DeDeDe 歌ってみた - 獅子宮
ゴトン
「…………ん?」
ドアの外で物音がした気がした。
参考書に引いていたマーカーの手を止める。明かり取り用の窓からは、日が傾いてオレンジ色に変わった外の光が差し込んでいる。
玄関チャイムの音ならすぐに分かるし、壁向こうの物音からして斎も部屋にいる。さっきは「曲を作る」と息巻いていたし、キリのいい所に差し掛かるまでは部屋から出てこないだろう。いや、それともある程度出来上がったのか? 斎のラフ上げの早さはよく理解しているつもりだ。
じゃあやっぱり斎?
「なんだー? 何か用かー?」
声を上げてみても、ドアの向こうからは特に反応がない。気の所為だったのか、と半信半疑になりながら、一応覗いてみるか、と腰を上げた。参考書にひたすらマーカーを引く作業にも飽きてきた所だ。ただの気のせいだったら、リビングにでも降りて麦茶でも飲もう、か……
「────────は?」
ドアを開けようとした瞬間、ゴン、と音がした。何かに引っかかったようにドアはそれ以上開かない。そしてその少しの隙間から見えるのは。おれの見間違いじゃなければ、
廊下に突っ伏した、メグ。
「おぉぉおおおおおおおおおおいッ!? ななな、なにがどーしたしっかりしろぉっ!?」
「み、やと……」
か細い声を上げるメグ。
「ちょ、うど、よかった。あ、のね、おねがい、が、あったんだけど」
「お、お願い!?」
「ぜんぜん、ちから、はいらなくて。……も、もしかして、まずい?」
「もしかしねーでもマズいに決まってんだろこの絶食おバカっ! イツキぃー!! 斎、ヘルプミー!!!!」
「あの状況なら"help me"じゃなくて、"help us"じゃない?」
「突っ込むトコそこじゃねー気がする」
キッチンカウンター越しに顔を覗かせた斎へ力なく言い返す。
「関係ないわけでもないでしょ、少なくとも今の私達には。宮斗、この前の模試でも英語の成績いまいちだったじゃない」
「だから何で知ってんの……? てか、そーゆー斎も理科の基礎4科目全般、けっこースレスレだろ」
「わ、私、文系志望だから……」
お互いに妙な探りを入れるおれ達を、メグは静かに聞いている。
おれと斎は、2階でぶっ倒れていたメグを2人掛かりで何とかリビングまで下ろした。ここ数日間ほぼ絶食状態だったメグはさすがに軽かった。肩を支えながら降りようかとも考えたけど、体力ゼロのまま這うように階段を上がってきたらしいメグは顔面蒼白で、足元もおぼつかなかった。バランスを崩して怪我でもさせたら大ごとだ。斎と2人で慎重にメグを支え、そろりそろり階段を下り、いまではダイニングテーブルの一席に目を閉じたまま大人しく座っている。
母さんもそろそろ帰ってくるだろうし、軽い食事も、いま斎がコンロに置かれた鍋を温めてくれている。特にすることもないおれは、メグの真正面に座ったまま「そんで?」とメグに話を振った。
「出来上がるまでもーちょい掛かりそうだし、先に聞くけどさ。あんたのお願いって?」
おれの言葉でメグが目を開ける。いまだに迷うような物憂げな視線の縁、細い睫毛がそっと揺れる。
「────マキハル、が。言ってた」
かき消えそうなほどまで掠れたメグの声が、リビングの空気を震わせる。そういえばマキハルさんの姿が見えない。いつのまに帰ったんだろうか。
「音楽が好きだって。曲作りが好きだって。音楽は楽しいもので、それはこれから先も変わらない、って」
メグは記憶を反芻するように虚空を見つめている。確かにどれもマキハルさんの言いそうな台詞だ。あの人特有のキラキラした目で熱く語る姿が目に浮かぶようだ。
でもメグは、そこで顔を暗くした。
「……ぼくは、それが分からない」
キッチンにいるイツキが小さく息を呑むのが分かった。その気持ちはよく分かる。「唄川メグ」に関する記憶の薄いおれですら、その言葉に少なくない衝撃を受けた。
「進みたい、って、思った。圭やみんなと、これから先も、進みたいって。そう思ってた。でも、みんなの好きな音楽を、歌を、ぼくはまだ、好きだって思えない。楽しいものだ、って思えない」
そんなおれ達の感情を薄々察しているのか、メグは目を伏せたまま、とつとつと囁き続ける。
「思えないぼくに。思う資格のない、ぼくに。"これから先"なんて、要らない。……そう、思ってた」
おれも斎も、相槌も打たずに押し黙る。
確かに、いまのメグは「唄川メグ」とは違う。それは先日の騒動でよく分かった。目の前の少女に「唄川メグ」の面影を重ねるべきじゃない、とも思う。それでも、改めてメグ本人の口から言葉にされると、胸の奥がキン、とどうしようもなく疼く。歌い手時代に何曲か「feat.メグ」の楽曲を歌ってみただけ、その記憶を思い出せただけの自分がこうなんだ。「唄川メグ」と一緒にいくつも楽曲を作ってきた斎が、黙ったままどんな感情に苛まれているか、想像に難くない。
メグは、どうしておれ達が傷付くような、そんな。
おれ達の重い空気が伝わったのか、メグは一層視線を落とす。
「……ごめん、なさい。こんなこと、言って。でも、だからこそ、お願いが、ある」
そのとき、メグはようやく顔を上げた。吸い込まれるような黄色い瞳に、一瞬光がよぎった。
「ぼくに、歌。教えて」
「────────へ?」
数拍の後、変な声が出た。
戸惑うおれを余所に、メグは繰り返す。よぎった光が揺れ、震え、それでも必死に灯る。
「ぼくに歌を、教えて、ほしいんだ」
「……ご、ごめんな。ちょーっと話の展開が分かんねーんだけど……。さっき、音楽が楽しいってのが分かんねー、とか言ってなかったか?」
メグはこくん、と頷く。
「好きでもねーんだよな、音楽?」
メグはまたこくん、と頷く。
「じゃあ何で……」
理解が追いつかない。メグはさっき音楽が楽しいって思えない、と言った。それなのに歌を教えて欲しいっていうのはどういう意味だろう? 彼女が本気なのは分かるけど、それじゃあ楽しいと思えないことをやりたいっていうのはどういう意味だ?
戸惑うばかりのおれに、ずっと黙っていた斎が口を開いた。
「大丈夫だよ、宮斗」
キッチンを振り返ると斎が笑っているのが見えた。安心したような、心からの笑顔があった。斎が優しい眼差しをメグに向ける。
「メグちゃんは知ろうとしてくれるんだね。私達を──私達の好きなものを」
メグはもう一度、力強く頷く。
呆気にとられた。唖然とした。自分が好きでもないものを、「誰かの好きなものを理解したい」という、ただそれだけの理由で努力する。メグはそう言いたいんだ。
努力が嫌いなわけじゃない。やりたいこと、好きなものの為に努力する、何度でも改善することはとても大事なことだ。おれ自身、歌い手としても「HighCheese!!」の1人としても、努力をしなかったことは一度だってない。
でもそれは"好きなもの"があるという前提があってこそだ。心の原動力になりえないものの為に努力したい、と思えるほどおれは出来た人間じゃない。
「マキハルは、言った。歌も、音楽も、楽しいものだって。それは、これから先も変わらない、って。そしてそれは、ぼくが選べばいいことだ、って。"これから先"を、ぼくが、選ぶんだって」
それなのにメグは、吹けば消えそうな光を瞳に宿しながら、必死に言葉を紡ごうとする。
「ぼくに資格は、無い。でも、知りたい。ぼく、知りたい。歌を、知りたいんだ。……あとのことは、その後、決める」
「で、でもよ。それならK汰さんとかの方がいーんじゃ?」
おれも必死に言葉にする。「別に、おれ達に頼まれるのが嫌、ってわけじゃねーよ? ただ一番近くに相応しい人がいるなら、そっちに聞かなくていーのか、ってだけで……」
でもメグは首を振った。そんなメグに賛同するように、キッチンの斎がふふっと笑う。
「メグちゃんは宮斗に教えてもらいたいんだよ。そうでしょ?」
「おれに? おれ達じゃなくて?」
メグも頷いている。「宮斗、この前"うたいて"? って言ってた。歌なら、宮斗が詳しい、でしょ?」
ハッとする。
記憶の底から浮かび上がるのは、声のない台詞。唄川メグがかつて言ってたはずの言葉。
〈私は歌うことが大好きです〉。
メグは「歌」と言った。「音楽」じゃない、「曲作り」でもない。
メグは──「唄川メグ」じゃない彼女は、「唄川メグ」じゃないまま、歌が好きじゃないまま、それでも知ろうとしている。比較されることを分かっていながら。切り離せないもう1人の自分へ、それでも食らい付いて離さないように。
だからK汰さんでもなく、他のPでもなく、ましてや「HighCheese!!」でもなく。「歌い手:獅子宮」に頼んでいるんだ。
────なんだ、メグ。
あんたもまだ、張り合いたいんじゃねーか。
「……そーだな。それならおれが教えてやんねーとな」
「それじゃあ、」
心なしか顔を綻ばせたメグに、大きく頷いて見せる。「ああ。あんたのボイトレに付き合ってやる。まあ、おれもちょうど久しぶりに本格的な"歌ってみた"やるつもりだったしな。折角だ、一緒にやろーぜ」
「私も応援するよ、メグちゃん」
鍋を温め終わった斎も声を上げる。「私はほとんど歌ったことないから、あんまり力にはなれないかもしれないですけど。そうだ宮斗! 今回作る曲、デュエットにするのはどうかな?」
「いやー、初めてにしちゃあハードル高すぎねーか? おれはまだしも、メグは……」
先日のカルとトリによる襲撃の件は、斎と同じタイミングでリズさんから聞いていた。いまのメグが音痴であることも知っている。依頼制作じゃない分、今回の楽曲には締め切りは無いが、それでもメグの成長具合によっては完成がいつになるか。
「それならコーラスでもいいんじゃないかな」と、斎は興奮気味に食い下がる。「ほら、少し音が違ってもエフェクト掛けちゃえば」
「だけど、それだと生歌じゃなくてもよくね、ってならねー?」
「その微妙なラインを活かす曲を書けば」
「ってことは、十八番のチップチューンか? 慣れてねー奴に早口言葉はキツイと思うぞー」
「もう、宮斗ってば。協力してくれるんじゃないの?」斎が頬を膨らませる。「否定ばっかりじゃなくて具体案を出してよ」
「そんじゃ今回の編曲ン時、いつもより多めに手を加えるぞー。おれがメグの状況を見ながら、レベルに合わせて音数減らす、っつー方針で」
「決まりだね! それじゃあテーマとコード進行、もう一回考え直さなきゃ。どうしよっかな……」
「頼むから手加減してくれよー」どうしよっかな、と言いつつ顔から嬉しさが滲み出ている斎に釘を刺す。「斎の本気は最高にワクワクする分、BPMが洒落になんねーから……」
大丈夫だって、と言いつつ鍋の中身をお玉を使ってマグカップに移していく斎。あの鼻歌の感じだと、本気で覚悟しておいた方が良さそうだ。下手すると"激唱"ばりの曲が出来かねない。制作スパンも長期に渡りそうだ。
そこまで言っておいてハッとする。メグのボイトレに、自分の喉の調整。レベルに応じた編曲作業と、斎の作曲ペースの管理。もしや、おれの方が仕事量多くなってねーか……?
「……2人とも、ありがとう」
おれ達の話を目をパチクリさせながら聞いていたメグが、そっと声を漏らす。そんなメグの前に斎がマグカップを置く。
「ありがとうは私達の方だよ、メグちゃん」
「どういう、いみ?」
「知ろうとしてくれたでしょ。私達の好きなもの」
「……それだけ、だよ。ぼくは、別に」
「それだけでいいんだよ。それだけで十分なんだよ。知ったつもりじゃない、知る前に否定するわけでもない。難しいのに進もうとするアナタへの、心からのありがとうだよ」
コトン、と置かれたカップ。そこから湧き上がる白い湯気。母さんが、メグがいつ食べてくれるようになってもいいように作り置いていた野菜スープ。具材がくたくたに柔らかくなるまで煮込まれた薄味のスープ。家族が風邪を引いた時、いつも作ってくれるとっておき。
あったかい、慰めの味。
熱いから気を付けて、という斎の言葉に静かにうなずいて、メグはコップの縁にゆっくりと口を付ける。穏やかな静けさのリビングに、コクリ、とメグの喉が鳴る。
メグの瞳が揺れて、震えて、こみ上げる何かを我慢するように、鼻先を赤くしながら何度も何度も飲むその姿を。
おれと斎は、そっと見守った。




