【ヒツジサイバン 歌ってみた - 獅子宮】
「────『斎が過去に傷付けた奴』、か」
言葉を反芻するおれに、メグが言葉少なに頷く。「知ってたら、でいいんだけど」
ふぅ、と溜め息を吐いて、ベンチの背もたれに体重を預けた。頭の後ろで腕を組み、背中を反らすと、眩しい木洩れ日がちらちらと視界を埋め尽くす。
急に「おれに聞きたいことがある」なんて言ったメグ。その空気を察してか、母さんも、「ノア」と呼ばれていたあの女の子も席を外していた。いま、このベンチにはおれとメグの2人だけ。
そして、たぶんメグが言っているのは、斎に対してノアが言ったあのことだろう。
「斎ちゃんは過去に、誰かを傷付けたことがあるんだね」。
ノアはそう言った。あれは図星だ。そして、おれが知る限り、斎があそこまで思い悩むほどの相手はたぶん1人しかいない。
ただ。
「……それ聞いて、どーすんの?」首筋をコキコキと鳴らしながら、できるだけ平然と聞き返す。母さんに押さえつけられた首筋がまだ痛い。「誰のために? あんたの興味本位?」
おれの言葉の裏を感じ取ったんだろう、メグが一瞬口ごもる。そりゃそうだ。赤の他人の興味本位のために、家族の傷を言いふらすつもりなんて最初からない。
「……もちろん『唄川メグ』のことを少しでも知りたい、って気持ちもある」
けれどメグはそう前置きしつつ、首を振った。
「でも、それだけじゃない。ぼくは、斎が望んだ『唄川メグ』じゃないかもしれないけど。そこまで想ってくれている斎の思いを、ぼくは知りたい」
メグが、自分の手のひらをそっと撫でる。
「斎が、ぼくにしてくれたみたいに」
そんなメグの横顔を見て、再び、ふぅ、と溜め息を吐いた。
やっぱり、似ている。
顔のパーツも、背格好も、最近出回り始めた『唄川メグ』のイラストと瓜二つだ。服装を変えていたり、髪色や爪の色を変えていたり、眼鏡で変装していたりはするが、それでもメグだと分かる。この公園で鉢合わせた時に一発で分かったのもそのせいだ。
あまりにも顔が似すぎている。いや、『唄川メグ』本人なんだから"似ている"も何もないのだが。
けれど。その横顔に浮かぶ表情は、あの『唄川メグ』とはかけ離れていた。
イラストで見る晴れやかな笑顔。はつらつとして、曇りがない、人懐っこい笑顔で描かれるイラストの数々。おれの記憶の底にも少なからずある、そんな笑顔が、このメグにはない。むしろその逆だ。
笑顔がない。表情がほとんどない。儚げで、陰があって、自信なさそうな。それでいて世界の全てが初体験、とでも言いたげな無垢な無表情。それが記憶喪失に基づくものなのか、それとも別の理由があるのか。それすら見通せそうにない。
たくさんの人間に影響を与えたはずの、おれと歌で張り合っていたはずの、あの『唄川メグ』なんだろうか。
斎が──おれ達が求めていた、あの『メグ』なんだろうか。そう思うのに。
温かさをいとおしむような。身を切られながら、それでも誰かを想うような。
そんな表情が、なぜかアイツと重なった。
「────────アイツが、斎が傷付けたのは、たぶん母さんだ」
「え?」
困惑するメグ。「"母さん"って、アサヒ?」
まだ聞き慣れない家族の呼び名に、微かなむず痒さを感じながら、ああ、と頷く。
「あんたはさ、母さんの描いた絵、見たことある?」
「……えっと、この前『唄川メグ』の絵を描いてた、けど」
「そっちじゃねー方。ドクロの方」
「あ」メグが改めて頷く。「ある。ガイコツの絵、だよね?」
「おう。なら次、『学校』は分かる?」
メグは言葉の意味を噛みしめるように、おそるおそる頷いた。「たぶん、分かってる、と思う……。なんで?」
おれは間髪入れずに答える。
「おれ達が小学校の時、その"ガイコツ"の絵が問題になったんだよ」
思い出す。それだけで胸の奥でいまでも疼くものがある。もやもやと、黒々と。
おれと斎が産まれる前から、母さんは油彩画を描いていたらしい。父さん曰く「見た目はちょっと引くぐらいのヤンキー」だった母さんは、絵の題材もかなりパンチの効いたものだったそうで。爺ちゃん婆ちゃん達も少なからず頭を悩ませていたそうだ。
そんなロックな油彩画を嗜んでいた母さんも、もちろんおれ達が産まれてからは家事や育児の忙しさに囚われてしまった。加えて、幼い双子の子供が過ごす場所に油絵の具を置くことも不安だったらしい。
母さんが筆を再び握り始めたのは、おれ達が小学校に上がった頃からだった。おれ達が家に居ない時間が増えたこと、分別が付き始めた年齢だったこと、その他もろもろの理由もあったらしいが、おれ自身詳しくは憶えていない。覚えているとすれば、ある時期から母さんの部屋からツン、とした独特の油のにおいがし始めたことくらいだ。
おれも斎も何とも思わなかった。確かに匂いはキツかったけど、母さんは作業中は、作業部屋に改装した自室からほとんど出なかったし。おれ達自身、油彩の匂いが嫌いではなかった。なんなら絵を描いている時の楽しそうな母さんを見るのも、悪い気はしなかった。
ただし。母さんはおれ達にあまり絵を見せようとはしなかった。
内容が内容だけに、大っぴらに見せる気は無かったんだろう。簡単な花の絵や、おれ達の似顔絵くらいは見せてくれても、一番時間をかけて真剣に描いた作品は絶対に見せてはくれなかった。今ならそれが、おれ達を下手に驚かせないための配慮だったのだと分かるが。
何も知らない子供の、なんと愚かなことだろうか。
ある日おれ達は好奇心から、母さんのいない間にそれらを引っ張り出したのだ。踊る骸骨。金糸の絡まった肋骨。墜落する天使。さめざめと泣く鬼。そのどれもがリアルで、静かな迫力があって、少しなまめかしい。
そんな絵の数々を見て、圧倒され、そしておれ達はその感想を、無邪気な言葉でこぼしてしまった。
学校で。クラスの友達に。なんの悪意もなく。
────おかあさんがね、こわい絵をかいてたの、と。
小学生の口に戸が立てられるわけがない。その「怖い絵」の噂はあっという間に広がり、子供の口から先生へ、保護者へ、そして学校中へ。そして当の本人である母さんは学校サイドを含めた保護者会に呼ばれた。
この時母さんは、その自作した絵をネットで公開していたらしい。主にSNSを中心に活動していた母さんは、活動初期からその画風に注目が集まり、それこそいくつかのМV作成にも携わっていたようだ。だけど、そんなすごい経歴も大人には通用しない。特に、"ネット"という単語に過剰に反応する大人達には。
子供への影響が。精神衛生上が。どんな趣味を。お子さんの教育は。
そんな、無責任な言葉をたくさん。
たくさん言われたらしい。
母さんは絵を描かなくなった。少なくともおれ達の目に見える範囲では、絵に関しての一切を見せなくなった。作業部屋の油彩のにおいは芳香剤に代わり、小さな庭には花が溢れ、手料理にも凝った物が増えた。おれ達にはその理由を言わず、代わりにいつものように豪快に、明るく不敵に笑って、「なに辛気臭い顔してるの。せっかくのイケメンフェイスが台無しよ?」なんて冗談っぽく。
その代わり。物思いにふけるように、ぼうっと外を眺めることが増えた。
それに比例するように、斎は口をつぐむようになった。下手なことを言わず、誰に対しても執拗なほど丁寧に接し、家族に対しても常に顔色を窺い、自分の意見を絶対に口に出さない。そして"誰かを元気にする"ことに固執する。そんな姿勢を貫くようになった。その態度について、一度だけ、斎と盛大な口喧嘩をしたこともあったが。その時の斎の言葉は、今でも忘れられない。
────誰かの好きを踏み躙った私が、自分の好きを振り翳して、誰が救われるの?
言い返せなかった。言葉が出てこなかったんじゃない、おれも同罪だったからだ。あのとき、好奇心で絵を漁らなかったら。あのとき、友達に笑い話みたいに言わなかったら。あのとき、あのとき。
あのとき、ちゃんと母さんを庇っていれば。もっと違ったんじゃないか?
おれは、母さんの"絵"をもっと理解すべきだったんじゃないのか?
終わらない後悔。終わらない自己言及。終わらない、
終わらない、傷。
「だから、たまたまネットで母さんの新しい絵を見つけた時も。斎がいつの間にか『ボカロ曲』なんてのを作っていたって知った時も。嬉しかった、正直。2人とも好きなことしてくれてんだーって。ならおれも2人を応援してやろーってな」
でも、と思う。生ぬるい風が吹き溜まる真夏の公園で、メグの隣でこうして昔を思い出しながら。"やり直せない過去"を辿りながら。
「…………けど。それも間違いだったのかもな」
「まちがい?」
「ああ。おれが斎にしてきたこと、全部」
頭上には木洩れ日。視界を埋め尽くす、網膜を灼く、無数の光。
「ずっと同じだと思ってたんだ。そりゃ喧嘩もしたし、ぶつかり合うことだって山ほどあったけど。それでも家族だから。家族で、双子で、兄妹だから。根っこの部分はきっと同じ気持ちなんだー、って。そう思ってたんだ」
同じ顔。同じ容姿。同じ暮らし。だから、同じ気持ち。一番分かり合える存在。
でも。
「でも、違ったんだよな。おれがやり直せるって思ってたのは、ほんとは斎の考えてることと違ってたんだよな。家族で、双子で、兄妹でも、斎は斎なんだもんな」
やり直す。その後押しは斎を縛っていた。その結果があの目だ。あの言葉だ。
────やり直せるのにやり直さないなんて、そんなの許されない。
どれほど似ていても、いや似ているからこそ、斎はおれの"やり直す"という言葉を無視できなかった。おれがアイツの感情を中途半端に理解できてしまったからこそ、おれの言葉が斎の感情を塗り潰してしまってたんだろうか。
自分の意見を絶対に口にしないアイツの、それでも内に秘めた意見を、おれが上から、塗り潰して。
おれも同罪のくせに。
「────結局、一番独り善がりだったのは、おれだったんだな」
「んなわけねえだろ。勝手に卑屈になってんじゃねえよ」
急に、声が降ってきた。
蒸し暑さが吹き溜まった公園。時折申し訳程度にそよぐ風。うるさいセミとまぶしい木洩れ日。その下のベンチに座るおれとメグの横に、そいつはいつの間にか立っていた。
狂犬みたいな、ぎらついた瞳をおれに寄越して。
K汰が。
「ったく。本当そっくりだな、あんたら」




