K汰 - Scenario
「────────もう、やり直せる気がしない」
深い淵を覗くような、イツキの声。
その声に、その言葉に、なぜだか胸が締め付けられる。
イツキはたぶん、ぼくが傷付いている、と思っていたんだ。
2ヵ月前。唄川メグが消えた、とされた時。イツキの目には「メグは傷付いたから姿を消した」と映ったんだろう。唄川メグのことを心の底から想っていたからこそ、イツキはメグが消えたことに耐えられなかった。
だからイツキはやり直そうとしていた、何もかもを。
ぼくを元気にするために。ぼくを笑顔にするために。ぼくを救うために。そのために、ぼくを探してくれていた。ぼくを探して全てをやり直そうとしていた。ぼくの力になりたいと、ぼくを助けたいと言ってくれた時の、イツキの手のあたたかさは、きっと嘘じゃない。
でも、イツキは勘違いをしていた。
「唄川メグ」が消えたことには理由があって、それをぼく自身が自覚できていて、そうして誰かの助けを待っているはずなんだ、と思い込んでいた。
そして手助けをして、「唄川メグ」は元気になって、再び「唄川メグ」として、またイツキ達と一緒に時間を共にできる。そのはずなんだ、って。
でも、ぼくらは今、荒れ果てた立体駐車場にいる。
ボロボロのアスファルト。そこら中に転げた夥しい数の"羊"達の躯体。みんながそれぞれ勘違いを繰り返して、すれ違って、疲れ切って。擦りむいた手や足は紅くて。遠くに望む真夏の光は白飛びしていて。誰もが傷付いて。やり直す場所からは程遠いところにいる。
そして、ぼくはぼくだった。ぼくは「ぼく」という存在であって、イツキの思っていた「唄川メグ」本人じゃなかった。
ぼくは、かつては「唄川メグ」だった。それは確かだ。でも記憶がない、記憶を取り戻せたところで「唄川メグ」に戻れる確証がない。
全部が遠くて。実感がなくて。
イツキはそれが受け入れられない。どうすればいいか分からない。
押し付け。独り善がり。イツキはそう言った。
もし、ぼくに最初から記憶があれば。ぼくがイツキ達との時間を思い出していれば、やり直せたんだろうか。
誰の想いもすれ違うことなく、誰も傷付かず、みんなが一緒になって笑えていたんだろうか。
ぼくは、「唄川メグ」に戻れたんだろうか。
でも、やっぱり。
「────どうしてやり直そうとするの?」
ふいに、ノアが口を開いた。
「……え?」
虚を突かれたようなイツキ。それに対して、ノアはまるで何でもないことのように、真っ直ぐイツキの瞳を見据えて問いかける。
「イツキちゃん、って呼んでいいかな。あくまでわたしの純粋な疑問なんだけど。どうしてイツキちゃんは、そんなに『やり直す』ことにこだわるの?」
「……な、なんで、そんなこと、」
「だって、そもそも過去は変えられないでしょ?」
突然のノアからの問いに、イツキは少し面食らっていた。泣き腫らした眼と、色んな感情でぐちゃぐちゃになった顔のまま、ゆっくり言葉を紡いでいく。
「か、過去は変えられ、ます。だって、わ、私達は、やり直せる。その力がある。いつだって、何度だって元気になって、また立ち上がれる。……本当、なら」
けれどノアはイツキの言葉に、うーん、と首を傾げて見せた。
「でもそれって『やり直す』ってこととは違う気がするなぁ。K汰君も言ってたけど、イツキちゃんの言う『やり直す』って"リベンジ"じゃなくて"リセット"だよね? 過去の傷も、過去の間違いも、全部水に流して再出発できる、なんて。そんなことできるのかな?」
「で、できますっ!」
ノアの疑問を反射で遮るイツキ。「できます。傷は治るし、間違いも正せる。やり直したい、って気持ちがあればいつだって! だから、やり直さなきゃ。傷が治せるのに、間違ったことも正せるのに、やり直せるのにやり直さないなんて──」
イツキの、暗い瞳。
「────────そんなの、許されない」
そんなイツキの瞳に、けれどノアは関心がないようだった。少し場違いなほど穏やかな口調で「そっかぁ」と呟く。まるでカミサマみたいに微笑む。
「イツキちゃんは、過去に、誰かを傷付けたことがあるんだね?」
イツキが息を呑むのが分かった。
ノアが続ける。「誰かを傷付けた、そのことがイツキちゃんの傷になってるんだね」
「……違う、」
「でもね、やっぱり過去は変えられないよ」
「違う、私は、傷付いてなんか、それに、あれはもう、」
「イツキちゃん。過去は変えられないし、変わらない。イツキちゃん達の『やり直したい』って想いはとっても素敵だし、そうしようっていう努力が間違ってるとも思わない、でもそれはリセットなんかじゃない。後付けの差し引きでしかないんだよ」
ノアが一歩踏み出す。イツキの方へ歩き出す。
「治せる傷は治るかもしれない。正せる間違いは正せるかもしれない。でも傷を受けた過去は元には戻らない、間違った過去はやり直せない」
ノアが歩み寄る。しゃがみ込んだイツキの元へ、一歩。また一歩。
「……来るな」
イツキの傍にいたミヤトが口を開く。その言葉に連動して、ミヤトの足元から"羊"が数体現れた。黒い"羊"達がノアへ近づき、その肩を、その手首を、その歩みを抑えつけようと手を掛けた。
でも。
「それ以上、近、づ……!?」
ミヤトが狼狽える。ぼくから見てもその光景は異様だった。
ノアは、歩き続けた。
ノアは何食わぬ顔で、涼しい微笑みを浮かべたまま、抵抗することもなく、ただ前を向いて歩き続けた。
肩を、手首を、その歩みを抑えつける"羊"達をそのままに。ずるずると引きずりながら。
アスファルトで出来た"羊"達。人形とはいえ、かなりの力と重さがあったはずだ。圭が指一本動かせなかったほどの圧力を、それなのにノアは物ともしない。一切の抵抗を感じていない。白い半袖のブラウスも、胸元の赤いネクタイも、破れも汚れもしていない。
自然体のまま、リラックスした表情で、ノアは歩き続ける。
まるで"羊"なんてどこにもいないかのように。
ノアの異能。誰にも傷付けられない力。
「そういえば」ノアの赤みがかった茶色い瞳が、今度はミヤトに向けられる。「ミヤト君も同じこと言ってたね。『何度だってやり直せる』って」
「……それが、何だってんだ」
ノアを少しも止められなかったことに唇を噛みしめながら、ミヤトはノアを真っ直ぐに見返す。
その視線を受け止めてなお、ノアは微笑む。鈴のような声が荒れた駐車場にこだまする。
「ふふ。2人とも同じことを言うんだなぁ、って思っただけだよ。双子の兄妹だからかな? 面白いね」
「おちょくってんのか、おれ達を」
「そうじゃないよ。考えのベクトルは違っても、2人とも『やり直せる』って思っているのが不思議なだけ。過去は変わらないからこそ過去なのにね」
「……そう思うか? おれ達はどうやっても、どう足掻いても、1ミリもやり直せねーって、本気で思ってんのか?」
静かな苛立ちを含んだミヤトの問いかけに、イツキは迷うことなく頷く。
「うん、やり直せないよ。だってほら、過去って『オセロ』みたいなものでしょう?」
「…………『オセロ』?」
思わず声に出てしまった。そんなぼくを振り返って、ノアが笑う。
「メグちゃんはピンと来ないかな? 表と裏にそれぞれ白と黒が塗られた丸い石を盤面に並べて、お互いに取ったり取られたりしながら、その入れ替わりを楽しむゲームなの。自分と相手、それぞれが起こした行動で盤面は変化する。白が増えたり、黒が増えたり。混ざり合って、影響し合って、入れ替わる。もちろん、それまでに置いた色が覆されることはあるよ。裏返せずにそのままになっちゃった石もちらほら出てきたりもする」
でもね、とノアは再びミヤトとイツキを見据える。
「『石が置かれた』って事実は変えられない。全ての石を思うまま、自分の色に変えられるわけでもない。白と黒の入れ替わりを楽しむゲームなのに、自分好みに相手の色をひっくり返せたら、それはゲームじゃない。イツキちゃんの言った通り、ただの独り善がりだ」
イツキが肩をビクッと震わせる。
「ミヤト君は黒を白に塗り替えようとしてる。イツキちゃんは黒を無理やりにひっくり返そうとしてる。変えられない、触れない、もう干渉できないはずの石だったとしても。その気になれば上から塗り潰して、裏返して、改造して、ほら綺麗って言おうとする。でも、それって『過去をやり直した』んじゃなくて『過去を造り直した』ってことでしょう? そんなことをしたって、黒い過去があった、って事実が消えてなくなるわけじゃないのにね」
ノアが屈む。視線をイツキにひた、と合わせ、穏やかに微笑む。
「過去は変えられないよ。過去は受け入れるしかない。だって、過去ってそもそもそういうものだから。君達がどうしてそこまで黒を怖がるのか、わたしには分からないなぁ」
ノアの視線から逃れられないまま、釘付けにされたまま、見開かれたイツキの目から、そっと涙が溢れる。
「────やっぱり、私、間違ってたの? 私が傷付けたことは、ずっと、何をしたって、なおらないの?」
「なおらないよ」ノアが頷く。「イツキちゃんがそうやって、いまでも傷付いていること自体が、その証拠なんじゃないかな」
ノアの言葉は揺らがない。譲歩もない。ただひたすらに事実だけを突きつける。
けれど、ノアはそっと、だからね、とささやいた。
「イツキちゃんがするべきなのは、治らない傷を治そうとすることじゃなくて、治らない傷を受け入れることなんじゃないのかな」
「受け、入れる……?」
「そうだよ。誰かを元気にしたかったイツキちゃんも、誰かを傷付けちゃったイツキちゃんも、全部含めて君なんだ。どんなに上手くいかないことがあったとしても、どんなに辛い過去があったとしても、君がいまここにいる、それだけで凄いことなんだよ」
「…………そんな、の。そんな、都合のいい、こと、」
「都合がいいんじゃないよ、だって事実だもん! 色んなことがあったけど、君はここにいる。ここにいてくれてる。それだけで大丈夫なんだよ」
「ほんと、に?」
「本当だよ。イツキちゃんの方法は間違ってない。こうしたいっていう意思も間違ってない。ただ、一番最初の考え方が少しズレてただけなんだよ。ただそれだけなの。大丈夫」
「────────君は、君のままで良いんだよ」
イツキが両手で顔を覆う。咽び泣く。その泣き声は痛々しく、身を切るように、砕け散るように。
でもどこか、ずっと背負って来た荷物を下ろせたような。
そんな、泣き声だった。
そのとき、遠くから車が走って来る音が聞こえて来た。だんだんと近付いてくるエンジン音。キキキキーッというドリフト音。そして、蒸し暑い空気でいっぱいの駐車場に、1台の車が颯爽と滑り込んできた。
空回るタイヤの音とともに、急ブレーキでガクン、と大きく揺れながら、その車はぼくらのすぐそばで止まった。後部座席のドアがガバッと開く。そこから大慌てで叫んでいるのは。
「お待たせよォ、K汰チャンたち! 早く乗ってちょうだいナ!!」
こちらに手を伸ばすリズ。そして、運転席からはアサヒが降りて来た。
けれど、なぜかアサヒは取り乱した様子で、ぼくらを見ていた。いや、ぼくを見ているわけじゃないようだった。圭でも、ノアでもない。
その隣。イツキとミヤトの2人を、開いた口も塞がないまま呆然と見止めて、一言。
「────なに、してるの。2人とも」
その言葉、その顔で、ぼくもようやく気が付いた。
イツキとミヤトの2人が、アサヒにとてもよく似た表情で、声を漏らした。
「……おかあ、さん」
「……母さん」




