K汰 - FOG DRUG
「────────おいっ、つぎ来るぞッ」
圭の声が響く。焦りを含んだその声に慌てて振り返り、ぼくを掴もうとしていた"羊"の腕を間一髪で避ける。直後、視界の端で圭が腕を振った。その動きに合わせて"羊"が見えない力に吹っ飛ばされる。吹っ飛ばされた"羊"は宙を舞い、ものすごい勢いで後続の"羊"達に激突した。激突された"羊"達の腕や胴体が罅割れ、砕け散る様を横目に、ぼくは差し出された圭の手を取る。
「あ、ありがとう、圭」
「礼は良い。立てるか?」
「う、うん……」
ハァハァ、と息が乱れる。でも呼吸を整えてる時間はない。激突し砕けた"羊"達の背後から、その横たわった躯体を越えて、もう次の"羊"達が群れを成して押し寄せてくる。
「来い、こっちだっ」
圭に腕を引っ張られた。ぼくもなんとか足を動かして、圭に続く。
これで何度目だろう。どれだけの時間が経っただろう。時間の感覚が無くなっていく。もうずっと男の子の──ミヤトの"羊"と戦っている気がする。
"羊"達は次から次へと湧いてくる。圭が何度倒しても、何度吹っ飛ばしても、何度壊しても。"羊"は何事もなかったかのように、再びミヤトの足元から湧いてくる。壊れた"羊"を踏み越えて、機械的にぼくらを見据え、押し寄せてくる。黒いフードから時折見せるその顔には、何の表情もない。"羊"特有の黒い横線のような瞳孔が、いくつもの眼がぼくらを捉えて離さない。
いくつも、いくつも。いつまでも、いつまでも。それは、寄せては返す波が終わらないように。
ふいに、圭がゲホゲホッ、と咳き込んだ。
「! けいっ」
思わず圭の顔を見上げた。圭も息が荒い。ぼくらはずっと走りっぱなしだ。"羊"達はそこら中からぼくらを追い詰めようと迫ってくる。でも圭はそれだけじゃない、ぼくを庇いながら"羊"達の迎撃もしている。ぼくなんかより、体力も神経も擦り減っているはず。
でも、圭は口元を抑えながら軽い調子で言う。
「……んな顔すんなよ。それどころじゃねえだろ」
「で、でも、」
「それより、もう少しだ。もう少しで……、っ!!」
ふいに、小走りだった圭が立ち止まった。
急いで周囲を見回す。黒い"羊"達がぼくらの周りにずらりと、壁のように────囲まれた。
ミヤトの声が、"羊"達の壁の向こう側でこだまする。
「なぁ、お二人さん。そろそろこの辺で、」
「…………しゃがめっ!」
圭の声が飛んだ。反射的に姿勢を低くする。
次の瞬間、轟音が耳を劈いた。
パラ、パラ、と粉塵が辺りに立ち込める。腕で口元を覆いながら、そっと目を開けると。灰色に土煙る視界の中、周りを囲んでいた"羊"達が上半身を吹き飛ばされた姿で、ゆっくりと倒れ伏していくところだった。
ハッ、と圭が鼻で笑う。苦しそうに顔を歪め、額に脂汗を浮かべながら、それでも狂犬のように笑う。
「『そろそろこの辺で』……、なんだって?」
少し離れた場所で、ミヤトがヒュウッ、と短く口笛を吹いた。それでも無数の"羊"達が、油断のない立ち姿でミヤトの脇を固めている。
「やっぱすげーな、あんた」
「……ンだよ、それ」すかさず圭が吐き捨てる。「馬鹿にしてんのか?」
「違うって、素直な感想だ。ここまで追い詰められても全然諦めてねぇ。ほんと、色んな意味ですげーよ。体力的にもかなり限界だと思うんだけど」
「手下に任せて高みの見物してる奴に言われたかねえよ。それ本気で言ってんだとしたら、良いシュミしてんな、あんた? 数の暴力でじわじわ絞め殺すような真似しておいて、反吐が出る」
苦虫を嚙み潰したような顔でミヤトを睨む圭。でもミヤトは、そんな圭の視線を受けながら、またも困ったように頭の後ろをぼりぼりと掻いた。
「なぁK汰さんよ、やっぱおれの話、」
ドゴッ、という鈍い音。ミヤトの近くにいた"羊"の左腕が千切れて、弾けた。圭の異能で弾け飛んだ"羊"の腕は駐車場のアスファルトを転がり、ボロボロと崩れ落ちた。
「…………やっぱおれの話、聞いてくれねーのな」
でも、とミヤトは続ける。荒い息をする圭を、どこか残念そうに眺めながら。
「でも、おれには『代償』がねーからさ。悪いけど、このままじゃ先に音を上げるのはあんたの方だぜ?」
「だい、しょう?」
思わず漏れたぼくの言葉に、ミヤトは「そーそー」と頷く。
「それに、ここまで全力でぶつかったんだしさ。そろそろ納得してくれねーかな」
圭は応えない。いや、応えられる状態じゃないみたいだった。片膝をアスファルトに付けている。呼吸も激しい。滝のような汗がボタボタと顎を伝って、アスファルトにいくつもいくつも染みを作っていく。
「K汰さん、あんたの異能は確かに強い。"羊"がここまでぶっ壊されたのは初めてだ。それにまだ諦めてない。だから心の底から尊敬してんだ、ほんとにすげーよ。……でも、もうやめねーか。あんたの異能は強力だからこそ『代償』もデカい、そうだろ?」
代償。代償って何だろう。ミヤトは何を言っているんだろう。
ふいに不安が押し寄せて来た。隣の圭の肩へ手を伸ばそうとして、
グンッ、と腕を引っ張られた。
「────────!!」
いつの間にか腕を掴まれていた。気付かないうちに、ぼくは両腕を2人の"羊"に拘束されていた。
「……ゃ、いや。は、はなして────、」
強い力で手首を掴まれている、身をよじっても振りほどけない。固いアスファルトで出来た"羊"達の黒い腕は夏の熱気で生ぬるくて、その不快感と恐怖で身体が強張っていく。そのままぼくは"羊"達に、成す術もなくズルズルと引きずられていく。圭から引き離されていく。
「や、やだ、けいっ」
「おいっ、……があっ!?」
ぼくを引きずる"羊"達に圭は敵意に満ちた顔を向けたけど、今度は圭自身も動けないことに気付いた。いつの間にか別の"羊"が2人、圭の横に立っていて、圭は瞬く間に手を後ろにひねり上げられてしまった。
ぼくたちは、気付かないうちに"羊"達に取り囲まれていたんだ。
「てめぇっ……、手ェ、離せ、……っ!!」
圭が呻き声をあげながらも、必死に抵抗している。小さな見えない力がそこかしこで飛び跳ねているのが分かる。バキッ、ビシッ、バキンッ、という細かい音。傷付いていく"羊"達。砕け散るアスファルト。
けれど"羊"達はそれ以上の数で圭を取り押さえていく。最初2人だった"羊"は5人、6人、7人と増え、次から次へと圭の背中へ圧し掛かっていく。
「くそ、がぁ……、………あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁッ!!!!」
そのとき、圭の絶叫が響き渡った。一瞬"羊"達の躯体が奇妙に捩じ曲がり、そして、
ドゴッ
ひと際大きい音が鳴り、"羊"達が爆散した。こぶし大の瓦礫が無数の雨みたいに飛び散った。ガラガラ、と音を立てて天井や柱にぶつかる瓦礫。砕け散った人形のかけら。
アスファルトに押さえつけられていた圭が、ずるりと上半身を起こす。痛めた腕をだらん、とさせながら。顔を黒く汚しながら。ハァハァ、と喉を乾いた笛のように鳴らしながら、
「……ハッ、『代償』なんざ、ゲホッ、……知らねえ、なぁ。いいから、ゲホッ、……さっさ、と、────────ゴフッ」
「────────────────え?」
言葉が、漏れた。
疑問が、漏れた。
だって圭が。
圭の口から、あれは赤い、紅い────
「ハァ、やっぱな」
ミヤトのため息が遠くから聞こえた。
「おれは歌い手だから『代償』もほとんどない、イツキの知り合いからそう聞いてたし、実際そうだった。おれの場合、制限が多い代わりに代償がほとんどねーんだ。でも、あんたは違う。『代償』なんか知らねー、ってあんたは言ってたけどよ。ほんとは薄々勘づいてたんじゃねーの?」
気に掛けるようなミヤトの声が奇妙にこだまする。でも、それも遥か遠くのことのように感じる。
今になって急に思い出す。これまで圭が異能を使った時のことを。圭はいつも力を使った直後、とても苦しそうにしていた。力が抜けて、息もし辛そうで、でもそれは罪悪感だと思っていた。
じゃあ今までのあれは、ミヤトの言う通り……、ううん、それよりも、それよりも圭が、
「あんたの異能は強い。だけど、その異能を乱発はしなかった。1回の攻撃でまとめて吹き飛ばすことはあったけど、破壊するまで攻撃してきたわけでもねーよな。だから思ったんだ、『代償』が大きすぎるから無闇に使わないんじゃねーか、ってさ」
圭は膝をついたまま呆然としている。口元を覆った手──ちょっぴり武骨で、でも温かく握り返してくれた手。その隙間からつうっと流れる紅色に、背筋が冷たくなっていく。頭の奥が痺れていく。
分かる。分かってしまう。
あの紅色は、ヒトが傷付いた時の────。
だからさ、とミヤトは落ち着いた声で、諭すように圭に言う。
「今回はもう終わりにしよう。あんたのその絶対諦めねー、って気概はもう十分伝わった。おれはあんたを少しだけでも理解できた。尊敬する。だからこそ、ここまでだ。いまのボロボロのあんたじゃ、その子を悲しませちまうだけじゃねーの?」
ミヤトの周りを固めていた"羊"達の中から、数人が圭の元へ歩を進める。圭の腕を掴み、圭の背中を押さえ、そっと、でも問答無用で圭をアスファルトに押し付ける。圭の姿は黒い影に囲まれ、阻まれて、埋もれて。圭の呆然とした表情を最後に、圭の全部が"羊"達の向こうに消えた。
その様を、ミヤトの言葉を、"羊"達に捕まえられたぼくは、ただ見ていることしかできなかった。
「────ごめんな、お二人さん。おれの勝ちだ」




