K汰 - 抱腹
「…………あんた、ノア、か?」
突然のノアの登場に圭も驚いている。ぼくも一瞬わけが分からなかった。ノアが、どうしてこんなところに? それにいつから?
そんなぼくの疑問に構うことなく、ノアは涼やかな笑顔を圭に向ける。
「わぁ、名前覚えててくれたんだね! 嬉しいなぁ」
「いや、言いてえのはそこじゃなくてだな、」
「あ、どうしてここに居るのかって? さっき言ってたお友達との約束で、ここにショッピングの付き添いに来てて」
「だから言いてえのはそこじゃなくてだな……」
戸惑う圭。そういえば公園での別れ際、確かにノアは「このあとお友達と遊びに行く約束してる」って言っていたけど、まさか同じところに来ていたなんて。
そんな出鼻をくじかれた圭もよそに、ノアはゆっくりと辺りを見回した。
「それにしてもK汰君たち、かなり派手にやったねぇ。音も結構響いてたよ。館内でちょっとしたアナウンスがあったくらい。警備員の人達もずっと慌ててたけど、そろそろこっちに来るんじゃないかな」
「……そりゃ確かにマズいな」と、圭。
〈あ、ほんとだ〉と、たまも声を上げる。また監視カメラでも覗いているんだろうか。〈結構な人数来てる〉
「でしょう?」と、ノアも笑顔で頷く。「それに、みんなが傷付くのは良くないよ。ちらっと聞こえたけど、K汰君たちもそっちの人達も、ここまで傷付け合うつもりはなかったみたいだし。これ以上はきっと不毛だよ」
圭はその点については無言だった。その代わり「仕方ねえ、とにかく移動するか」と手を下ろした。
でも次の瞬間、イツキが動いた。
ミヤトの足元に手を伸ばし、その指先が触れたと思ったら、瞬きの間にミヤトの足元のアスファルトが元に戻った。
「────────え?」
崩れて散らばった"羊"達はそのままに、ミヤトが立っていた場所だけが復元された。傷もヒビもない、きちんと舗装され、均されたものに戻った。最初に見た時と何も変わらない、元の堅さに戻ったそのアスファルトを起点に、今度はミヤトが動いた。
声もまともに出せないうちに、ミヤトは踵を返して、駆け出した。
慌てて圭が叫ぶ。
「……! おい、待っ、────ゲホッ!!」
でもすぐに圭は咳き込んだ。こらえきれずに口元を押さえている。
「圭っ!」
だめだ、圭はまだ傷付いたままだ。これ以上動けない。
バッ、とミヤトの背中を視線で追う。さすがに疲れ切っているのか、ほとんどスピードが出てない。時々よろけながら走る後ろ姿に疲労感が滲んでいる。距離もそこまで離れてない。まだ間に合う。でも。
だめだ、ぼくももう脚に、力が。
────けれど、違った。
駆け出したのは、ミヤトだけだった。
イツキは動かない。立ちあがろうとしていない。
足音が少ないことに気付いたのか、ミヤトがこちらを振り返りながら「おいイツキ!」と叫ぶ。
「なにしてんだよ、いまのうちに!」
それでもイツキは動かない。ミヤトの方を見向きもしない。ただアスファルトに膝をついたまま、うなだれている。
「……くそっ!!」
痺れを切らしたミヤトがイツキの元へ駆け寄ろうとする。
その様子を見た圭が「させるか……っ!!」と手を伸ばして、再び指先に力を込めようとする。傷付いていて、痛そうなのに、まだ異能を使おうとする。
「圭っ、だめだ、やめてっ!」
慌てて叫んだ。でも。
異能は使われなかった。何も壊れなかった。バシュゥゥ、と空気が抜けていくような、さっきも聞いた音がした。
そして、さっきと同じように、圭の指先をノアが片手で覆っていた。
「…………やっぱ、あんた、」
静かにノアを睨む圭。そんな圭に、ノアは柔らかい微笑みを返す。赤みがかった茶色い瞳が光を弾く。
「ふふ。ほら、言ったでしょ。『わたしは傷付かない』って。それに」
そう言って、ノアが振り返る。
「もう逃げないと思うよ、あの2人」
つられてぼくも視線を戻す。
「────おい、何でだよ! 早く立てって!」
叫ぶ声。焦りと困惑の入り混じった顔。イツキの手首を掴んで必死に立たせようとする、ミヤトの姿があった。
手首を引っ張り上げられても、イツキは座り込んだまま微動だにしない。だらん、と下がった指先からは逃げようとする気配が感じられない。
イツキが、聞こえるか聞こえないかほどのか細い声で囁く。
「……いいよ、私は。ミヤトは逃げて」
「そんなわけにいくかよ、やり直すんじゃねーのか!? だから今は、」
「大丈夫だよ、ミヤトならやり直せる」
「おれじゃねーだろっ、イツキがやり直すんだろ! そうしたいって言ってたじゃねーかっ!!」
それでもイツキは顔を上げない。ミヤトの顔を見ない。その顔からはどこか生気が抜けたような、涙が枯れたような。深い絶望の色が見えた。
「……アイツが、メグが『記憶が無い』、って言ったからか?」
そんなイツキに、ミヤトは吐き捨てるように言う。唇を噛んで、眉根を寄せながら、懸命にイツキを立ち上がらせようとする。
「おれ達とのことを覚えてねーって言ったからか? それが何だってんだよ、"間違った"ってなんだよっ。思い出せるように助けるんだろ、それが無理だとしてももう一回作り始めるんだろ、そうやって『メグ』を救いたいんだろっ! それがイツキの"やり直したいこと"じゃねーのかよっ!?」
「────────そうだよッ!!」
でもイツキは叫んだ。叫んで、ミヤトの手を振り払った。
「やり直したいよっ。やり直して、やり直してやり直してやり直してッ! それで誰かを救って、元気にして、そうやって何回でも、何度でも、立ち上がって。出来るならそうしたいよ、今までやってきたみたいに!!」
イツキの声が震える。涙がいくつも、いくつも頬に滲んでは零れていく。
「でも、それじゃ駄目なんだよ……! だって、だってメグちゃんは、もう『唄川メグ』じゃない。私達の知ってるあのメグちゃんじゃないっ!! それなのに、私が押し付けた、押し付けてたんだ。そんなの、……そんなの、もう、私の、」
イツキの声が震える。絞り出すような嗚咽が漏れる。
「私の、独り善がりだ────」
深い、暗い、海の底みたいな声だった。
「……もう、無理だよ。こんな、身勝手な押し付けで救えるわけない。私なんかの独り善がりなやり直しで、笑顔になれるわけがない」
「──イツキ、それは、」
「じゃあミヤト、教えてよ。こんな状況で、こんな有様で、みんなを振り回して、みんなを傷付けて。それでも私のやりたいことって、何の意味があるの……? 私のやってきたことって、一体何だったの……?」
イツキが顔を覆う。
「もう、何も分からない。もう、無理だよ」
黒い砂利の付いた両手で。うずくまるように、背中を丸めて。
「私は間違った。これ以上間違えたくない。これ以上誰かを傷付けたくない」
深い淵を覗くように。
「────────もう、やり直せる気がしない」




