K汰 - クーロン
「────────けい?」
唇からこぼれる。圭の名前が、無意識に口をついて出る。
でも返事はない。圭の声はない。ぶっきらぼうで、でもどこか温かかったあの声が、ひとつも。
あるのは目の前の"羊"達だけ。アスファルト色をした、真っ黒い"羊"達だけ。
「けい」
砕けて転がった"羊"。腕が外れたまま動かなくなった"羊"。そして、圭を囲んだまま微動だにしない"羊"達。
ぼくらを取り囲み、決して逃がしてくれない、何の感情もない、夥しい数の"羊"の人形。
「け、い────」
怖い。辛い。力が入らない。何も考えられない。頭が真っ白で涙が止まらない。人気の絶えた駐車場には誰もいない。誰も、圭を助けられない。
ぼくは圭を助けられない。
ふいに隣でハァ、と溜め息を吐く声が聞こえた。
「やーっと収まったぁ。あぶねーあぶねー」
ミヤトだ。
「こんな馬鹿でかい出力の異能持っておいて、どんだけタフなんだってーの。てかうわー……、どうすっかな、このコンクリ。すげーボロボロ……」
「……ミ、ヤト」
呼ばれたミヤトが「ん?」と振り返る。
「……え、ちょ、ちょっと待った、泣いてんのか? いやいや、そんな痛えことしてねーと思うんだけど!? てか、ちょっと話がしてーだけだ、ってさっきも言ったろ!?」
そう言って狼狽えるミヤト。何の敵意もない、何の衒いもないその純粋な表情に、どうしても理解が追い付かない。
「ミ、ヤト、」
「うん?」
「…………おねがい。圭を、助けて」
ミヤトが固まる。ぼくはかまわず続けた。
「ミヤトは、『五重奏』の、メンバー、なんでしょ? ぼくを、つ、捕まえたいんでしょ?」
たまの言葉を思い出す。五重奏のメンバーは全員ぼくを捜している。そうしてかつてのぼく──唄川メグを、探そうとしている。それも、執着に近い感情を持って。
でも。
「でも、圭は、違う。圭は関係ない。だから、もう、やめて。圭を助けて」
圭はずっとぼくを守ってくれた。ぼくに居場所をくれた。ぼくにプレゼントをくれた。不器用で、ぶっきらぼうで、一度はケンカもして。でも、絶対にぼくから離れなかった。ずっと傍に居てくれた。それなのに。
それなのに傷付いた。ミヤトに追われ、異能を使って、そして「代償」を負った。
それは、
「……ぼくのせい、だから。ぼくが、唄川メグ、だったから。そうでしょ? そう、なんでしょ?」
そうだ。ぼくのせいだ。ぼくが何もできないせいで。ぼくが隣にいるせいで。
────ぼくが、唄川メグだったせいで。
さっき公園でノアと話していた時、脳裏を掠めたことがあった。
圭。リズ。たま。ノア。みんなが持っている、普通じゃない力。見えない力で物を壊したり。口から大きな音を発したり。インターネットに潜り込めたり。絶対に傷つけられなかったりする力。誰かを傷つける可能性を秘めた力。「異能」。
それともうひとつ。たまから聞いた、五重奏のヒト達が立てた仮説。「2ヵ月前に虚数の歌姫・メグは電子世界を離れて現世に現れたのであり、異能はその副産物に過ぎないのではないか」。
そうだ。きっと、みんなの異能はぼくが此処に現れたから。
原理は分からない。でも原因はきっとそうだ。ぼくが──唄川メグが、電子海の世界から抜け出して、現世に来てしまったから。だからみんなに異能が宿った。
つまり、ぼくがいなければ。圭が苦しむことも、傷付くことも、「代償」を負うことも無かったはずなんだ。思えば、たまが自分自身を鏡で見られないのも、もしかしたら異能の「代償」で。ぼくがいたから、みんなが苦しんでいて。傷付いていて。
ぼくがいなければ。ぼくが現世に来なければ。ぼくが唄川メグじゃなければ。
────────ぼくが、圭と出会わなければ、こんな。
「……ミヤトが、ぼくを探してるなら、ぼく、言うこと聞く。なんでもする。なんだって、言う通りにする。……だから、お願い、圭だけは、おねがい、」
「ちょ、頼むから待ってくれっ!」ミヤトは困ったように両手を振った。「ずっと言ってるけど、お二人さんとも誤解してんの! おれもアイツも、別に」
そのとき、
「ミヤトっ!!」
声が飛んだ。
かすかな怯えを含んだその声。肩まで一つ結びの髪と黒いパーカー。そして、ミヤトと全く同じ顔。
イツキだった。駐車場の向こうから、イツキがこちらに駆け寄って来る姿が見えた。
「お、イツキ」ミヤトがイツキに向かって片手を挙げた。「ちょうどよかったー! いまやっとお二人さんを捕まえたとこなんだけど。やっぱおれ達、すげー誤解されてるみたいでさ。イツキからも言ってくれよ」
けれど、イツキはミヤトの言葉が聞こえていないみたいだった。駆け寄ってきたイツキは、目の前の状況に困惑しているように見えた。圭をその姿が見えないほど取り囲む"羊"達の群れ、2人の"羊"に腕を掴まれたぼく、ボロボロのアスファルト、その傍らで無垢な笑顔を浮かべるミヤト。
「……何が、あったの?」言葉を詰まらせるイツキ。
「"何が"って、そりゃあ」ミヤトは分かり切ったことのように口を開く。「K汰さんの方がすげー抵抗してさ。とりあえず納得いくまでやり合うことになって、」
「だから、……何でそうなるの? "捕まえてどうこうするわけじゃない"って言ったのミヤトでしょ?」
イツキの詰るようなその物言いに、初めてミヤトは少しムッとした表情を浮かべた。
「なんだよ、おれはどうもこうもしてねーよ。たまたま、そういう流れになったってだけで。てかイツキの方こそ今まで何してたんだよ?」
イツキはミヤトの問いかけには応えなかった。代わりに、ぼくの方へ視線を向けた。ぼくの両脇を固める"羊"達はピクリともしない。ぼくも身じろぎせず2人の様子を見ているだけだった。
けれどイツキは顔を歪ませた。その表情の意味を、ぼくは正確には読み取ることが出来なかった。とても複雑な表情だった。後悔。逡巡。戸惑い。苛立ち。苦しみ。哀しみ。その全部が綯い交ぜになって、凝り固まって、でもどこか必死に飲み下そうとしているような。
「────放して」
イツキの、震えるような小声がした。「早く、メグちゃんを、放してあげて」
イツキのその有無を言わせないような言い回しで、ミヤトは理解したようだった。不服そうな顔のまま、そっぽを向いて、右足のつま先でトン、とアスファルトを突いた。
次の瞬間、ぼくの腕を掴んでいた"羊"2人がボロッと崩れた。形を保てなくなった2つの塊はガラゴロ、と崩れて壊れ、ぼくの両脇には石ころ大になったアスファルトの山が出来た。急に自由になったぼくは、上手くバランスをとれず、その場にへたり込んだ。脚にも力が入らなかった。
その時、イツキがぼくの目の前にしゃがみ込んだ。ぼくは一瞬身構えたけれど、イツキは黙ったままぼくの手元を見ていた。その視線に釣られて、自分の手元を見てみる。さっきまで"羊"に手首を掴まれていたせいか、手首の辺りに赤い痕が付いている。いつの間にか、こけて擦りむいていたらしく、手のひらには数ヵ所赤い傷もあった。自覚すると、痕はジンジンと熱を持ち始めた。かゆいような、痛いような感覚が手首から手のひらにかけて這うように広がっていく。
イツキはその痕にそっと手を伸ばし、人差し指で痕の上を優しくなぞった。
すると、不思議なことが起こった。
なぞった所から赤みが引いていく。傷が塞がっていく。ジンジンとうずく熱とは違う、ふわっと湧き上がるような優しい熱が手元を覆った。
まるで、優しい溜め息で吹き消されるみたいに、全ての傷が跡形もなく消え去った。
傷が消え去って、音もなく手を引っ込めたイツキは。俯いたままそっと呟いた。
「…………ごめん、なさい」
絞り出すような声だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。許してなんて言えない、これだけでそんなこと、言えない」
消え入りそうな声だった。
「でも、本当に私、こんなことをしたかったわけじゃ……」
まだ頭が回らなかった。上手く現状を飲み込めなかった。
ミヤトはぼくらを追い駆けて来た。軍隊みたいな数の"羊"と一緒に、ずっとずっと、どこまでも追い駆けて来た。圭も『代償』で傷付いた。そしてイツキは、そのミヤトの兄妹で、おなじ五重奏のメンバーのはずで、だからきっとイツキも。
でも、と思い返す。初めてイツキと会った時。あの真っ白い階段室で、ぼくが狂ってしまいそうになっていた時。イツキは、ぼくを心配して声を掛けてくれた。どこか不安そうに、どこか怯えたように、でもあの表情は、あの言葉は偽っているようには見えなかった。
あの時のイツキの表情。いまのイツキの表情。なのにイツキとミヤト、2人の行動が一致しない。どうして。でも。そういえば。
ミヤトが言っていた「誤解」。それって────
「……イ、ツキ」
口を開いた。震えた、酷い声だったけど、何とか勇気を振り絞った。
「イツキと、ミヤトは、ぼくらを、どうして……?」
ぼくの問いかけに、イツキは身を強張らせた。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと口を開いた。
「────────ずっと、探してた。アナタを」
イツキは顔を覆う。両の手のひらで顔を覆う。その隙間から涙がこぼれていく。ぽろぽろ、ぽろぽろ、いくつも、いくつも。
「『メグちゃん』。アナタを、ずっと」
イツキの悲痛な声。我慢したものが罅割れていくような、そんな泣き声で。
「……だから、私、アナタを傷付けちゃった、けど、」
「ごめんなさい、いま、とっても、嬉しいの────────」




