第二章 鬼の兄妹(1)
マリがぼくの背後に移動するのが分かった。マリの背はぼくより高い。ぼくの体格ではマリをカバーできないから、迷っている時間はないということだった。
「帰還を頼む」
諦める他なかった。ぼくが迷っていたら、マリを無駄に危険な目に遭わせることになる。ぼくは鎧に帰還の意志を示し、鎧はすぐにそれに応えてくれた。
急に視界は霧に閉ざされ、周囲の鳥の羽根が消え失せる。そして、次の瞬間には、ぼくはマリを背に、ヒノの家の玄関の扉の前に立っていた。
『お疲れさまでした』
と、音声でのガイドを再開した鎧が告げ、ぼくを覆っていた透明のフィールドが、腕につけていたプレートの中に消える。掌サイズの透明なプレートが、地面に落ちた。
「はい。どうぞ」
それを、マリが拾ってくれた。彼女の言葉は、驍嚇の時とは違い、鎧の翻訳なしでも、何を言われているのか、聞き取れた。
「ありがとう」
プレートを受け取りながら、マリを振り返る。彼女はぼくよりもだいぶ上から見下ろす目線で、ぼくに笑顔を向けた。
「こちらこそ。改めまして、私は、メアリーです。これでも、あの檻の中に閉じ込められていたの、とっても怖かったのよ」
彼女は驍嚇の国の人じゃなかった。外見からも、それ分かった。あの国の一般的な人達は、黒髪か茶色に近い髪色で、金髪はいない。
「メアリー? マリじゃなかったんだ」
それに、名前もマリじゃなかった。ぼくには何故だかそれがとてもふしぎに思えた。
「あ、ぼくはアーベル。よろしく」
それから、自分がまだ名乗っていないことに気が付き、慌てて名乗り返した。ひとまず、家に入ろう。そう思い、ぼくは玄関の扉を開いた。
「どうぞ」
ぼくは、マリことメアリーに、先に家に入るように促してから、自分もヒノの家に入った。なんとなく落ち着かなくて、ぼくはプレートと銃は持ったまま、一番奥の暖炉の部屋へと、マリを案内した。
ぼくたちは、食事テーブルを間に向かい合って座り、それから、会話をはじめる。ぼくが先に、マリに質問を投げかけたのが、会話を再開するきっかけになった。
「マリって驍嚇は呼んでいたけれど、メアリーが正しいの?」
他愛のない質問だと思う。さっき玄関の前で言ったことの、繰り返しでもあった。
「だって、アニさんは、私達の言葉、話せなかったでしょ?」
と、マリに言われて、
「そうだね」
ぼくも、頷くしかなかった。最初、それで困ったんだった。
「うーん、どうも、アニさんには、メアリーが、マリに聞こえるみたいです。だから、諦めました」
と。成程。もう一度、ぼくは頷いた。
「でも、義兄妹なのは本当なんだね。驍嚇が鬼だから、妹さんが人間だとは思わなかった」
アニさんという呼び方は独特だと思うけれど。それでも、驍嚇が言った通り、マリが兄として彼を慕っているのだろうと、その呼び方から、分かる。
「だってギョウカクさん、アニさんでしょ? アーベルも、今、そう言ったじゃないですか」
けれど、何か違和感があることを、マリが答える。彼女の言葉にぼくが言葉に困ると、
「え? 私、変なこと、言いましたか?」
マリも、困ったような微笑で、首を傾げた。
「……ん? あ」
分かった。たぶん、だけど。
「鬼さん?」
それが、マリにはうまく聞き取れないのか、それともうまく発音できないのかどちらかなんだろう。ぼくはそう理解した。
「そうです。アニさん」
やっぱりそうだ。つまりは、驍嚇にはメアリーはマリだし、マリには鬼がアニなのだ。ちょっと面白いすれ違いで、でも奇跡的に嚙み合っているってことなんだろう。
「別に、妹になりたい訳じゃないんだね」
おかしくて、ぼくは笑いがこみあげるのを、我慢することができなかった。ひとしきり笑った後で、
「どっちで呼んだ方がいい? マリ? メアリー?」
ぼくが確認の問いを投げかけると、
「アニさんに、マリって呼ばれるの、好きなんです。だから、マリでいいです」
と、マリも微笑んだ。よっぽど、驍嚇のことが好きなんだろう。
「分かった。じゃあ、よろしくね、マリ」
ぼくは頷いた。マリがそう望むのなら、ぼくもマリでいいと思う。ぼくにとやかく言われる筋合いもないだろうし。
「よろしく、アーベル。でも、のんびり話している訳にも。アニさん、なんとかしないと、です」
その話が終わったところで、マリは少し心配そうな顔を見せた。あの場は、驍嚇を困らせないようにぼくを急かすような態度をとったけれど、やっぱり彼女も本心では驍嚇のことが心配なのだ。
「そうだね。銃はあの物の怪に反応しなかったし、鎧も分析できないって出た。困ったよ」
ヒノに聞けば何か分かるだろうか。そうちらっと思って、ぼくはまだヒノにただいまを言っていないことに気付いた。
「あっと。ただいま。帰ったよ、ヒノ」
天井を見上げてぼくが声を掛ける。返答は、すぐにあった。
『おかえり、アーベル』
おかえりの挨拶があるのは、やっぱりうれしい。落ち着かない気持ちが晴れた訳ではなかったけれど、何かほっとした気持ちも芽生えた。ただ、ヒノはちょっとだけ申し訳なさそうだった。
『何に困ってるかはだいたい分かってるんだだけど、今はそれ、どうにもならないんだ』
先に、ヒノに弁解された。ヒノにもどうにもならないんじゃ、打つ手がない。ぼくも本音では、ちょっとがっかりした。それでも、それはヒノが悪いんじゃない、とも思う。
「ううん。いいんだ。ありがとう」
ぼくがヒノに礼を言うと、
「あのー。誰と話しているんですか?」
マリは困惑顔で、ふしぎそうにぼくを眺めていた。もしかして。
「ヒノの声って、ぼくにしか聞こえないの?」
聞いてみた。ヒノ自身に質問した方が早い。
『うん、そうみたい』
ヒノの答えもあっさりしたものだった。やっぱり、マリにはヒノの声は聞こえないのだ。
「ヒノって?」
マリはぼくが口にした名前に興味があるみたいだった。といっても、ぼくもヒノのことはあんまり沢山は分からないし、ヒノ自身も話せないようにされているらしいから、答えられることは多くなかった。
「この家に封じられているらしいんだ。ぼくが持っている銃と鎧も、ヒノが貸してくれた」
分かっているのはそれだけで。
「封じられているのと一緒に、自分のこともあまり話せないようにされているそうだよ」
ぼくはそう伝えて、ため息を吐く。もっとたくさんのことが分かればいいのに、とは、ぼくも思う。
「だから、それ以外のことは、ぼくも知らないんだ」
「そうなんですか。だから、見えないし、私には声が聞こえないってことなんですね」
それでも、マリは納得してくれたようだった。根掘り葉掘り詮索しない、配慮のできる良い人なのだと感じられた。
「それで、あの獣に対抗する方法は?」
といっても、マリはただヒノのことを穿り返さないと決めたわけでもなさそうだった。彼女には、驍嚇が助けられる方法が分かったのかの方が、より重要だったのだ。
「物の怪に対しては、今はどうにもならないって。何とか躱して驍嚇と合流するしかない」
でも、そんなことが、できるのだろうか。勿論、ぼくに分かる訳がない。
『今日はやめておいた方がいいよ。何よりマリが疲れてる筈。明日まで待っても大丈夫』
ヒノには、今日は戻るべきでないと言われた。ヒノが言うのだからそうなのだろうけれど。ぼくはいいとして、マリをどう説得したものか、ぼくにはいい言葉が浮かばなかった。
「本当に心配だけど、ごめんなさい。私、今日はもう、歩きまわれそうにないです」
でも、逆にマリの方から、今日は無理だと言い出した。彼女の顔は、不安と疲労で、目に力がなかった。
「そうだね。やめておいた方がいいと思う。少し寝る? 随分怖い思いもしたんだろうし」
ぼくにはうまい言葉では、言えなかったけれど、それだけは何とか伝えることができた。もっと安心できる言葉があるのだろうけれど、ぼくにはそんな語彙力はなかった。
「ありがとう。ええ、そうします」
マリは、本当に疲れていたのだろう。糸が切れた人形のように、頷いた。そして、椅子から立とうとして、暖炉の前で丸くなっている犬にやっと気付いたように視線を向けた。
「あ、犬。あの子は?」
彼女の問いに、
「うん。ずっと寝ている。ぼくも、一度も起きたところをまだ見たことがないんだ」
ぼくは事実を伝えた。あの犬がヒノだという確証は、いまのところ、やっぱりなかった。




