K汰 - 白昼ノイズ
「くそっ……!!」
目前の十字路に何回目かの「影」を見留めた圭が、舌打ちしつつ方向を変えた。
どれだけ走っただろう。あの青年と影達から逃げ始めて、ずいぶん経ったようにも、ついさっき逃げ始めたばかりのようにも感じられる。呼吸すればするほど蒸し暑い空気が喉に絡みついて、背中のリュックが跳ねるたびに背中や足に負荷がかかって、疲れが無視できないほどに溜まっていく。時間の感覚があいまいになっていく。
圭もぼくも、もう走るスピードを保てていない。最初と比べれば段違いに遅い。足が鉛のようで、圭に付いていくのがやっとだ。
あとどれだけ走ればいいんだろう。影は何度振り切っても、次の瞬間にはもう別の曲がり角に姿を現す。それなのに背後から響いてくる足音は止まないどころか、次第に増えていっている気がする。青年の仲間なのか、応援を呼んでいるのか、追い越されているのか逃げ切れているのか。暑さと疲労で回らない頭じゃもう判別できない。
「もうちょい……、だ……。近くまでは、来てんだ……。踏ん張れっ…………!」
圭が励ましてくれる声が聞こえる。呼吸が乱れすぎてて返答できないけど、なんとか圭の背中に必死に食らいつく。汗が止めどなく流れるのも構わずに、ひたすら圭の背中だけを目に焼き付けて走っていく。
圭の言う通り、道幅も広くなり始めていた。遠くでブゥゥンという音も聞こえる(たぶん「車」だと思う)。住宅街にも静けさはなくなり、色んな「動く音」が周りを覆い始めている。
ヒトの居る音が、し始めている。
思わず胸の辺りを掴んだ。走っているからなのか、それともこれから向かうショッピングモールに居るヒトの多さが怖いのか、もうまともに分からないほど心臓がバクバクと脈打っている。いっそこのまま、自分を誤魔化したまま走った方が良いのかもしれないと思うほどだ。
怖い。怖い。心臓が潰れるほど。頭が真っ白になるほど。でも。だけど。
それ以上に圭の辛そうな顔を見てしまう方が、もっと怖い。
明確な理由はない。きっと言葉でも上手く言い表せない。でもはっきりとそう想うのだから、いまはそのために動こう。
ぼくが、生きやすく在るために。
「……! 見えたぞっ……!」
圭の声が飛ぶ。つられてぼくも顔を上げた。急に開けた場所に、巨大な建物が現れた。今までの家々とも、以前見たスーパーとも違う、それ以上に巨大な建物が空に届きそうなくらいに聳えていた。
周囲はまだヒトの影が無かった。圭の言った通り、ぼくらが出てきた所はショッピングモールの裏手になるらしく、昼過ぎのいまの時間帯ならまだ行きかうヒトも少ないようだった。
「そんなら……、ラストスパートだ、なあっ!!」
圭は気合を入れるかのようにダンッ、と力強く足を踏み、急に方向転換した。建物の影になっている駐輪場に足を向ける。
ぼくもそれに倣うように思いっきり踏み込み、圭の背中に続く。案の定、後ろの足音の数々もぼくらを追いかけてくる。
来た。ちゃんと追いかけて来た。あとはここからだ。
ぼくらはあまりスピードを落とさないように走って行く。そして後ろの足音達は、
さっきまで疲れ知らずで鳴り響いていた足音達は、急にリズムを崩し始めた。圭もその音の変化に気付いたのか、一瞬ぼく越しに後ろを振り返って、勝ち誇った唸り声を上げた。
「よしっ、かかったっ……!!」
ぼくも、圭の計画をようやく理解できた。ぼくらが飛び込んだ駐輪場は通路がとても狭い。さっきまでの住宅街の道とは違い、ヒト二人分がすれ違えるのがやっとの狭さだ。それにいくつもいくつも区分けされているのか、とても入り組んでいて、なおかつ視界が悪い。人数が多ければ多いほど、この場所は走るのが困難になるんだ。
影のように真っ黒な集団達は、ぎゅうぎゅうと押し合いへし合い、ぼくらを追いかけようとしているけれど。さっきより明らかに速度が落ちている。仲間同士の身体にぶつかりあって、まともに進めていない。
圭が言ってた「数の暴力」が、ここではぼくらに味方するんだ。
それにしても、と前へ向き直りながら考える。住宅街を抜けている時にも感じたけれど、あの影達はいつの間にあんなに増えたのだろう。あの青年が呼びつけたにしては、あまりにも数が多い気がする。
それに統一が取れていない気もする。いくらこの駐輪場が狭いとはいえ、列を組んだり、手分けして周り込んだりすることも出来なくはないはず。それなのに各所でギチギチと詰まっていて、きちんと動けていないようにも思える。
そしてあのぎこちない、不器用そうな動き────────
「うしっ、このままモール内に入るぞっ……!」
圭の声で我に返った。そうだ、ぼくにとっての一番の難題はここからだ。
ヒト混みに紛れ込むこと。
改めて不安が襲う。空調の効いた環境、水分や食料の確保しやすさ、圭が言うには人目に付きにくいスペースもあるとのことだったけれど。ヒトの姿がまばらだったスーパーでも、あれほど取り乱してしまったんだ。こんなに巨大な場所だ、スーパーの規模とは比べるべくもない。ヒトが少ない時間帯とはいえ、一体どれだけのヒトが中に居るんだろう。そのうちどれだけのヒトと接触しなければならないんだろう。
考えれば考えるほど足がすくむ。背中がじりじりして、肌が粟立つ。走ることを止めてしまいそうになる。足を止めてうずくまってしまいたくなる。あの青年達がどれだけぼくらを追いかけ回すかも分からないのに。
ぼくは、どれだけ、ショッピングモールに居なければならないんだろうか。
「────おい」
「な、なに……、わぷっ!」
不意に圭に呼ばれた、と思ったら立ち止まっていた圭の背中にドンッ、と思いっきりぶつかってしまった。少しだけ鼻先がひりひりする。
「ど、どうしたの圭、急に……」
「時間がねえ。手短に言うぞ」
散々走り回った後の乱れた呼吸を整えるように、圭はぼくに向き直り、大きく深呼吸をした。目線をぼくに合わせるように、少しだけ身をかがめる。すぐ傍にはショッピングモールの入口なのか、透明なスライド扉があるのが見える。
「いいか。俺は、お前が『嫌だ』と思うことをやらせるつもりはねえ」
「……?」
「無理強いはしねえし、お前は好きに生きりゃいいと思ってる。そんでお前も、俺の言いてえことを汲んで動いてると俺は思ってる。俺はそんなお前を信じてる。だから、月並みだが言っておくぞ。お前も俺を信じてくれ」
ぼくから目を逸らさず、終始真剣な表情で訴えかける圭。でもどうしてだろう。どうしてこの状況で、ぼくにこんなことを言ってくれるのだろう?
困惑しつつ、それでもぼくは頷いた。「う、うん。分かった、けど、」
ぼくの言葉を受けて、圭はかがめていた上体を起こした。ぼくから視線を外し、代わりに入口のスライド扉を見据えた。
そしてぼくの手首を引き、歩き出す。スライド扉が待ち受けるように、その透明な口を大きく、大きく開ける。
「────────少しの間、お前を置いていく」
「……………………え?」




