℃-more - 避雨と八月、白花夜行
「────そうだろ、お前?」
「────そうだね、圭」
その声が聞こえた瞬間、反射的に指を弾いていた。
パチンッ
音が鳴る。そして見る。
近くの茂みを割ってこちらへやって来る人影。周囲は暗闇、街灯もまばら、だがその声と背丈だけで分かる。明確に分かってしまう。
──メグだ。
興味はない。とうに失せた。もうアレに期待することは何もない。
それでも目が離せない。暗闇に浮かび上がる黄色の髪。短く整ったその前髪の隙間から覗く、黄色い瞳。怯えたような表情。あの日見た、記憶から蘇ったあの「唄川メグ」とは違う、現在の唄川メグ。
オレにはもう必要ない、関わりのない舞台装置。
それでも、それはあの日の。
あの子との。
次に目に入ったのはK汰の口元だ。それがゆっくりと動くのを目で追う。予測する。
〈マキハル、壁だッ〉
細かい予測も必要ないほど短い単語。と同時にマキハルが身体を分解。花弁がオレの視界を塞ごうとじわじわと展開されていく。
問題ない。この程度の壁は障害にすらならない。ライターを構え……、
構えようとした瞬間、今度はK汰の周囲の空気が揺らぎ始めた。縦型に1、2、3本。見慣れた攻撃、K汰の異能。だが隙間は十分。回避は用意だ。
K汰の異能がこちらへ向かい始める。その間にもK汰とマキハル、両者を視界から隠すようにマキハルの花弁がオレの視界を妨害するために広がっていく。
ライターを握った左手に力を込め始める。1秒足らずでライターは着火、直後には花弁の壁に接触、すぐさまライターから手を放してK汰の異能を回避。問題ない。
ライターを付けながら同時に身体を捩じり始める。2本目と3本目の間、その隙間にくぐらせるように、K汰達に対して身体を直角に、
……いや、待て。
花弁の壁を凝視する。ライターの炎が触れた箇所、熱せられた火の粉が、
────燃え広がっていない。
ライターの火は花弁に燃え移るどころか、淡い薄桃色の上を滑っていく。まるで水滴が葉の上を転がっていくように、滑って、散って、掻き消えていく。
そして気付く。花弁と炎の間に、揺らめく空気の層が。燃え移ろうとする炎を拒絶するように。
まさか、K汰の異能──?
捩じり始めた身体、その視界の端でK汰の口が再び動く。
〈──い〉
なんだ。何を言おうとして、
〈──ま〉
「今」。なんだ。なにを。いや、K汰は何か仕掛けて、
その時、ようやく茂みの奥に別の物を視認した。飛び出してきたばかりのメグじゃない。近くまでやってきた野次馬でもない。いや、そもそも人間ですらない。
────こちらをじっと見る、羊の人形。
しかもただの人形ではない。大人の人間くらいのサイズ。表面の形状からしてコンクリート製。そのくせ色は黒や灰色などの単調ではない。その色合いはまるで夜の街、いや、その背後の風景そのものを迷彩として、保護色のように潜んでいた。その口元が、K汰の言葉に呼応するように動い、
まずい。何か来る────
だが、それ以降の思考は止まった。
耳に痛みが走り出した。正確には鼓膜だ。高出力の音が、聴覚を、
視界が歪み始める。平衡感覚が取れない。最初はそっと、しかし徐々に手遅れなほどに。聴覚が塞ぎ始める。立っていられない。もしかしなくともZIPANDAだ。どうやって、などとは考える暇もない。早く、範囲の外へ、
そう思ったのも束の間。
続けざまに、頭上に影が落ちて来た。
視線だけ素早く動かす。月を背に翻る茶色いチェックスカート、白い半袖のブラウス、胸元の赤いネクタイ。ふわりとなびく短い黒髪の合間から、赤みがかった茶色い瞳がオレを見下ろしている。
Novody。
カルと交戦していたはずの2人の攻撃。どうやって、いつの間に、考えている場合ではない。しかしNovodyの間合いは既に避け切れる範囲を超えていた。
右手を動かす。Novodyが行なう落下からの膝蹴りを受け流そうと、右手を、
そこまで動かして、すぐに気付く。
無理だ。Novodyの異能、その本質は【不干渉】。
まずい、判断を誤っ────
次の瞬間、
ゴッ──!
激しい鈍痛が頭に直撃した。
意識が飛ぶ。脳震盪。骨が折れる感覚。声を出す余裕すらないまま、地面に叩きつけられる。
異能が解ける。全てが何事もなかったかのように動き出す。そしてK汰の声がする。
「……やっぱな。あんたは予測した未来を見ているんじゃねえ。あんたは自分で、」
もういい。それ以上は言わずとも分かる。そんな言葉すら口から出ないほどに、身体の力が抜けていく。
そう。K汰の言葉は正しい。
ただ見るだけ。オレの異能はたったそれだけの、どこまでも陳腐な代物でしかない。
全ては自分のため。身勝手で自己満足な、才能のない自分のため。
あの子のようになれなかった、自分のための────
そうして、意識は途切れた。




