間奏③
バーチャルシンガーが苦手だった。
別に、いわゆる「ボカロ曲」というものが家で一切流れていなかったわけじゃない。親は価値基準を子供に押し付ける人ではなかった。むしろ、好きなことはとことん追求するタイプの人間しかいない家庭だから、こっちが「苦手だ」と公言したところで、「そうなんだ。じゃあ隣の部屋で聴くね」と何食わぬ顔で住み分けするぐらいのことはしたと思う。
逆を言えば、バーチャルシンガーに触れる機会は常にあった。
問題はこっち側にあった。何度聞いても慣れなかったのだ。
機械音声特有の不自然な抑揚。奇妙な息遣い。言葉の羅列にしか聞こえない歌詞。感情が読み取れないフラットな声。音階はジェットコースター並みにあらぬ方向へ飛ぶし、速すぎるBPMだってもはや人が歌うことが想定されていない。
それはまるで、人に弄ばれて壊れたように喋り続けるマリオネットのように。
人が歌えない曲。それは■■にとっては、もはや「曲」ではなかった。
その頃の■■には白か黒しかなかった。好きか嫌いか。聞けるか聞けないか。受け入れられるか、受け入れられないか。許せるか、許せないか。
その基準が「ボカロ曲」に関して言えば、歌えるかどうかだった。そして「ボカロ曲」は歌えない。人が歌えないということは、そこに繋がる熱量がないのと同じ。バーチャルシンガーは人じゃない、だから感情がないし熱量がない。すなわち黒。受け入れられないモノ。人じゃないのに歌を歌う存在が受け入れられなかった。
バーチャルシンガーが苦手だった。そう、苦手だった。
────認識が変わったのは、バーチャルシンガー界のある文化に触れたからだ。
「歌い手」文化。
言ってしまえば、バーチャルシンガー曲を人間がカバーすること。それだけのことではある、でもバーチャルシンガーのことすらまともに知らなかった人間にとって、その奥深さは文字通り想像以上だった。
気取った言い方をするなら、それは黒が白に変わる瞬間。
男女問わず、そこには数々の「歌ってみた」動画が溢れていた。そこかしこで誰かがバーチャルシンガーの曲を熱量たっぷりに歌っていた。その内のいくつかには胸を熱くするものもあった。ここまで歌えるのに何故メジャーデビューしていないのか、と何度意味不明な逆ギレをしたか知れない。
そして思った。自分でも歌ってみたい、と。
小遣いでコツコツ機材を揃えて。独学でボイストレーニングを学んで。学校帰りにカラオケに行っては必死に練習して。「歌ってみた」動画をいくつも投稿して。
そうして自分にも一定数のリスナーがつくようになって、気付いた。
バーチャルシンガーにはバーチャルシンガーの良さがあるのだと。
人に出せない声だからこそ。どこまでも平等な声だからこそ。そこに■■たちは■■たちなりの"感情"を見出す。フラットな機械声に、飛び跳ねる音階に、速すぎるBPMに、それでもリスナーは自分達の"感情"を想うんだ。
そうして自分で見出した"感情"を、今度は自分達の声で歌う。自分達の声を上げる。それはいつか誰かの"感情"を揺さぶって、広げた手は誰かの支えになり、輪は広がり続ける。
だからさ、メグ。
あんたのことは何ひとつ憶えてない。何ひとつ思い出せない。■■はアイツほどあんたのことを好きではないし、あんたが消えたって追いかけようとは思わない。
でも、これは今の"感情"だ。いずれ過去形になる"感情"だ。
白か黒か。それはとても簡単に裏返る。今この瞬間にある何もかもがいつか必ず過去になり、そして常に裏返る可能性を秘めている。それが吉なのか凶なのか、切り替えが早いと言えるのか、天邪鬼な手のひら返しでしかないのか、それは分からないが。
だからこそあんたはたくさんの人に影響を与えていたんだろうし、だからこそ■■はいまここに居るはずなんだ。
ああ、そうだな。
あんたを探すのはアイツの為だけじゃない。それはきっと。
張り合いのあるステージを、もう一度願うような。




