にとって最高の賛辞だとでもいうように胸を張った。
「だが、私は、ヒノどのがおっしゃった通り、人は斬らぬ。ここから先は、君達の役目だ」
加えて、そんなことも告げる。
「これで約束は果たしたということで良いかな。ヒノどのの頼みとあらば、いつでも馳せ参じよう。また何か、困られた時は気軽に読んでいただきたい。では、今は引き留めてもいかぬ時だろうから、私も行くこととしよう。またいずれ機会があれば、その時に会おう」
青年は結局、名乗らずに去った。最後まで疲れた様子も見せず、一頭の犬と、一頭の猿、そして、一羽の雉を伴って、いずれともなく、去って行った。その背中に、
「うん。お疲れ様。ありがとう。助かったよ」
ヒノだけが、気軽に声を掛けていた。知り合いだという驍嚇でさえ、口を挟めないといった様子で、黙って見送っていた。
「さ、行こうか」
若者の姿が見えなくなってから、狐のヒノが明るく皆に言う。
「あの。ホントに、ヒノさんなんデスか?」
信じられないといった表情でマリが問うと、
「ん。はじめまして。あなたと話すのは、はじめてだね。やっとお話しできてうれしいよ」
と、ヒノは静かに答えた。何か、はち切れそうな感情を抑えているようにも見えた。




