第16話 ポルターガイスト
午前八時、有江は衣装ケースから取り出したニット帽を被り、アパートを出発する。
大型のスーツケースを二階の部屋から階段にぶつけながら降ろした。
世田谷区の有江のアパートから大田区のホテルまでは、直線距離で十八キロメートルだが、JR蒲田駅と京急蒲田駅間を歩くのを避けるため、京王線・京王新線で馬喰横山駅に出て、東日本橋駅から浅草線・京急本線・京急空港線で大鳥居駅まで、正三角形の頂点を経由するように遠回りする。
有江は車を持っていない。調整会からの貸与も打診されたが、運転に自信がなく断っていた。
十時過ぎ、ホテルに到着した。
正面入り口の自動ドアをくぐる。ロビーは、照明が消えていて薄暗い。
「おはようございます」
左手のフロントで、常磐道が待っていた。
「しばらく、このホテルに滞在することになります。設備は、自由に使ってください。二階と八階なら、どの部屋を選んでも構いません」
常磐道は、フロントから出ると、正面の自動ドアをロックした。
調世会は、ホテルを貸し切ったようだ。
「八階は、眺めがいいですよ」
有江も八階の客室を選ぶ。
部屋には、ダブルベッドが置かれていた。
有江は、ニット帽を放り出しベッドにダイブする。できれば、この部屋から出ないで済ませたかった。
カーテンは開いていて、多摩川の先に川崎大師の街並みが見える。
新鮮な空気を入れたかったが、窓一面にフィルムが貼られ、開けることはできなかった。
ノックの音がした。
ドアスコープの向こうには、常磐道がビニール袋を片手に立っている。
「昼食のお弁当と、約束の帽子です」
唐揚げ弁当と、迷彩柄のサファリハットが差し出された。
微妙。
「約束の喫茶店まで歩いて十三分です。十六時三十分にロビーで待ち合せしましょう」
常磐道は、東の角部屋に戻っていった。
それにしても……暑い!
有江は、全てを脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。
約束した時間の五分前に、指定の喫茶店に着く。
先に野々村は着いており、奥のテーブル席で待っていた。
他に客はいない。
「初めまして、梶沢出版、編集部長の常磐道です」
「担当の栃辺と申します」
野々村は立ち上がるが、有江たちの姿を目にして言葉を失っている。
常磐道と有江は、名刺を差し出した。
野々村は、白のポロシャツにグレーのアンクルパンツ、黒のローファーと、いかにもIT企業の代表らしい服装だ。
目が合ったので、有江はにっこり微笑む。
野々村は、養蜂家のようなフードと、所々から覗く銀色の服装の説明はないと悟ったようだ。
「スマホアプリやAIを開発しているソフト・クリムゾンの野々村孝夫です。用心のため、こちらから場所を指定しまして申し訳ありません」
三人が席に座った途端、ホットコーヒーが運ばれてきた。
調世会が貸切っているのだろうが不自然すぎる。
有江は、呆れながらも取材に入る。
「送っていただいた内容を読ませていただきました。会社の方が行方不明だそうですが、警察には相談されていますか」
「もちろん、行方不明者届を出しました。皮肉なことに私たちもAI反対派への事故を画策したと疑われていますから、警察も熱心に捜してくれています」
「まだ、見つかっていない?」
「ええ。私自身、反対派に誘拐もされたのですが、そのグループとは別なようです。それに、単に反対派の仕業にしては、不思議なことが続いて……」
その時、カウンター奥の食器棚に置かれたコーヒーカップが、カタッと微かに鳴った。
常磐道は、眼だけを動かしてその方向を見る。続けて、右、正面、左と素早く視線を移した。
有江も釣られてカウンターを見るが、当然のように店員はいない。
「心霊現象と言っても、全てが未知の現象というわけではありません。不思議な現象であっても、大部分は古典物理の範疇で説明できるのです」
常磐道が、突如、話題を変えた。
「ポルターガイスト現象というものがあります。誰もいないのに大きな音がしたり、物が勝手に飛び交ったりする現象です。ここでも、その内に食器棚のカップが揺れ始め、テーブル上のメニューが倒れます。窓は震えて、壁のアンティーク照明は割れ……」
常磐道が話している間にも、店内のアクリル板のメニューがバタバタと倒れ始めた。
カウンター奥の食器棚は、ガチャガチャと音を立て始める。
上部が緩やかなカーブを描く格子窓は、ビリビリと震える。
三灯の壁掛け照明は、一瞬明るくなった後に電球が切れた。
カップと窓の揺れは五秒ほど続いて、静かになった。
「どういうことですか」
「どういうことですか」
有江と野々村は、同時に常磐道に尋ねた。




