K汰 - 蠍火
圭は強く頷く。
「ああ、まず間違いねえ。ここまで来て『唄川メグ』の声が思い出せねえのは普通に考えておかしいだろ。……逆に言やあ、今より『唄川メグ』に近付けりゃあ、あいつの歌声が蘇る可能性は高え、っつー話だ」
心臓が静かにトク、トク、と鳴る。
唄川メグの歌声。みんなにたくさんの影響を与えた、電子姫の歌声。
それは、かつてのぼくの歌声であり、この世界に欠けたもの。
ぼくらが唄川メグをもっと知る。それがいつまで、どこまで、どれだけ知ることなのかは分からないけど。そうすればぼくらは、唄川メグを完全に思い出せる。
唄川メグが、現実のものになる。
────でも。
そのとき、たまがぼくに〈ねぇ〉と尋ねた。
〈君はどうなの? "歌う"の、好き?〉
急な質問で、思わず面食らってしまう。その沈黙を違う意味でとらえてしまったのか、たまはぎこちなく付け加える。
〈いや、別に変な意味じゃなくて。もちろん比べたい訳でもないし……。ただ、その夢の中の『唄川メグ』は歌うことが好き、って言ってたみたいだけど、君はどうなのかなって気になっただけで〉
「ぼく、は……」
自分の胸元をぎゅっと掴む。なんだろう、心臓の辺りがぐるぐるする。うまく言葉が定まらない。
「……ぼく、まだ"歌う"っていうのがよく分かってないんだ。"同じ音の高さで声を出す"っていうのは知ってるんだけど……」
歌う。一度だけ、ショッピングモールの中の真っ白な階段室で、独りで声を出したことはあった。
でもあれはきっと歌じゃない。歌ったなんて言えない。あれは圭の曲に合わせて、声も歌詞もない音の波に任せるように、思いつくままに喉から音を出しただけだ。まだ「唄川メグ」の声を思い出せていないけれど、あんなものはきっと「唄川メグ」の歌と比べることすら烏滸がましい。
「ちゃんと歌ったことが、無くて。だから、好きなのか嫌いなのかも、よく分からない」
「そうなんだ? ちょっと意外かも」
少し驚いた様子でノアが微笑む。
「それとも、まだ『唄川メグ』ちゃんとしての歌声が思い出せていないこととも何か関係があるのかな? 不思議だねぇ」
そんなノアの笑顔をよく見ないまま、思わず俯いた。乾いた土の上で、木洩れ日が不安定な水面みたいにゆらゆらと揺れている。
────ぼくは、「唄川メグ」の声を思い出さないといけないんだろうか。
ふいに浮かんだ疑問に、自分のことなのに驚いてしまう。
違う、思い出さないといけないわけじゃない。ぼくはぼくで、メグはメグだ。同じだけど同じじゃない。ぼくとメグはそういう存在なんだ。だから、思い出すことは別に義務でもなんでもない。
でも、とも思う。「唄川メグ」を──ぼくの過去を受け入れるなら、彼女の歌声を受け入れるべきなんじゃないか。それに、もし圭の言う通り、ぼくの記憶とみんなの記憶が繋がっているのなら、ぼくが「唄川メグ」を思い出すことを諦めてしまったら、みんなもこれ以上メグとの記憶も蘇らないんじゃないだろうか。
そっと、みんなの顔を横顔を見る。
みんなが、誰もが、泣きながら、苦しみながら、それでも必死に手を伸ばす「唄川メグ」。電子海の奥底に沈んだ「虚数の歌姫」に、それでも惹かれて追い求める、ぼくが出会った大切な人たち。
「唄川メグ」は求められている。必要とされている。会いたいって願われている。それほどまでに求められているメグを、ぼくが諦めてしまったら。思い出さなくていい、って放棄してしまったら。
でも、それじゃあこの、もやもやは?
心臓の奥で冷たく固まったままの、言葉にできない何かは、一体────
すると、今度はノアが「そうだ!」と声を上げた。
「じゃあ試しに歌ってみようよ!」
「……え?」
「歌ったことがないなら、せっかくだし歌ってみようよ。メグちゃんも好きになるかもしれないし、もしかしたら何か思いだせるかもしれないでしょ?」
ノアは戸惑うぼくをよそに、スマホの中のたまに話しかける。
「にくたまうどん君、その中にアプリ入ってないかな? ピアノでも何でも大丈夫なんだけど」
〈い、一応"ガレージバンド"なら入ってる、けど〉
たまも急な展開にたじろいでいる。でも、その言葉の裏に、隠せない期待感のようなものも覗いている。
「ちょ、ちょっと待ってノア!」慌てて声を上げるぼく。「"歌う"って言ったって、ぼく、どうすればいいか、」
「ふふ、安心してメグちゃん。普通の楽曲は歌詞もメロディもリズムもあって大変だから、今回は同じ音を出してみるだけだよ。大丈夫、一緒にやってみようよ」
「で、でも……」
話がどんどん進んでいく。縋るように横目でちら、と圭を見たけど、圭は身動き一つしなかった。何もない虚空を見つめるばかりで、表情もうまく読み取れない。
そうこうしているうちに、準備が整ったようだった。ノアがスマホの画面をタップすると、澄んだ音が一音〈ポーン……〉と響いた。少しずれた位置をタップすると、今度は別の音が鳴る。
蝉の声で聞こえにくいのを気にしてか、ノアが席を離れてぼくの隣に座った。ベンチは2人掛けだから、ノアも座るとなると少し窮屈だ。ノアと圭に挟まれる形で、ぼくらは身を寄せ合うように座る。両肩や二の腕辺りがそれぞれ圭やノアと密着して、2人の体温が伝わってくる。夏の蒸し暑い空気と合わさって少し熱い。
「それじゃあ、この音。さっきメグちゃんが言ってたみたいに、同じ高さで声を出すだけで良いからね」
スマホの音が鳴る。合わせて、同じ高さの声をノアが出す。
「La────……」
ノアが微笑みながら目配せをくれる。赤茶色の綺麗な瞳がぼくに向けられる。
頑張って息を吸う。自分の声に意識を集中する。喉の位置を探る。
音の高さ、たぶんここ、かな……。
「L、La─~───~~……」
か細く、ざらざらと揺れる、ぼくの声。
でも想定したより近い音で出せた気がする。
ノアと目が合う。ノアはにっこり微笑んで、今度は別の高さの音を鳴らした。次はこの音を、ってことだろうか。
「L、a ̄、ah──────……」
今度は最初の少しだけ音がずれてしまった。途中で何とか修正してみる。今度は震えたりざらざら揺れたりすることはなかったけど。
スマホの音がゆっくりと鳴り止んだころ。
ノアが、満面の笑みでゆっくり頷いてくれた。
「うん、初めてにしてはとっても上手だよ! さすがメグちゃんだね」
ノアが褒めてくれた。でも、なんだろう。
違和感を覚えたぼくは、今度は圭の顔色を窺ってみる。でもうまく窺えなかった。頬杖をついていた手でそのまま目元を覆っている。指の隙間から圭の顔を覗こうすると、今度は顔ごと逸らされた。
「圭?」
「な、なんだ。どうした」
「……圭」
「やめろ。とにかく俺に聞くな」
「ぼく、圭のこと好きだ」
突然バッと顔を上げる圭。「は、はぁ!!? おまっ、急に、なに……!!」
「だって本当だ。ぼくは圭のことが好きだ。……だから、嘘は嫌だ」
一瞬身を固くする圭。
それからいくつか顔色を変えた後、逡巡を振り払うように圭は大きな溜め息をついた。
「…………わぁーったよ。率直に言うぞ」
「────────お前は、音痴だ」




