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内気な事務員が社内エースに抱く片思い、届かぬ感謝のメールが運命を変える

私は藤原凛、26歳。東京に本社を構える大手商社の事務員として、オフィスでサポート業務に徹する日々を送っている。

雑務が中心だけど、どんな仕事にも丁寧に向き合うのが私のモットーだ。誰かの役に立つことが好き。いや、正確には、そう思わなければ「事務員」という仕事に誇りを持つのは難しいのかもしれない。目立つ役割ではないけれど、みんなを支えるために今日も働いている。


でも、そんな私にも胸の奥に秘めた特別な想いがある。

それは――営業部のエース、川口蒼さんへの憧れ。


川口蒼さん、28歳。営業部の中核を担う存在で、誰もが頼りにする優秀な人。彼の姿を見ていると、自分の仕事がちっぽけに感じてしまう。


そんなある日のこと。急ぎの書類を渡そうと通りかかった私に、川口さんが声をかけてきた。

「凛さん、これ急ぎだけど対応お願い!」

彼の頼みを聞きながら書類を片付ける合間、ふと視線が川口さんを追ってしまう。きっと私の気持ちなんて、彼には届かない。だって、事務員と営業のエースなんて、住む世界が違うから。


しかし、その日だけは少し違っていた。


夕方、私は営業部の会議室に資料を届けに行った。中を覗くと、白板に並んだ数字を前に、川口さんが苦い顔をしている。

「……これじゃ間に合わない……」

どうやら独り言のようだ。思わず足が止まった。こんなに追い詰められた様子の川口さんを見るのは初めてだ。話を聞けば、明日のプレゼン資料に重大なミスが見つかり、データを一から修正しなければならないらしい。一人で全てを背負い込んでいるように見える。


(どうしよう……声をかけるべき? でも、こんな場面で私なんかが出しゃばるのは失礼かもしれない。川口さんは優秀だから、きっと一人でできるはず……)


そう思って足を引こうとしたけれど、彼が疲れきった表情でパソコンを見つめる姿が胸に引っかかる。


(だけど、困っているなら……私にもできることがあるはず。おこがましいかもしれないけど、少しでも役に立ちたい。)


私は思い切って声をかけた。

「川口さん、私でよければお手伝いします。」


その瞬間、自分の顔が熱くなるのがわかった。図々しいかもしれない、断られたらどうしよう――そんな不安でいっぱいになる。

すると、川口さんが少し困ったように首を振った。

「……いや、そんな手間をかけさせるのは悪いよ。」


予想通りだったけれど、彼の声には強い拒絶の色は見えない。私は慌てて笑ってみせる。

「大丈夫です。こういう作業、得意なんで!」


恥ずかしさを隠すように、できるだけ明るく振る舞う。すると彼は一瞬迷った後、小さく頷いた。

「……じゃあ、お願いできるかな。」


そのひと言に、私の胸が少し軽くなる。川口さんがプレゼン資料の全体を確認し、私は修正データの入力に取り掛かった。一緒に仕事をするなんて初めてのこと。ドキドキしながらも、目の前の作業に集中する。


「すごいな、藤原さん。あっという間に進んでる。」

不意に川口さんがそう言った瞬間、胸が高鳴る。

「いえ、全然そんな……」

口では否定しつつ、内心は嬉しくて仕方がなかった。


―――


数日後のオフィスの昼休み、周囲がざわめいている。同僚たちの会話が聞こえてきた。

「川口さん、異動になるんだって。」

「えっ、本当に?」


突然の話に、私は手に持っていたファイルを落としそうになる。すぐに席に戻って、冷静を装う。

(異動……川口さんが?)


上司の正式な発表によれば、川口さんは営業部の強化プロジェクトの一環で福岡支店へ異動するとのこと。期限は1年。大きなプロジェクトで、福岡支店を中心に動かす必要があるらしい。


(福岡……ここからどれくらい離れてるんだろう。)


スマホで距離を調べると、新幹線で五時間以上。飛行機なら一時間半ほど。いつでも同じオフィスで見かけられた彼の姿が遠くなる。それを思うと、胸がぎゅっと締め付けられた。


周囲の同僚の一人が川口さんに尋ねる。

「川口さん、異動って本当なんですか?」

川口さんは控えめに笑いながら答えた。

「福岡支店の取引先との調整が必要でね。しばらくそっちを任されることになったんだ。」


(やっぱり……川口さんなら信頼されるに決まってる。でも、それってつまり、このオフィスからいなくなるってことだ。)


彼の声が聞こえるたびに胸の奥がじわじわと痛んでいく。笑顔のつもりでも、その場を離れるときには涙が出そうになった。席に戻ると、思わずため息が漏れてしまう。福岡は遠い。


1年なんてあっという間かもしれないけれど、毎日顔を合わせるのが当たり前だった人がいなくなると思うと、心にぽっかり穴が空いたような感覚だった。


(きっと、もう話す機会も少なくなるんだろうな……。)


あの日、作業を手伝ったとき、ほんの少しだけ近づけた気がしたのに。これからその距離がまた広がっていくと思うと、胸が苦しくなる。


―――


その日の夜、私は残業後のデスク周りを片付けていた。ふと視線を上げると、川口さんがスマートフォンをじっと見つめている。普段はメールや連絡をほとんどPCで済ませる人が、スマホを使うのは珍しい。


彼はスマホの画面を操作しながら、少しだけ眉間にシワを寄せていた。

(何を考えてるんだろう?)


そう思ったけれど、声をかける勇気は出なかった。何か大事な用事なのだろうと自分に言い聞かせ、そのままオフィスを後にした。


帰宅して部屋で一息ついたとき、先ほどの真剣な表情が頭をよぎる。でも、その光景が後に私を大きく揺さぶる出来事につながるとは、そのときは想像もしなかった。


―――


それから数週間後。仕事が落ち着いたタイミングでメールを整理していると、普段はあまり確認しない迷惑メールフォルダに目が留まった。妙に気になる件名があったのだ。


「件名:ありがとう」

差出人は川口蒼。クリックすると、画面に短い文章が表示された。


「昨日は本当に助かりました。あなたのおかげでプレゼンを無事成功させることができました。今度、よかったらご飯でも。」


心臓がドクンと跳ねる。嬉しさと同時に、こんな大事なメールを見落としていた後悔が押し寄せてきた。


(どうしてもっと早く気づかなかったんだろう……。)


メールの画面を見つめながら、手が震えるのを感じる。返事をしなきゃ、そう思うのに手が動かない。


(なんて返事をすればいいんだろう……。「嬉しいです」だけだと軽いかな。そもそも、こんな素敵なお誘いに、私なんかがどう答えれば……?)


いつも遠い存在だと思っていた人が「ご飯でも」と誘ってくれるなんて。嬉しいのに、不安や戸惑いが入り混じって、心が整理できない。


(ちゃんとした返事をしたい。でも、今すぐ送って後悔するのも怖い……。)


考えすぎる自分が少し嫌になる。それでも、川口さんの言葉をどう受け止めればいいのか、もう少し時間が欲しかった。


―――


次の日の午後、同僚たちの話が耳に入る。

「今日、川口さんの送別会だよね。」

「そうそう、会社近くの居酒屋でやるみたい。でも、蒼さん、二次会には来ないらしいよ。」


どうやら引っ越しや支店での準備が忙しく、送別会も短時間だけの参加らしい。


(川口さん、きっと大変なんだ……。)


そもそも私は事務員で、普段営業部のメンバーと直接関わる機会が少ない。だから送別会には呼ばれていない。それを当然と思いつつも、やっぱり寂しさは拭えなかった。


(でも、私なんかが寂しいと思うのはわがままかな……。)


職場のみんなが当然のように彼を見送り、別れを惜しむ。だけど私はその輪には入れず、静かにデスクに戻るしかない。送別会では、きっとみんなが笑顔で盛り上がっているだろう。


(川口さん、きっと笑ってるよね。でも、あの優しい笑顔を、もうここでは見られなくなる……。)


想像するだけで胸が締め付けられるようだが、笑い合う人たちの中に自分がいないという事実が、さらに心を寂しくさせた。


―――


その夜。川口さんからのメールを改めて読み返すと、胸がほっと温かくなるのを感じる。でも、その一方で自分の中に湧き上がる迷いは消えない。


(これ、本当に私に向けてくれた言葉なのかな……。川口さんは社交辞令でこんなこと言う人じゃないけど……。)


マウスを握りしめる手が少し汗ばむ。返事をしなきゃと思うのに、どんな言葉を選べばいいのか分からない。


気づけば時計は午後8時を回っていた。送別会の一次会は、そろそろ終わる頃かもしれない。


(川口さんは会場を出たあと、どこに行くんだろう……。)


送別会の場所も連絡先も知らない。聞こうと思えば営業部の誰かに確認できるけれど、それさえためらってしまう。


(でも、もし彼が駅から帰るなら、まだ間に合うかもしれない。)


胸の中で何かが弾けた。このまま何も言わずに終わったら絶対に後悔する。私は荷物をつかむと、オフィスを飛び出した。


―――


駅に着くと、改札口付近でスマートフォンを操作している川口さんの姿があった。いつものようにクールな表情だけど、その姿を見ただけで胸がきゅっとなる。


「川口さん!」


思わず大きな声が出た瞬間、心臓の鼓動が加速していく。いつもなら声をかけられない私だけれど、今日だけは後悔したくなかった。


(もし冷たく返されたらどうしよう……いや、それでもいい。この気持ちを伝えなきゃ前に進めない。)


驚いた顔の川口さんが、私を見つめて少し微笑む。

「藤原さん? どうしたの?」

駆け寄ると、息を切らした私を心配そうにのぞきこんだ。


「メール……気づくのが遅くなって……ごめんなさい。」

そう言うと、川口さんは首をかしげる。

「……メール?」


眉をひそめる彼に、私は涙が出そうになるのを必死で堪えて言葉を続けた。

「すごく嬉しかったんです。だから……私も、ご飯、行きたいです!」


声が震えているのが自分でもわかる。それでも、これ以上後悔しないために思いを伝えた。川口さんは一瞬驚いたような顔をしたあと、安心したように柔らかく笑う。

「そうか……良かった。伝わって。」


その短い言葉が胸に響く。私の思いが確かに届いた。安心と嬉しさで胸がいっぱいになる。


ちょうどそのとき電車がホームに滑り込む。川口さんはスマホを手にしたまま少し歩いて、改札を抜ける直前にもう一度振り返った。

「向こうに行っても、必ず連絡するよ。」


「絶対ですよ。」


私が笑顔で返すと、彼は小さく頷いて電車に乗り込んだ。ドアが閉まる直前までこちらを見つめ、小さく手を振ってくれる。


電車がゆっくり動き出す。窓越しに見える川口さんの姿が次第に遠ざかっていく。

(行っちゃうんだ……でも、また会えるよね。)


見えなくなる背中を見送りながら、私は心の奥で静かに決意した――次に会うときは、もっと自信を持ってこの気持ちを伝えよう、と。


彼の姿が完全に見えなくなるまで、その場を離れられなかった。心の中で「ありがとう」と何度も繰り返しながら、少しだけ自分に誇りを持てた気がする。


私が踏み出した小さな一歩が、きっとこれからの未来を変えていく。

この日、私は初めて勇気を出して、胸の奥に秘めていた想いを言葉にした。

そして、その先に広がる新しい物語を、期待して待とうと思う――。


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