K汰 - 神なワル's
「……よし、行くぞ」
圭の言葉にぐっと唾を飲み込んだ。
少しだけ息を吸って、覚悟を決めて頷いて、ぼくは圭からもらったヘッドホンでそっと耳を塞ぐ。
スマホを操作して流したのは「K汰」の曲。
圭は最初複雑そうな表情で「森の音とかなんかそんな感じの環境音」を聴くよう勧めてくれたけれど、ぼくは首を振って「K汰」の曲を選んだ。ぼくにとってはこれが一番だった。
曲が流れ出す。心地よい「K汰」の音が耳を満たして、身体の中身が一定のリズムに誘われて、ささくれ立った心が馴らされていく。
ふと圭の顔を見上げる。圭が何かを言ったようで口をパクパクしているのが見て取れたけれど、その声は耳に入らない。音楽が聞こえているからじゃない、圭が言っていたようにちゃんと周囲の音が消されている。──これなら。
音楽に身を任せながら、ぼくは隣にいる圭の手を握った。一瞬だけビクッと跳ねた圭の手は、それでもギュッと握り返してくれた。
そして、そのままぼくらは踏み出した。
白い蛍光灯に照らされた階段室を出て、ヒトの居るフロアへ。
力強く踏み出した。
足の下、靴の裏にある固いタイル床の感覚。つま先が、踵が当たるたびに骨を伝って響くカツン、という感触。けれどその音は聞こえない。一歩一歩進んでも何の音もしない、それはまるで自分が世界に何ひとつ干渉できない存在になったみたいな感覚で──自分だけが別世界に居るような錯覚で。
まだ視線は足元から離せないし、握った圭の手に縋ることもやめられないけれど。
音が立たないだけで、圭がくれたヘッドホンのおかげで。心は逸りすぎず、感情の波はまださざ波程度で収まっている。
ゆっくり、ゆっくりと踏みしめつつ、ぼくらは歩を進めていく。
握った圭の手の力強さが、揺るがないその力が、ぼくの意識を繋ぎとめてくれる。
「……大丈夫。行ける」
そう声に出した。自分の声が聞こえない代わりに、圭は手を握り返すことで応えてくれた。
まだ強張ったままの脚を「K汰」の曲のリズムに合わせて動かしていく。
視界の端を誰かが歩いていく。数歩先を知らないヒトが歩き去っていく。そのたびに身体が震える。キラキラとした照明が床に反射して目が眩む。首筋に寒気が走る。
圭と繋いでいない方の手はずっとリュックのベルトを握ったまま。恐怖と安寧の間を綱渡りしているような、そんな不安定な合間を自分に言い聞かせながら進む。
大丈夫。大丈夫。
圭がくれたヘッドホンがある。K汰の曲もある。ぼくは歩ける。
そう言い聞かせつつ、余計なことを考えないようにもう一度圭の計画を思い出す。
でも計画、と言ってもその内容は至極単純だ。
圭は言った。「真っ向勝負だ」と。
つまり、あの黒いフードを被った大勢と力で勝負するということ、だと思う。
確かに圭の異能は、あの黒服の"影"達をことごとく吹き飛ばしてきた。何ならあの"影"が人間ではなく、あの男のヒトの異能だと知った今なら、その力は吹き飛ばすだけでは済まないかもしれない。圭の異能は元々壁に穴を開けたり、鉄製の柵を捻じ曲げたりするほど強いのだ。"影"を壊すぐらい簡単にやってのけるはずだ。──でも。
でも、不安がぬぐえないのはどうしてだろう。
あの"影"は音もなくぼくらの目の前に現れた。つまり、あの"影"たちがどこから来たのか、どうやって現れたのかを実際に目で見たわけじゃない。理屈も方法も分かっていないのに「真っ向勝負」して、果たして勝てるのだろうか。
それに、この場合の「勝つ」って何なのだろう。あの"影"たちを全部壊すことだろうか。それともあの男のヒトをやっつけることだろうか。だとしたらその「やっつける」はどこまでやるべきなんだろうか。あの男のヒトは問答無用でぼくらを追って来た。そんなヒトと、以前のたまの時みたいに話し合いで解決できるんだろうか。そうでない場合、ぼくらはあの男のヒトをどこまで「やっつければ」終わるのだろうか。
頭の中がぐるぐるする。ごくり、と生唾を飲む。改めて思い知らされる。
これは物語なんかじゃない。ましてやゲームなんかじゃない。
これは、ぼくらの。
その時、グイッと手を引かれた。
横を見ると圭が立ち止まっている。つられて足を止めたぼくに、圭は片手に持っていたらしいスマホの画面を見せた。
画面には一言。「来た」。
ぼくは手を繋いだままそっと視線をずらす。
────ぼくらの進行方向に、黒い"影"が一つ。
間違いない、ぼくらを追って来たあの"影"だ。
"影"は一瞬立ち止まり、その目がぼくらをとらえる。数メートルは離れているはずなのに、そしてぼくらもヒト混みに紛れているはずなのに、"影"は寸分たがわずぼくらを見据えた。そして歩き出す。ぼくらに向かって歩を進める。そのスピードが次第に速くなって、
「……!」
ぼくと圭は一瞬で視線を交わし、次の瞬間には駆け出した。"影"に背を向けて、示し合わせていた方向へ踵を返す。途中足がもつれそうになったぼくを圭が引っ張って支え、それでも走る。
逃げる先は圭から聞いた。
手を繋いだぼくらは、最初に逃げ始めた頃と比べて明らかに速度が落ちている。走り疲れて体力も底をつきかけている、互いに握ったままの手は逃げるのにはきっと適していない。何よりぼくはまだヒトの群れが怖くて薄目しか開けられない。それでも陳列された棚や、驚きながら避けるヒト混みの隙間を縫うように走って行く。そうして見えて来た自動ドアから、ぼくらは弾丸のように飛び出した。
すぐさま乾いたにおいが鼻を突く。アスファルトのにおい、煤けた排気ガスが鼻腔を満たす。
背後からの足音で、あの"影"が付いて来ているのが分かった。しかも複数。もう集まってきているんだ。でもぼくらは振り返らず、そのまま暗いその場所をひた走る。ヒトのいない方へ。車のない方へ。
やがて車が一切止まっていない辺りまで来た。圭の走る速度がゆっくりと落ち着いていき、手を握ったぼくもそっと速度を緩め、そしてぼくらは立ち止まり、振り返る。
振り返った先にいる"影"達を見据える。さっき見たのは1人だけだったのに、既に7、8人ほどの"影"に囲まれている。
まばらに点いた電灯が物寂しさを演出している空間。ヒトの声がしない、ある種荒涼とした場所。夏の眩しい外光を遠くに望む、蒸し暑さのぬぐえないここが。
この立体駐車場が。
これからぼくらが「真っ向勝負」する場所だ。




