K汰 - ヒダマリ
誰かの声が聞こえた気がして、そっと、かすかに瞼を開いた。
ぼうっと淡い視界。でも明るい。穏やかな光だった。ピントを合わせようと目を凝らしたいのに、心地よい眠気が瞼をそっと抑えてくる。もう少しだけ、もう少しだけ、そんな言葉が柔らかく頭に響く。
「……、………? …………。……」
少し離れたところで、また誰かの声がした。
張りのある、元気な声。女の人だろうか。だれだろう。
「…………から、ア……って…………ろ」
今度は別の声がした。掠れて、ぶっきらぼうな、男の人の声。耳になじむこの声は、だれの声だっけ。思い出せない。思い出せない。
まあいっか。だってこんなにも、眠りが気持ちいい。
柔らかい。あったかい。何もかもが優しくとろとろ溶けていて。もうちょっと。もうちょっとだけ、
「────だからまだ何にもしてねえってホントにぃ!」
突然大きな声が耳を劈いて、ビクッと飛び起きた。
だんだん視界がはっきりしてきた。まず映ったのはごちゃごちゃの部屋。お菓子の袋がいくつか床に散らばっている。
部屋は少し明るかった。カーテンが数センチ開けられていて、入り込んだ日の光にホコリがキラキラ舞っていた。
その向こうで、大きな二つのモニターに向かって叫んでいた男が、物音に気付いたのかこっちを振り返った。
「……悪ぃ。起こしちまったか」
圭だ。
そうだ。ぼくは昨日圭に拾われたんだ。
そう気づいた瞬間、昨日のことが一気に頭に蘇った。昨日もここで目が覚めて、圭とスーパーに行って、泣いて、一緒にご飯を食べて。とても鮮烈な一日だった。なぜかホッと息を吐く自分がいる。それにしても、昨日より圭に元気がない気がする。目の下にクマもある。あまり眠れなかったんだろうか。
〈────起きた? もしかして、さっき言ってた?〉
次いで、知らない声がした。さっき寝ぼけ眼で聞いた女の人の声が、圭のモニターから聞こえてきた。
すかさず圭がマウスを操作しながら、モニターに話しかける。「すまん、一旦ミュートすんぞ」
〈あ、ちょっと、ケータくん、〉
一瞬にして女の人の声は途絶えた。再び部屋は静かになる。
寝起き直後で面食らっているぼくに、圭は「あー……」と気まずそうに言葉を探した。
「とりあえず、おはようさん。よく眠れたか?」
「うん」
「なんか飲むか? 顔洗ってきてもいいぞ」
「ううん。大丈夫」
「そ、そうか。……な、なんか他に、してえこと、とか」
首を振る。身体の感覚を探ってみたけれど、特に痛いところもないしお腹も空いていない。それよりも。
「圭、誰かと話してたの?」
「……あー、まあそう、だな」
「だれ?」
「昨日言ってたろ。昔の知り合い、ってやつ」
それからまた少し口ごもってから、圭はゆっくりと切り出した。
「────あのな。お前、他のヒトと会う気はねえか?」
ドクン、と心臓が脈打った。唾を飲む。胸の奥にキュッと締め付けられたような痛みが走る。
他のヒト。他の人。圭以外の、ヒト。昨日圭といったスーパーで味わった、あの底のない暗い感覚が蘇る。
そんなぼくの様子を読み取ったのか、圭はゆっくり、言葉を選びながら話を続けた。
「もちろん無理強いはしねえよ。言ったろ、俺も少しはお前の感覚ってやつが分かる。俺が嫌だったことをお前にやらせるつもりはねえ」
だが、と圭は言葉を切った。
「正直な話、俺だけじゃお前を庇い切れねえんだよ。昨日も言ったが、俺とお前が一つ屋根の下、ってのはマズい。最悪二人そろって警察サマのお世話になった挙句、朝の全国ネットに晒されて終わりだ。あと単純に俺一人じゃあ出来ねえことが多すぎるしな。お、お前にずっと俺の服着せんのも、なんかやべえし……」
圭の言葉が何度も頭の中で鳴り響く。庇い切れない。マズい。終わり。圭は直接言ってはいないけど、それはきっと、ぼくがいるからだ。ぼくがここにいるからだ。
この部屋から出ていく。そのことを考えるだけで胸が苦しくなる。時間にしてたった一日だけだけど、今のぼくにはここしかない。そう思えてしまう。この部屋の外で生きていける気がまるでしない。でも、ぼくがここに居ると、圭に迷惑がかかるんだ。
圭に迷惑がかかるのは嫌だ。その気持ちは、外に出ることの怖さと同じくらい強い気持ちで、心の中に在った。圭に優しくしてもらった。ぼくも圭に優しくしたい。その気持ちは嘘じゃない。だから言わなきゃ。言わなきゃ。
それなのに、なかなか言葉は出てこなかった。口のチャックは開かない。喉の奥に石が詰まったみたいで苦しい。
「……わ、わかった」
そう、そうだ。言わなきゃ。言わなきゃ。
「ぼ、ぼく、」
応えろ。応えろ。期待に。圭の、期待に、
「────────ばーか」
ふいにほっぺをつままれた。圭が、ぼくのほっぺを優しく引っ張った。
「『分かった』なんて顔じゃねえぞ、それ」
「……ふぇ、ふぇお、」
「てか、俺の話聴いてなかったか? 無理強いはしねえよ、絶対な。お前みてえなガキに気ぃ遣われる筋合いねーの」
軽い口調のまま、パッと手を放す圭。ぼくのほっぺも元の形に戻る。じんじんしながら、少しあったかい。
「まあ俺の言い方も悪かったかもしれねえけどよ。お前が邪魔だとか一ミリも思ってねえから、勘違いすんな。お前がここに居たけりゃ好きなだけ居ろ。さっきの話は、お前にはもう少し仲間がいても良いんじゃねえか、っていう俺の勝手な願望だからよ」
「なかま……?」
「ああ。生きやすくするためなら人脈は使えるだけ使え、ってな。……ま、俺が言えたことじゃねえけどよ」
それで、と圭は再び聞いてきた。「どうする、会ってみるか? お前の好きな方を選べ」
ぼくは考える。ぼくのこと。ぼくの心のこと。圭のこと。それから、この部屋の外のこと。
……いや。考えなくても、もう大丈夫。
「────会う。会って、みる」
力強くうなずいた。圭の言葉は不思議と、ぼくの心の奥底に優しく、でもしっかりした重みを以って落ち着いた。
やってみよう。やれる気がする。圭が居てくれるなら、やれる気がする。
ぼくの言葉に、圭がそっと微笑んだような気がした。「そんじゃ、とりあえずミュート切るかぁ」
「圭、なんだか気が重そう」
「まあな。この人、世話焼きっつーか、テンション高いっつーか。俺とはほぼ真逆だからな。嫌な人じゃねえけど、話すとどっと疲れるっつーか……」
そう言いつつ、圭はマウスをカチカチッと動かした。二つのモニターのうち、左側のモニターでカーソルが動き、ウィンドウの一つに表示されたマイクボタンに触れた。
「……すまん。いま大丈夫か?」
圭が声をかける。すると、画面の向こう側からすぐさま女の人の呆れたような声が聞こえた。
〈大丈夫も何もいるわよ、ずーっと。相変わらず『ケータくん』前置きなしにミュートするんだから。画面越しに待ってるこっちの身にもなって欲しいんだけど?〉
「悪かったって……。それより、さっき話してた奴だけどよ、」
そこで圭は言葉を切って、隣のぼくを振り返った。少しだけ心配そうにそっとささやく。「挨拶、いけるか?」
大きくうなずく。まだ少し、心臓はトクトク脈打っているけど。いまなら。
「────────こ、こんにち、は」
少し声が震えた。恥ずかしくて顔が熱くなる。背中に冷や汗が伝う。指先が震えて仕方なくて、思わず圭のTシャツの裾をぎゅっとつまんだ。
〈……………………〉
「……あ、あの、こんにち、は?」
〈……ああ、ごめんなさい! 想像してたよりずっと可愛くて綺麗な声だったから、ちょっとびっくりしちゃった!〉
女の人の声が急に明るくなる。さっきまでの呆れ声はどこかに行ったみたいに優しい。
〈んもー、余計に心配になっちゃったわ。『ケータくん』、本当に手ぇ出してないでしょうね?〉
「? ねえ圭、『手ぇ出す』って?」
「良い子は知らなくていいことデス……」
「『ケータくん』って? 圭の苗字?」
「いや、まあそれも、色々あってだな……」
〈……ぷっ。あっはははは!〉
唐突に、女の人の笑い声がはじけた。モニターからの音なのに、部屋の中まで軽やかに響き渡る。明るくて、はつらつで、何だか太陽みたいだった。
〈へぇ、あのケータくんが随分柔らかくなったものねぇ。私も『ケイ』って呼んだ方がいいかしら?〉
「カンベンしてくれ……」
複雑な表情でうな垂れる圭。その隣で、ふと疑問が湧いた。
「……あ、あの、おねえさん」
〈! あら嬉しい! 何かしら、お嬢さん?〉
「おねえさんは、圭の『カノジョ』なの?」
一瞬の沈黙。それから。
「ナイナイナイ」と、圭。
〈ナイナイナイ〉と、おねえさん。
〈それは無いわよ、ありえない。色々差し引いてもケータくんはパス。それに私にはすでに愛する家族がいるもの〉
「それじゃあ……?」
〈……ああ、そういうコト! ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね〉
おねえさんは圭の時と同じように、んーどうしようかしら、と少し思案した後。
〈そうねぇ、……じゃあ『アサヒ』。うん、アサヒって呼んでちょうだい。ケータくんの昔の仕事仲間ってところかしら。よろしくね、お嬢さん〉