第一章 ふしぎな冒険(1)
女の子の声に誘われるままに、その日は、ぼくは彼女の家に泊まることにした。一緒にいてほしいとは言われたけれど、ぼくに女の子の姿が見える訳じゃない。でも話しかければ必ず答えてくれるし、なんだか、とてもふしぎな気分だった。
ぼくと女の子の声は、暖炉の部屋で、お互いのことを話した。ぼくは食事テーブルに向かって、暖炉と、眠り続ける犬を眺めながら、彼女は、何処からともなく、空気だけを震わせて。本当にふしぎな体験で、世の中にこんなに珍しいことがあるものなのだと、ぼくには初めて思えた時間だった。
「それで、ヒノっていうのは、きみの名前ってことでいいのかな?」
ぼくの質問にも、
「うん、そうだよ」
彼女は、答えられる限り、はぐらかさずに答えてくれた。それでも、彼女には話せないこともあるらしくて、
「どうして姿が見えないんだろう?」
と言った風な質問には、
『ごめん……。それ、には、答え……られないんだ。今は、ちょっと、ね』
ちょっと苦しそうな声になりながら、ヒノは答えられないことだけ教えてくれた。苦しそうな声は演技には思えなかった。
「聞いちゃいけないことなんだね。気を付ける。きみのことを、詮索しないようにするよ」
『ありがとう。ごめんね』
そう言って謝るヒノ。やっぱり、とても寂しそうな声だった。きっと彼女は。ずっと一人、孤独と苦痛を抱えて、ここにいたのだろうと、ぼくには思えた。
「もう一度聞くけど、ここを、ぼくの家にしていいの?」
だから、ぼくは、出掛けているとき以外は、ここに住もう、と決めかけていた。そんなぼくの問いに、ヒノもなんだか嬉しそうだった。
『住んでくれるの?』
と、逆に聞かれた。
「きみさえよければ。毎日は帰れないかもしれないけれど。きみの寂しさがすこしでも、紛らわせるなら、ぼくはここに住むよ」
頷いて。ぼくは一番聞きたいことを、心の中に閉じ込めて、口に出さないように振舞った。
あの犬は、きみなの?
そう聞けたら。
どんなにか疑問の多くが晴れたことだろう。でも、ぼくには怖くて聞けなかった。ヒノがまた苦しみだす質問だとしか思えなかったからだった。それはきっと。聞いてはいけない質問だ。
『優しいね、アーベル』
と、ヒノは笑う。でも、そうじゃなかった。
きっとぼくは、ぼく自身と彼女を、似ていると感じただけだったんだと思う。本当にそれだけで、他人に思えなかっただけだった。
ぼくは街の人達が大好きだ。けれど、あの人たちは、ぼくが街を出て荒野で暮らす決断したのを、止めてはくれなかった。一緒に暮そう、と言ってくれた人たちは、いなかった。
身寄りも家もない、寄る辺というものが本当にない、ぼく。
訪れる人もいない家で、たった一人、暮らしているらしい、ヒノ。
彼女に肩を触れ合せるための体がなくとも、この家で、ひっそりと身を寄せ合って生きるのも、悪くない選択だと思えたのだ。
「ぼくも、独りぼっちなのは変わらないから」
そんな風な雑然とした思いを、ぼくはそうやって言葉にした。その言葉をヒノがどうとったのかは分からないけれど、
『優しいよ。きっと自分のことだけでも大変なのに、わたしも同じだって、思ってくれる』
ヒノの声は、ヒノがぼくのことを優しいと言っている言葉より、よっぽど優しかった。
『それが寂しさの裏返しだっていいじゃない。それが共感って形で出るのは、優しいってことだよ。わたしは、そう思う』
「そうかな。そうだったらいいんだけど、自信がないんだ」
そう。ぼく自身、この家に滞在していいと言われて、ほっとした気分がしているのも確かだ。ヒノが寂しそうだから、というのが自分を誤魔化す方便なんじゃないかと疑う気持ちもあった。
「ぼくには、帰る家がないんだ」
その後ろめたさがあったから、隠しておけなかった。ぼくは正直に話して、気持ちを落ち着けたかった。
息を飲み込む声が聞こえた。ヒノはしばらく黙ってから、やっとの思いで出したように、
「そう」
とだけ、発した。
次の言葉が聞こえてくるまでには、その一言よりも、ずっと時間がかかった。ヒノは、もう一度、言った。
『それなら、ずっと、ここを、あなたの家にしてほしい。晴れることのない霧の中の変な家だけど、暖はとれるから。ベッドもあるよ。不自由はさせないように、わたしも頑張る』
「頑張るのはよそう。無理に頑張っても、きっとうまくいかないよ」
ぼくはヒノに無理はさせたくなかった。だから頑張るのはぼくだけでいい。どうせ、ぼくが生きていくにはお金が必要で、子供のぼくがそれだけのお金を稼ごうとしたら、頑張るしかない。普通にやっていたんじゃ、足りないから。
「そんなことをしなくても、きみさえよければ、ぼくも、ここを、ぼくの家にさせてもらうよ。でも、ぼくが生きていくにはお金が必要で、だから、この家にじっと閉じこもっているって訳にはいかない。出掛けて行って、多少の危険も覚悟するしかない。ぼくは子供で、外には、ぼくじゃ敵わないもので一杯で、もしかしたらぼくは、帰れない日が来てしまうかもしれない。その時は、ごめんね」
こんなふしぎな家が見つかることもあるのだ。逆に、とんでもなく不運に見舞われることだってあるんだろう。ぼくにはそう思えた。ぼくはベテランの探検家でもないし、大人ですらない。自然の中で出会う脅威には、軽く吹き飛ばされてしまう小石に過ぎないから。
『それなら、持ち出せるものを、いつだって貸してあげる。わたし自身が一緒にいて守ってあげることはできないけど、そのくらいのことは、わたし、できるよ。それと、あなたがこの家にいて、わたしの助言が欲しいって思ったときは、いつでも聞いて。今はこんなで、姿も見せられない有様だけど、きっとわたし、あなたの力になれる。本当に、今はほとんど自分じゃ何もできなくて、あなたに証明してあげることはできなくて、信じてって、お願いすることしかできないけど』
ヒノの言葉は、何故だか、ぼくには疑うまでもなく本当のことだと信じることができた。ひょっとしたら、ぼくがただ、誰かを信じたかっただけなのかもしれない。
「ありがとう。きみが手伝ってくれるなら、ぼくもやれそうだ。本当言うと心細かった」
だからなんだろうか。隠すことなく、本心が零れた。
『家の中の食べ物の補充はいらないよ。わたしが用意する。そういうことは今もできるから。そういうことしか今はできないから。お腹がすいたら言ってね。食事を用意するよ』
ヒノはぼくが過ごしやすいように言ってくれるけれど、
「お願いするのは困った時だけにするよ。お互い、なんとなく、そういうのは、良くない」
ぼくには少し怖く思えた。共依存の関係になりそうで、そこはしっかり線引きをして、ぼく自身の生活には、ぼくが責任を持ち続けなければならないような気がした。
「ぼくは野外でも食べて行けるし、これでも小動物なら狩れる。大丈夫だよ」
『でも、たいへんでしょ?』
ヒノの言葉は優しく、心配そうだ。だからこそ、甘えてはいけないのだと思う。
「大丈夫だよ。心配させないように、ちゃんとやるよ」
ぼくはあくまでヒノの提案を断った。多分それは、ヒノ自身は純粋な善意のつもりで、ぼくを堕落させようという意図はないんだろうとは信じられる。だからこそ、その言葉は、破滅への甘い囁きだと思わなければいけないんだと感じた。
「ぼくは、雨風さえ凌げれば十分だよ。それだけでも十分すぎるくらい助かる。それ以上は甘えられないよ。自分でちゃんとしなきゃ」
ヒノへの答えは、ぼく自身を戒める言葉でもあった。今日までテント生活だったんだ。屋根付き食事つきなんて、そんな待遇じゃなくても、ぼくはやっていける筈だ。
「ヒノ。心配してくれてありがとう。でも、それはきっと、きみが独りに戻るのが怖いだけだってことでもあるんだと思うんだ。だから、怖がらないで。そんなことまでしてくれなくても、ぼくは、きみがいて、ぼくが帰れる状況であれば、必ず帰るって約束するよ」
ぼくはそう思った。きっとヒノの親切さは、心細さの裏返しなんだって。それがいけないことだとは思わないけれど、寂しいことだとも思った。もっと単純に言えば、安心させてあげたかった。
『うん。分かった』
ヒノが本当に分かってくれたのかは、ぼくには知る由もなかったけれど、少なくとも、ヒノはそう言って引き下がった。彼女はしばらく黙ってから、
『ありがとう』
言葉が見つからなかったみたいに、ぼくにお礼の言葉だけを言って、また黙った。
ぼくたちの会話は、それで途切れた。
暖炉の前の犬は、まだ眠っていた。