K汰 - リレイズ
目を閉じた。
耳を塞いだ。
帽子を目深にかぶって息を殺した。
瞼の裏は何も見えない。世界は真っ暗。周りにヒトの気配はまだない。
周りの全てを見なければ、聞かなければ、知らなければ。周りの全てを消し去れば、きっと。
それでも。ぼくが居る場所の明るさが、階段室の灯りが、薄い瞼の向こうに透けて見える。耳を塞ぐ手のひらの向こうに無音が透けて。帽子の上から頭を撫でてくれる手も無くて。殺した息は次第に、不安定になっていく。
ぼくはひとりになった。
圭はぼくを置いてどこかへきえた。
力の入らない脚を、身体に食い込ませるほどに密着させた。膝に顔をうずめて、早く時間が過ぎ去ってくれることを祈るしかなかった。
圭はどうしてぼくを置いていったの?
圭はどこに行かなければいけないの。それはぼくを置いていく必要のあることなの。どうして何も説明してくれなかったの。圭はいつ帰ってくるの。圭はちゃんと帰ってきてくれるの。圭は、圭は、圭は。
ぼくは、どうしてここにひとりなの?
疑問がいくつもいくつも湧いて、頭の中がごうごうと洪水のようにうるさくて、そうして何もかも分からなくなっていく。
いますぐ叫び出したい。手あたりしだい暴れたい。もうあきらめたい。あきらめて、きえさりたい。
でもそんなことをしたって意味がない。圭を待っているためにはここにいなきゃいけない。大丈夫。圭は信じて、って言った。大丈夫。ぼくは圭を信じてる。圭を信じて、信じて、しんじて、しんじていれば、きっとだいじょうぶ。きっと圭はかえってくる、きっとだいじょうぶ、きっと、きっと、
きっと。
ねえ、圭。
いつまで、まてば、いいの?
頭の中にあふれかえる「きっと」。ばかみたいだ。どこにもその保証なんてないのに。そんなひねくれた心のことばが頭をもたげて、塞いだ耳の向こう側でぼくを嘲る。
なにを期待しているの。なにを望んでいるの。なにもかも無意味だ。無価値だ。だって、
────ぼくはこの真っ白い世界に、ひとりきりなんだから
過呼吸。涙。嗚咽。窒息。
閉じた瞼の向こうの白い蛍光灯。白い階段室。茫漠。永遠の白。
そこは、かつてぼくがいた、ばしょ。
────こんにちは、私の名前は唄川メグです
かつてぼくがいた、せかい。
ぼくがくりかえした、ことば。
────こんにちは、私の名前は唄川メグです
瞼は閉じた、何も見えない。耳は塞いだ、何も聞こえない。
それでもぼくは、「私は」、ぼくの向こうで、白い世界の真ん中で、満面の笑みでくりかえす。
────k、kk黻燕kk?こん私にちは、私私私ノnnnnnnnnメグにハ私輦ッ繧ハハですアハハハッ
「私」が繰り返す。「私は」そこにいる。
青い髪、揺れて。青い瞳、震えて。青い爪、煌めいて。
ちがう。ぼくはここだ。「私は」そちらだ。ちがう、ちがう、ちがうんだ、ちがうはずなんだ、
────どうして? どうして? 私は唄川メグです圭はどうして?
いやだ、うるさい、ぼくは、
────いやだ、うるさい、「どうして」? 「どうして」! だって「私」はここにいるここにいますだってここは私は唄川メグで私はここにいますいますいますよだって私はずっと唄川メグなんだから!
ちがう、ぼくはちがう、メグはそんなこと言えない、言えるはずがない。だって、
────そう、だって私は「唄川メグ」だから
そう。だって「私は唄川メグ」だから。
「私は唄川メグ」だから、言えない。言えるはずがない。「私はメグです」以外を言えるはずがない。なのに。
────私は、私はどうして私は唄川メグですか? ぼくはどうして唄川メグではありませんか?
うるさい、うるさい、だまれ、だまって、おねがい、やめて、
したくない、くるいたくない、ひとりでいたくない、
いたい、いたい、もういたくない、おねがい、
おねがい、たすけて、
けい
けい
けい
────────────────「圭」。
ハッ、と顔を上げた。
視界が急に明るさを取り戻して、景色が白飛びして、それでもお構いなしにポケットを探った。
……あった、スマホ。
電源を付ける。朦朧とした頭で操作方法を思い出そうとする。
連絡先、ちがう。写真、ちがう。地図、ちがう。
がたがたと震える指で何度も押し間違える。じんじんと指が痛むほどスマホを握り締める。
そうしてようやく、動画アプリを開いた。
検索窓に一言。「K汰」と入力。
出て来た検索結果をろくに見ないまま、再生できそうなやつをひとつ押した。
音量は最小。耳に押し当て。また膝を抱える。
流れ出す音に、耳を傾ける。
声はない。
歌詞はない。
リズムは速くない。
音は飛び跳ねない。
それでもその音楽は。「K汰」の曲は。心に柔らかく染み込んでいった。
突っぱねるような低い音。投げやりにも聞こえるリズム。ぶっきらぼうで、優しくなくて、きっと聞いてるこっち側のことなんてこれっぽっちも気に掛けてない。
それでも、ああ。
あたたかい。
紛れもない、圭の音だ。
「……ah────」
声はない。歌詞はない。だからどう「私」が歌うのか分からない。
だから、適当に。
思いつくままに。波に任せるように。圭のことを想像して。音を出す。
「ah──……、La────────……」
きっと違う。きっとこうじゃない。きっと合ってない。きっと分かってない。
きっと「私」はこうは歌わない。きっと「私」はこんな汚い声じゃない。
これがいまの「ぼく」の声で、それはきっと「私」とは程遠い。「K汰」と一緒に歌っていた「私」とはきっと比べ物にならないほど酷い。
でも。
このあたたかさは、きっと間違いじゃない。
膝を揺らす。身を任せる。か細い声が掠れて。でも心地よくて。
心がじわりとほぐれていく。優しく目を閉じられる。白い世界がふわりと溶けて、冷たく固まっていた胸の奥があたたかさで満たされていく。
「唄川メグ」としての記録がないぼくには、過ぎた代物かもしれないけれど。
「K汰」の音楽がぼくの傍にいてくれる。「ぼく」の適当な歌に「K汰」が寄り添ってくれる。音の一粒一粒が、ぼくの心を形作ってくれる。
ぼくをぼくとして「見て」くれる、圭の音楽が。
「La──、La────────……」
待とう。圭を待とう。
いまなら待てる。圭がくれたこのあたたかさがあれば。ぼくは圭を信じている。圭は必ず戻ってくる。もう大丈夫。やっと気付けた。
たとえ、唄川メグのように歌えないとしても。
ぼくはもう、ひとりなんかじゃない。
突然声が聞こえたのはその時だった。
「…………綺麗」
膝にうずめていた顔を上げた。かすかに滲んだ視界の中で、声の主はじっとぼくを見ていた。
肩まで伸びた髪を一つに結んだ黒いパーカーの少女が、階段下から澄んだ目でぼくを見上げていた。




