K汰 - 落火拾い
〈それじゃ、話を戻すけど〉
アサヒはそう前置きして、ぼくに尋ねてきた。
〈ケータくん──もとい圭くんから聞いたけど。記憶が無いんですってね、アナタ〉
「……うん」
〈もうこの際そこは信じるとして。圭くんの家はどう? ちゃんと居候できる環境?〉
「あんたは俺の家をなんだと」
〈今更でしょう。圭くんの雑な生活習慣に散々アドバイスしてきたのに、君は一つも直しやしないんだから! その子に辛い思いさせてないでしょうね?〉
ぼくは首を振った。それから、声に出さないと伝わらないことに気付いて、慌てて「ううん」と言った。「大丈夫。昨日も、圭と一緒に、オムライスとアイスを食べた」
〈……それだけ?〉
「お、俺たち忙しかったんだよ、色々あって」
急にうろたえ始める圭。ぼく、何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。
〈ふうん。忙しかった、ねぇ……。具体的には?〉
「ぐ、具体的に、ってそりゃあ色々、」
「えっと。昨日は『スーパー』に行って、ぼく具合悪くなっちゃって……。でも圭が抱きかかえてくれて、大丈夫になって。それから汗だくだったから家でシャワーを借りて、圭の着替えを借りて、圭がぼくのこと女の子だって、」
「待て待て待て待てもっと他に言い方ってもんが、」
〈……………………もしもしポリスメン?〉
「なんでこんな会話通じねえの? 会話しよう! 誰か俺と会話しよう!?」
〈でもま、それは無いか。だって圭くんど、〉
「……通話切るぞ? 今すぐにでも」
〈冗談よ冗談。その子がいるのに聞かせるわけないでしょう。イライラしすぎは身体に毒よ?〉
圭はもう既に無言で頭を抱え続けている。ぼくには早すぎて、途中から会話の内容は分からなかったけど。圭がアサヒとの通話に気を重くしていた理由が、何となく分かった気がする。
〈でも、本当に大丈夫そうね〉 アサヒは安心したようにため息をついた。〈今のところ、二人とも特にわだかまりとか無さそうだもの。聞いた感じ、圭くんもちゃんと世話は焼けているようだしね〉
圭は、ほっとけ、と小さくこぼしながら顔を上げた。モニターの通話ウィンドウを、まるでそこにアサヒが本当にいるかのように見据えている。
「それよりヒロ……、アサヒはもう信じるのか。こいつが記憶喪失だって」
慎重に探るような圭。でもアサヒはけろっとした声で答えた。
〈ええ、信じるわ〉
「……随分と拍子抜けだな」
圭の言う通りだ。ぼくにとっては命に係わるぐらい、本当に真剣な問題。でもそれはぼくの頭の中の話だ。怪我みたいに、外から見て分かるものじゃない。今は圭も信じてくれているみたいだけど、それはたくさん話をしたからだ。
でもアサヒとはたった数分。しかもぼくはほとんど話していない。この数分でアサヒは、どうして。
「どうして、ぼくを信じてくれるの?」
ぼくが一番、ぼくを信じ切れていない。圭と知識が噛み合わない、ヒトが苦手で外に出られない、記憶がない。圭たちの常識と自分の常識が違うのだと肌で感じる。ぼくは、おかしい。それなのにどうして。
〈────何となくよ〉
「え?」
首を傾げるぼくを、アサヒは愉快だとでも言いたげに笑った。
〈そんなに変かしら。人を信じるのなんて、結局は何となくでしょう。誰かを信じるって詰まるところ、その人を信じた自分を信じる、ってことだもの。自分の中で後悔を作らず、他人に責任を押し付けない。それが守れるなら、誰を信じようが結果はあまり変わらないんじゃないかしら〉
アサヒの声は軽やかだ。それでいて、不思議なほど芯が通っている。
〈私は我がままだから。自分で決めたことには自分で責任を持ちたいの。私は圭くんの仕事ぶりを信じた。声越しでも分かる彼の人柄を信じた。だから、彼が信じたものを私は信じる。……ま、友達の友達はみんな友達、とでも思ってちょうだい〉
アサヒはそう言い放った。まるで、何も気にしていないかのように。そこに、圭と同じ優しさが滲み出ている気がした。
隣の圭の顔をそっと見やる。圭は「ほら言っただろ」とでも言いたげな表情のまま、ぼくを見返した。ぼくにはもう少し、仲間がいても良い。圭が言ってくれた言葉を反芻する。
「……アサヒは、すごい」
〈あら、アナタにそう言ってもらえて嬉しい。それとも、すごいお姉さんはお嫌い?〉
「ううん、大好き。ありがとう、アサヒ」
〈……やだ、この子可愛すぎない? うちの末っ子になる?〉
「俺はあんたのその思考が怖いよ」
「あ、アサヒ。ぼく、聞きたいことがある」
圭とアサヒの舌戦が再び始まる前に割って入った。
〈何かしら〉
「さっきアサヒ、『声越し』って言った。仕事するの、声だけで?」
〈? えぇそうよ、いつもこうして通話しながらやってたわ。私たち実際に顔合わせたこと無いし。……もしかして圭くん、何も伝えてないの?〉
圭は黙っていた。ただ冷めた目でモニターを見つめていて、でもその目には何も映っていないみたいだった。
〈……まあ良いわ。私の仕事は絵を描くことなのよ、仕事ってほど収益出してないんだけど。圭くんとはその過程で知り合ったの。アナタさえ良かったら、今度いくつかスケッチブック見せてあげるわ。練習で紙媒体もそこそこ描いてるけど、数冊なら手荷物にもならないでしょ〉
「……ん? 待て。いまあんた『手荷物』って言ったか?」
黙っていた圭が口を開いた。その言葉を一蹴するかのようにアサヒは言った。
〈言ったわよ。今度そっちに遊びに行くわ。だから圭くん、住所教えて?〉
「来んな」
〈行くわよ絶対! 私が信じたのはその子のことだけよ。安心して、君の生活習慣に関しての『大丈夫』は一切信じないことにしてるから〉
「ぜってえ教えねえ」
〈もしもしポリスメン?〉
「あんたの言い出したら聞かないところはホント昔っからだな!」
〈教えてくれなかったら『メリーさん』するから〉
「……ネタが古いんだよ」
〈なんか言ったかクソガキ?〉
圭とアサヒの会話の応酬(後半は罵り合いだと思うけど)。とどまることないその会話に呆気にとられながら、でも何だか気持ちは安らかだった。最初の緊張はもうない。あるのはただ穏やかな心臓の音。
ふと窓の方を眺めた。昨日は閉め切られていたカーテン。その隙間が昨日よりも少しだけ広くなっていて、外の真っ青な夏空に浮かんだ入道雲が、何とも鮮やかだった。