K汰 - 可痛
「────うん、この辺りでいいかな」
陽気な男、"カル"の言葉で全員足を止めた。
そこはビルとビルの狭間だった。さっきの開けたスペースとは打って変わって、とても狭い。ヒト2人が横並びに立って両手を広げれば、容易に手が触れてしまうほどの幅しかない路地裏だった。
夏の陽射しもここまでは差し込まない。ビルに遮られ、濃い影が辺りを覆っている。そっと視線だけ上げれば、隙間だらけの鉄製の階段がいくつもいくつも、魚の骨のように縦横無尽にはびこっていて、真っ青な夏空は千々の端切れに成り果てている。
もちろん、ヒトの気配なんて一切ない。
「いやいや、ここまで御足労頂き恐悦至極だなぁ! 皆々様におかれましては、」
「……黙れ。さっさと用件を言え」
カルの大仰な言葉を遮って、圭が唸る。ここまで歩いて来る間、圭もリズもノアも気を張り詰めたままで一言も口を開かなかった。精神的疲労からか、圭の声もいつもより掠れている。
「そうねェ」とリズも腰に手を当てる。「キティちゃんを手元に置いて、脅迫紛いのコトまでして、何も無しってワケでもないデショ?」
そう。カル達はぼくの肩から一度も手を離さなかった。実際カルは、意図的かは分からないけれど、ぼくらが無言なのにも関わらず、1人で他愛もない話を賑やかに繰り広げていた。他人から見れば、仲良く連れ立って歩いているようにしか見えなかったはずだ。
けれど、そんなカルはリズの言葉に何食わぬ顔で肩をすくめただけだった。
「脅迫だなんてそんな物騒な。僕はただ"静かな場所へ行こう"って言っただけだよ?」
「言い訳なんぞどうだっていい」圭が噛みつく。「用がねえってんならさっさと失せろ」
「怖い怖い! そんなにキレないでよ。血圧上がっちゃうよ?」
圭の噛みつきすら、カルは笑って取り合わない。それなのにぼくの肩に置いた手の力は緩めてくれない。よくできた笑顔のまま、言葉を続ける。
「まぁ、用が無いのは君達に対してなんだけど」
「……どういうこと?」ノアが不思議そうに首を傾げる。
「そのままの意味だよ、お嬢さん。僕等は君達に何ら興味がないんだ。ここまで一緒に来てもらったのは単に、円満にお別れしたかっただけさ」
カルは可笑しそうに口元を押さえる。分かり切ったことを、とでも言いたげに。
「だって君達、あの時僕等が『"この子"にしか用がないから今すぐ帰っていいよ!』なんて言ったって、絶対言うこと聞いてくれないでしょ? そこのK汰さんに至っては、僕等を公衆の面前で背後からブッ飛ばすぐらいしかねないし」
──心臓が跳ねる。
カルは"K汰"と言った。やっぱり名前を知られている。おそらくリズも、ノアも。勿論、ぼくが「唄川メグ」だったことも。
どういうことだ。「街ロマP」は来られなくなった、とカルは言ったけれど。「街ロマP」は五重奏のメンバーだったんだろうか。それとも「街ロマP」がカルやトリ達、五重奏の面々と計画してぼくらをおびき寄せたんだろうか。
だめだ、分からない。考えが定まらない。知らない、出会って間もないヒトに触れられてる時点で身体が動かない。恐怖と緊張で頭が回らない。
怖い────
「僕等にとっても、あんなにヒトの多い所で騒ぎを起こされるのは面倒なんだ。ここまで着いて来てもらったのは、邪魔の入らない場所に到着できるまで、目の届く範囲に居てほしかっただけ。だから"用が無い"、理解できた?」
ほら、とカルが圭達に手を振る。にこやかに、ひらひらと。
「もう帰っていいよ、君達。ステキな時間をありがとう! 君達に出会えて本当に嬉しかった。僕は今日の出会いを一生忘れないよ!」
パチンッ
次の瞬間、圭が動いた。
ピシ、ピシ、と細かい破砕音。圭の手元で景色が歪む。そのまま空を掴むような動作で腕を前に振って、
────いや、だめだった。圭は腕を触れなかった。
圭が腕を振るよりも早く、その腕を後ろに捻り上げたヒトがいた。
トリだ。トリが、圭の背後に立っていた。
「…………ぐ、あッ!?」
圭が痛みで顔を歪める。そのすぐ脇で、ノアが拳を振り上げた。
ふわりとした軽い身のこなしに見えるけれど、あれはきっと異能だ。ぼくらはノアの力を目にしたことがある。傷付かないが故の圧倒的な力、その拳をノアがトリに向かって、
いや、それも無理だ。トリは最初から予想していたみたいに圭の腕をパッと離し、身を翻して軽々とノアの拳を避け、そのままノアを圭の方へ突き飛ばした。
バランスを崩したノアが圭に衝突、ドサッ、と大きな音を立てて2人がアスファルトに倒れ込む。
「おっとと……、ごめんねK汰君、大丈夫?」
「ああ、あんたが早くどいてくれればな……」
それより、と身を起こす圭を、トリは切れ長の目で無感情に見下ろしていた。圭も下から睨め付けるようにトリを見据えながら、舌打ちをする。
圭の目が物語っている。おそらくぼくと同じ疑問が浮かんでいるはずだ。ぼくも、目にした光景が信じられなかった。
まただ、トリが一瞬の間に移動した。
いや、正確には今回は彼の動きが見えた。ぼくの背後から、向かい合った圭の背後まで最短距離で周り込み、圭の腕を捻り上げる。その一連の動きは辛うじて視界の端で捉えられた。おかしいのはその速度だ。
動く速度じゃない、彼が動き出す速度がおかしい。ほんのわずか、それはきっと1秒にも満たない刹那だろう。けれど見えた、間違いない。トリは圭が攻撃を仕掛ける前に既に動き始めていた。
まるで、圭がどう動くか初めから知っていたかのような────。
唖然とするぼくの後ろで、カルが呆れたような声がした。
「無駄だよ、言っただろう? トリさんの前で下手な動きはしない方が身のためさ」
あーあ、とカルが大袈裟に溜め息をつく。「せっかくのステキな出会いが台無しじゃないか。トリさんもトリさんだ、手加減してあげてよねちゃんと。大人げない」
「────ただの自衛だ。手加減も何もない」
特に、とトリが圭を見下ろす。「この男の異能は厄介だ。止めていなければオレ達が死んでいた」
「まあねぇ。僕も直に見て分かったよ、あんなのまともに喰らったら怪我どころじゃ済まないだろうさ。あーあ、だから円満にお別れしたかったのになぁ。────ほんと、しょーがないなぁ」
……ズプッ
直後、激痛が走った。
「────────ッ!?」
「へぇ、一応痛覚あるんだ。本当に受肉してるんだねぇ、参考になるよ!」
嫌に明るいカルの声が耳元で響く。けれど、ほとんど耳に入らない。理解できない。だってそれどころじゃない。痛みで思考が鈍る。
痛い。イタイ。喪失した記憶に触れた時の頭痛、それに似た、身体を貫くような激しい痛み。カルに肩を押さえられたまま、その痛みがする方へ何とか視線を向けた。
細く、鋭く伸びたカルの爪。異様なまでに伸びたその白い曲線が、
ぼくの左腕に突き刺さっていた。
訳が分からない。理解できない。状況も、展開も、理由も、何もかも分からない。分からないのに、爪先はさらに深くぼくの中へ潜り込む。
「────ぐ、────────ぅゔッ!!」
叫びたい。痛みが脳を埋め尽くして、叫びたい。なのにカルがぼくの口元を塞ぐ。
「そうだねぇ、痛いねぇ。電子海世界じゃ味わえない痛さだろう、耐えられないのも無理はないさ。でも仕方ないんだ! 仕方ないから我慢しててねー」
カルの指先、針のような爪が4本、滲む視界にゆらゆら揺らめく。白く、細く。その内の1本がぼくの頬を優しく撫でる。カリカリ、カリカリと、肌を柔く、引っ掻いて。
鋭い激痛。柔い掻き傷。その対比が分からなくて、痛みで頭が真っ白で、
「うん、我慢我慢。すごいねぇ、我慢できてえらいねぇ」
甘く、言い聞かせるような、カルのささやき。「ほぉら、いくらでも僕の袖口噛んでて良いからね。気にすることはない。生物として当然の本能さ。あ、一応深呼吸はしときなよ。はい、吸ってー……吐いてー……」
遠くで誰かが叫んでいる気がする。獣のような、唸り声で。圭だろうか。
痛い。分からない。時折「ドンッ」「バキンッ」と音がするけど、何も見えない。視界はずっと滲んでいて、景色はずっと濡れていて、溢れていて、圭の顔が見えない。
「うーん、なかなか大人しくならないなぁ」
カルのそんな声が聞こえた気がした。直後、痛みが増える。
絶叫。
顎が軋むほど噛む。歯の隙間から涎が滴る。息が乱れる。頭の奥が痺れていく。
遠くの唸り声が一層大きく、土煙の匂い、激しい音。
声が出ない。視界がチカチカ、眩しくて、うるさい。
いたみが止まない。力が、はいらない。
あたまがまっしろになる。
まっしろ
意識が途切れる寸前、ようやく痛みが消えた。ズッ、と何かが腕から抜ける感覚。そして静まり返った景色。
ハーッ、というカルの溜め息。
「……やーっと大人しくなったか。君もよく頑張ったねぇ、えらいぞぅ!」
頭を撫でられる感触。それは先程までの、引っ掻くような感触とは違う。細く冷たい指先がぼくの髪に沿って、甘く流れるように撫でる感覚。その手が、ぼくの目元に滲む水滴をそっと指の腹で拭う。
「ほら見て。見た目ほど怪我はしてない筈だよ、君の友達」
荒い息のまま、段々とはっきりしていく視界。そこに映る景色。
狭い空間。陽の差さない、ビルとビルの隙間。その壁際で喉を押さえてうずくまるリズ。リズの肩を支えるノア。そして、
アスファルトへうつ伏せに叩き付けられた圭。
その背中を膝で押さえつけるトリの姿があった。
「……え、ほんとに怪我させてないよね、トリさん? 救急車呼ぶとかそんな面倒なこと、僕パスだからね?」
カルに対し、トリは何も言わない。彼の表情は揺らがない。何の感情も見えない、冷たい眼。
そんなトリに足蹴にされながら、圭がピクリと動いた。口元に紅色を滲ませながら、ボロボロの状態で掠れた声を上げる。
「……な、にが、してえん、だよ」
「"なに"って?」
カルが首を傾げる。そんなカルを、地面に顔を打ち付けたまま、歯を剥き出して睨む圭。
「五重、奏……、あんたらの、目的。そいつを、傷付け、て……」
「ああ、そういうこと!」
合点がいった、とでも言いたげなカル。「なになに、君達? "にくたま"や"クイン"さんに会ったからって、僕等がメグを信奉するだけの無害な組織だとでも思ってたのかい? それとも逆かな、電子海の裏で暗躍する秘密機関とか? 何それおもしろーい!!」
"にくたま"。おそらく、たまのことだ。脈絡からして"クイン"もイツキかミヤトのことだろう。カル達はもう、ぼくらが彼らに出会ったことを把握しているんだ。
「でも残念。僕等はそんなご大層なグループじゃないんだよ。僕等の第一目的は"メグを探すこと"、ただそれだけの善良な集会さ。──ただしその先、第二目的に関して、僕等はお互いに把握し合ってはならないことになってる」
「……ん、だと」
「おっと。まだ分からないかい? つまりだね、──"メグを見つけた後は好きにして良い"んだ」
トリが圭を地面に転がしたまま、ゆらり、と立ち上がった。そのまま真っ直ぐこちらへ歩み寄り、ぼくの前にしゃがんだ。
切れ長の両目がぼくを覗き込む。感情の見えない瞳の奥に、一瞬冷たい何かが揺らぐ。
トリが、口を開く。
「────────歌え、メグ」




