K汰 - ステップ
玄関の方から、ただいまー、と圭の声がした。
「くそあっちい……。ったく、来るなり家主を放り出しやがって」
「あら、遅いお帰り。アイスぐらいは買ってきてくれた?」
「家主に言うセリフじゃねえ……、ってうおっ!」
部屋に入ってきた圭は目を丸くして立ち止まった。そのままゆっくり自分の部屋を眺めなおしている。片付けられた床も、ピカピカの台所も、換気の行き届いた窓辺も。最初の圭の部屋とは何もかもが違う。驚くのも無理はないと思う。
見違えるほどの光景を前に少しばかり立ち尽くす圭の視線は、一通り部屋を眺めたのち、ぼくに向けられた。
圭は口をぽかんと開けたまま、じっとぼくを見つめる。……だんだん居心地が悪くなる。
「……へ、変かな、この格好」
「────あ、いや、そういうわけじゃ、ねえ、けど、」
しどろもどろの圭。その様子をアサヒはにやにやと笑いながら、もう一度言った。
「どうよ、アイスぐらいは買ってきてくれても良いでしょう?」
「……仰せのままに」苦々しくつぶやく圭。
「私、ハーゲンダッツのクッキー&クリームね」
「人の心ねえのかあんた」
「アナタは何味がいい? 今の圭くんなら何でも買ってくれるわよ」
「じ、じゃあぼく、この前食べたやつ、で」
「はいはいバニラ味でございますねあんたホント容赦ねえなお飲み物はどうされますか!」
「よきにはからえー」
くっそおおおっ、と叫びながら圭は再び玄関から飛び出していった。ぼくはその背中を、呆気にとられながら見送るしかなかった。
「それで。二人はこれからどうするの」
唐突にアサヒが問いかけてきた。扇風機とエアコンの涼しさの中。ちゃぶ台を三人で囲みながら、買ってきたアイスを口に運んでいた圭が唸る。
「まだ決めてねえよ。服を調達する、ってのはとりあえず達成したからな。またゆっくり考えるさ」
「服を提供したのは私なんだけど?」
「……ハイ、感謝してマス、アサヒ様」
「それでよろしい」
そこでアサヒは一度間を置いて、でもね、と付け足した。
「正直な話、ずっとこのままって訳にもいかないでしょう。もしこの子に帰る場所が有るなら、それは私達がすべきことよ」
思わずスプーンの手が止まる。圭も同じなのか黙ったまま、アイスのカップを見つめ続けている。
アサヒの言う通りだ。ぼくは、ずっとここには居られない。圭やアサヒとずっと一緒には居られない。誰が考えたってそうだ。
ぼくには記憶がないけれど。ぼくが「ここに居る」ということは「かつてどこかに居た」ということだ。圭の部屋で過ごすのは居心地が良い、外は怖い、出来ればずっとここに居たい。でも、ここがぼくの元居た場所じゃないことはわかり切っている。
それに、ずっと圭やアサヒにお世話してもらうわけにはいかない。圭は「好きなだけ居ろ」って言ってくれたけれど、圭には圭の、アサヒにはアサヒの生活がある。圭がパソコンに向かう時間も、アサヒが子供と過ごす時間も、どちらもぼくの物じゃない。名前も忘れて、過去も忘れて、誰かに縋るしかないぼくが、独り占めしていい物じゃない。
俯くぼくの肩に、アサヒがそっと触れた。
「別に、アナタをどこかに放り出そうって話じゃないわ。圭くんも絶対にそんなことしない。もちろん私も望んでない。それに、」
「それに……?」
「私も聞きかじった程度だけど。記憶を無くす、ってことは『記憶を消してしまいたい』って感じる程の何かがあったってことだもの。アナタの過去に何があったのか、それが分からない以上むやみに動くのは良くないわ」
「だったら」圭が口を開いた。「尚更、いますぐ決める必要ねえだろ。……『帰る場所』ってのを探すために、こいつを無理やり外に出すつもりは俺にはねえし。そのためにあんたに話したわけでもねえぞ」
「それは分かってる。そんなことしない。でも、この子の意志は知っておきたいの」
ねえ、とアサヒがぼくを見る。優しい目で、でも引き結んだ唇で、ぼくに問う。
「アナタは、これからどうしたい?」
視線を落とした。手元には空っぽのアイスの容器。底に残った、掬いきれなかった溶けたアイス。いくらスプーンでなぞっても取れない、どろどろの液体。
ぼくの記憶はからっぽだ。頭の中には何もない。辿れる何かが一つもない。大事なものを思い出せないのに、ぼくが決めていいとは思えない。
だけど。
「────知りたい。知ってみたい、"帰る場所"」
そうだ。ぼくは、知りたいと思っている。根拠はないけど。自信は持てないけど。記憶はないけど。
それでも、意志はある。
「お前、無理してねえだろうな」
圭の言葉にそっと首を振る。
「してない。それに圭も言った。『生きやすくするためなら』って」
圭が小さく、あっ、と声を上げた。
そうだ。圭が言ってくれたんだ。「生きやすくするためなら人脈は使え」。「お前にはもう少し仲間がいても良い」。
その言葉に。何より、そう言ってくれた圭に。ぼくは背中を押してもらったんだ。
アサヒが一瞬目を開き、それから微笑んでくれた。「やっぱりアナタは強いわ。……それなら1つ、私から教えてあげられることがある」
「アサヒ?」
「ただし、頭が痛くなったらすぐ言って。無くした記憶に触れるのって、本当に痛みが伴うらしいから」
首を傾げ続けるぼくへ、アサヒは慎重に言葉を選んだ。
「アナタ、『声優』って知ってる?」
「た、たぶん……。映像に、声を当てるヒトのこと……だよね?」
「良かった、その認識は同じね。なら話が早いわ」
「アナタの声、声優の『汐野日影』の声と、まったく同じなの」