K汰 - ダウンゴーストいわく
「────────少しの間、お前を置いていく」
「……………………え?」
思わず耳を疑った。一瞬圭の言った言葉の意味が理解できなかった。
置いていく。誰を。ぼくを。
どこに。分からない。でもこれから建物の中に。ショッピングモールの中に、入るのに。
ヒトがいる、ショッピングモールの、中に。
ぼくは置いていかれる?
「ね、ねえ圭、それって、」
でも口を開けたのはそこまでだった。圭に手を引かれたまま、ぼくらは一枚目のスライドドアをくぐり、次いで二枚目のドアが大きく開いて、
ショッピングモールの中に足を踏み入れた。
「────────────────あ」
ざわざわ ざわざわ
そんな音が鼓膜を覆った。
ヒトの声。ヒトの靴音。ヒトの気配。ヒトの数。
ヒトの息遣い、ヒトの嗤いヒトのにおい、ヒトの姿ヒトのヒトの色、ヒトの視線、ヒトの、ヒトの、ヒトが、たくさん、おびただしいほどの、うごめく、ヒトの
ヒトのあふれる空間
「────────ぁ、あ」
喉が貼り付く。
心臓の音が頭の中を真っ白に塗り潰す。
手足の感覚が無い。
視界が暗い。
立っていられない。
せり上がる胃が戻らない。
顔を覆っても消えない。
耳を塞いでも離れない。
だめだ。やっぱりだめだ。むりだ。だって。
だって ここは こんなにもこわい
「────来い、こっちだ。早く」
圭がそう言った気がした。肩を掴んで引きずられる気がした。
でも分からない。声が聞き取れない。圭の声が聞こえない。
感覚が遠い。圭が遠い。必死に掴んでもまだ足らない。爪を立てても満たされない。足元に地面が無い。ぼくが消えない。消えてしまいたいのに消えない。いたい。
あたまが、殴られたみたいに、痛い。
ズキ、ズキ。ズキ。ズキ。頭に響く痛み。激しい耳鳴り。
見えない。なにも見えない。見えないはずなのに視界から消えない。瞼が閉じない。
ヒトが、みんなが、ぼくをみている。
ぼくを見て、
ぼくを視て、
ぼくを観て、
ぼくを看て、そして
ぼくを、ひとりにする。
痛い。痛い痛い痛い。ズキズキズキズキ。痛い。イタイイタイ。遺体。割れる。割れて飛び出して見られて灼き切れて痛くてずっとずっとイタイが消えなくてイタイ千切れるいやだいやだいやだたすけてこわいいやだだれか。知、ギれる。頭が、頭が痛い、なんで、なんで、
なんでみんなにみられていると、こんなにいたいんだろう?
「────────ぃ、──ろっ! おいっ、しっかりしろっ!!」
ハッと顔を上げた。
視界がぼうっと滲んでいた。全てがぼやけていた。見えなかった。
それがだんだん収まって、だんだんやわらかに色がついて。
そして、圭が目の前にいた。
「────────ぁ」
まともな声なんて出なかった。言葉なんて浮かばなかった。感情は追いつかなかった。
ただ、圭が目の前にいてくれた。
そのことが分かっただけで、こんなにもぼくは力が抜けた。
圭の胸に顔をうずめた。帽子がずれ落ちる。眼鏡が当たって少し痛い。涙は出なかった。それでも小さな、途切れ途切れな声は、止めどなく。
「……やっぱり、まだここに来んのは早すぎたか。悪い。結局お前に無理強いさせちまった」
圭のあのぶっきらぼうな、少し嗄れた声が、圭の胸板を通して優しく響く。ぎこちなさそうに、その両腕をぼくの背中へ回して、トン、トンと一定のリズムでさすってくれる。
「ただ、叫び出さなかったのはすげえな。おかげで助かった。やっぱお前の方が強えよ」
息を吸い込むと圭の匂いがする。すり寄ると、頬から圭のあたたかさが伝わってくる。さっきまで圭の為に、って動いていたはずなのに、取り乱した途端すぐさま圭に縋ってしまう。圭のおかげでゆっくりと心は落ち着いていくけれど、そのことが少しだけ胸の奥をちりちりと痛ませた。
一瞬身を固くした圭が、ぶはっと息を吐いて、おそるおそる声を上げた。
「……すまん、俺から言えることじゃねえのは分かってんだが、そろそろ、離れていいか…………?」
「…………うん」
ゆっくりと圭の胸元から顔を上げる。そのときふと、圭の服を掴んだままだった自分の指、その黄色い爪先に少しだけ紅い何かが付着しているのが見えた。
「ああ、少し汚れてんな」
ぼくがよく見ない内に圭は自分の白いワイシャツの裾、その見えないところにぼくの爪先をサッと押し当て、紅いのを拭き取った。それから真っ直ぐにぼくの目を覗き込んだ。
「ちょっとは落ち着いたか?」
ぼくはゆっくりと頷く。それからようやく周りを見回す余裕ができた。
ぼくらがいるのは階段の踊り場だった。壁もライトも全てが白くて、少し眩しい。
右側には上っていく階段、左側には下っていく階段。圭は踊り場の手すり、上りと下りで折れ曲がるちょうどの場所に背を預けたまま座り込んでいた。
ぼくはその圭の腕の中に納まっている。周囲にヒトの気配はない。上りと下りの階段の先もそれぞれ踊り場になっているから、ヒトが居る場所はその更に向こうのようだった。ざわめきはまだ薄っすら聞こえるけど、まだ耐えられた。
辺りを見回すぼくに、圭は疲れが残る顔のままニヤリと笑った。「なかなか良い場所だろ? 大抵はエレベータかエスカレータ使うからな。わざわざ階段使う酔狂な奴なんざそうそういねえだろうよ」
だが、と圭は表情を曇らせる。
「お前には酷だろうが……、少しここで待っててもらいてえんだ」
「────え」
再び背筋に冷たいものが走った。喉の奥がヒュッと鳴る。
「ここに入る前に言ってたことの続きだ。少しの間、お前を置いていくことになる。買って来なきゃなんねえものがあんだよ」
「ゃ、いや、」
喉が強張って声が出ない。力なく首を振るので精一杯。
でも圭の目の奥の光は揺らがなかった。
圭は、ぼくを置いていく、と言った。でも理由が分からない。どうして圭はそんなことを言うんだろう。無理強いはしない、って言ったのに。どうして。
首を振り続けるぼく。その肩を圭は力強く掴んだ。
「お前の気持ちは分かる、それこそ痛えほどな。だが説明してる時間がねえ。ここに居座るにしても、いま動かなけりゃロクに立ち回れねえ。ましてや、お前を連れて歩き回るなんざ不可能だ。だから俺一人で行く」
否定できない。いまのぼくじゃ完全に圭の足手まといだ。こうやってぼくが駄々を捏ねれば捏ねるほど状況は悪くなっていく。ぼくと圭の首を絞めていく。それは分かってる。
でも、怖いんだ。
もし圭が帰ってこなかったら。もし圭があの青年たちに捕まったら。もし他のヒトにぼくが見つかってしまったら。もし、もしまたぼくが、どうにかなってしまったら。
圭と離れてしまったら、ぼくは。
そんなぼくを余所に、圭はもう腰を上げ始めた。ぼくは踊り場の床にぺたん、と座り込んだまま。脚に力が入らない。一縷の望みに圭の腕に縋りつくことしかできない。
「悪いがもう行く。安心しろ、絶対戻ってくる。他のヒトが来たら逃げりゃいい。お前の持ってるスマホにも俺の連絡先入れてっから、何かあったら連絡しろ」
「や、ぁ、」
むりだ。離せない。圭の腕から手が離せない。いやだ。ひとりになるのは、いやだ。
その時、圭がぼくの手を掴んだ。でもそれは引っ張ってくれる為じゃなかった。
ぼくの手はそっと圭の腕から引きはがされ、代わりに圭の胸、心臓辺りにぎゅっと押し当てられた。
「心配なのはお前だけじゃねえ。……でも、さっき言ったろ」
「……?」
「────────俺はお前を信じてる。だから、お前も俺を信じろ」
そして、圭の手は離れた。
圭の背中が階段を下って、どんどん遠ざかって、白い階下に消えた。
ぼくは、ひとりになった。




