第2話 松梶と姉乃
「ぼくは、もう少しやっていきます」
オフィスの中央に据えられたテーブルでキーボードに向かう松梶は、金曜日だというのに残業を申し出た。十八時を過ぎている。
松梶詩音は、大学を卒業した後に大手のゲーム開発会社に就職した。
しかし、容易に設計変更もできない巨大な組織の中では、彼の才能は活かされなかった。
二年で大手企業を退職し、自由度の高い開発現場を求めて、「ソフト・クリムゾン」に辿り着いた。給料は激減したはずだが、松梶は、満足していると常々口にしている。
「遅くなるなら、泊まっていった方が安全だよ」
AI反対派の嫌がらせが顕著になり、通勤するのにも危険を感じるようになっていた。オフィス前の通りに「AI反対」のビラが巻かれたこともある。
社員には、できるだけリモート勤務にするように伝えている。現に、中輪と安藤は、指示に従いリモートでプログラムを書いている。
しかし、松梶はデバイス開発もあると言っては、何かとオフィスに顔を出す。確かに、彼は電気工作にも精通していて、はんだごてを手に怪しげな装置を器用に組み立てていたりする。
松梶の座るテーブルは、フリースペースのはずだが、パソコンの周囲はニクロム線やチップ類が散らばっていた。今も、プロトタイプだという脳波接続ギアが無造作に投げ出されている。
「いや、帰ります。切りのいいところまで書いたら、帰ります」
松梶は、伸びた前髪を息で噴き上げ、にこりと笑った。
頷く野々村だが、そう言いながら独り身の松梶は、オフィスに泊まってしまうのだろう。
「姉乃さんも、気を付けて」
奥のデスクで伝票を整理している姉乃奈緒にも声を掛けた。
彼女は、会社を立ち上げた仲間でもある。同じ三十二歳ではあるが、同窓生というわけではない。野々村が、ネット上にゲームアプリのアイディアを投稿したところ、実現しませんかと姉乃の方から連絡を取ってきた。
それが「ソフト・クリムゾン」を起業したきっかけだった。
今は、スマホアプリのメンテナンスを行いつつ、経理含めて雑多な業務をこなしてもらっている。当然、リモートではできない仕事も多くなり、週に三日程度は出勤しなければならない。
モニター越しに、赤いバレッタで髪をまとめた頭が見える。
「私は、もう上がりますよ」
姉乃は、顔を上げる。
野々村と目が合った。
姉乃は、書類をファイルに綴じ、引き出しに入れた。パソコンの電源を落とし、帰り支度を始める。
「お先に失礼するよ」
野々村は、オフィスを出る。
ドアを開けた瞬間、熱風が顔に吹き付けた。九月に入っても、まだまだ日は長く、うだるような暑い日が続いていた。