K汰 - 炎転
「あんたらもしかして、────────『K汰』と『メグ』か?」
「…………え」
青年の言葉に、一瞬周囲のすべてが消え去った。
蝉の声も。夏の暑さも。鮮やかな緑と青い空も。その一切が目に入らなくなる。何も聞こえない。全部ぜんぶ遥か彼方に遠ざかって。
青年の目だけがひた、とぼくらを見つめている。
どうして。
どうして。名前。だって今日会うのはノアだけで、約束してたのはノアだけで、ノアとはさっき別れたばかりで。それなのになんで、なんで知らない青年がぼくの、圭の名前を。
この青年は、誰?
頭が真っ白になる。喉が塞がって言葉が出ない。
知らないヒトが、知らないヒトがぼくを見て、ぼくを、
「────────おい」
圭の声がした。
穏やかに嗄れた、あの唸るような低い声が、ぼくの傍で聞こえた。
「勝手に飛び出してきておいて、謝りもなしに聞くことがそれか?」
圭がキッ、と青年を睨む。
「てかあんたこそ誰だよ。『K汰』? 『メグ』? 知らねえよそんな奴ら。勝手に人違いしてんじゃねえよ」
自然な流れでぼくと青年の間に割って入る圭。その顔を見上げそうになって、慌てて留まった。圭の服にしがみついたその手にぎゅっと力を込める。
だめだ。いま圭の顔を見ちゃだめだ。圭がはぐらかそうとしてくれている。いま下手に反応したら圭の言葉が噓だとばれる。圭の機転を無駄にするな。
圭もきっとぼくと同じことを考えている。K汰とメグの名前を口にした時点で、この青年はおかしい。記憶のないぼくはともかく、圭とすら面識がないのに、ぼくらの名前を知っている理由がない。初めからぼくらと会う約束だったノアとは違う。明らかにぼくらを捜している。
青年は少しの間圭の顔から視線を離さなかったけれど、しばらくして肩をすくめた。
「……そっか、おれの人違いだったか。ごめんな。飛び出してきたのも悪かった、謝るよ」
青年の謝罪に圭はフン、と鼻を鳴らし、ぼくを見下ろしながら公園の外へと顎をしゃくった。
「行くぞ」
「……うん」
ぼくらは歩き出す。
一歩、砂を蹴りながら。一歩、青年の横を通り抜けようと。一歩、真夏の陽射しにじりじりと焦がされながら。
耳障りな蝉の声。靴底が砂と触れ合う音。首筋を伝う嫌な汗。
そして一歩。青年の横、公園の境目を踏み越える。
公園の砂地から道路のアスファルトへ。緑の鮮やかな生け垣を曲がり。足先を圭の家へ向けて。遠くへ伸びる道の先、真っ青な空と白い入道雲の、その手前に、
黒いフードを頭から被った影が道を塞ぐように立っていた。
「…………!!」
息を呑む。黒くて長い二つの影がぼくらの方を向いて立っている。
微動だにせず、容赦ない陽射しすらまるで気にならないかのように、顔が見えないほど目深にかぶったフードも取らず、衣擦れの音ひとつなく、ぼくらを見ている。
思わず、圭もぼくも立ち止まる。嫌な夢でも見ているように足が動かない。このままじゃ、帰れない。
心臓の音がうるさい。めまいがする。ゆっくりと首を回して、振り返って。
さっきの青年と目が合う。
青年がこちらを見ている。
そして、彼が口を開く。
「────────嘘はいけねーよ。なぁ、お二人さん?」
次の瞬間。
「走れっ」
圭の鋭い声。それと同時に手首がグイッ、と引っ張られる。
圭に手を引かれながら一目散に駆け出す。道を塞ぐように立っていた長い影がぼくらに覆いかぶさる瞬間、
「邪魔だッ!!」
再び飛ぶ圭の怒声。ドンッという鈍い音。二つの影は何かに突き飛ばされたみたいに、ぼくらの足元に倒れ込む。
一瞬圭の顔が苦しそうに歪んだけれど、圭は「……くそっ」と間髪入れずにアスファルトを蹴った。
背後で青年が、おい待てっ、と叫ぶ声が聞こえる。倒れ込んだ影たちがズルズルと起き上がる音もする。でも振り返って確認する余裕なんかない。ぼくらは必死に走った。
住宅街の風景がみるみる後ろに流されていく。風を切る音が耳元で唸り声を上げる。圭とぼくの荒い呼吸音だけが頭を埋め尽くして、肺が痛くて、それでも圭に引き摺られるようにひたすらに走る。
何度も方向を変え、いくつも角を曲がり、暑さと肺の苦しさで景色が白く飛んでいく。
「圭、どうしよう、どこまで、」
「分かんねえ! とにかく今は走れっ!」
そう圭が叫んだ直後、突然目の前の曲がり角から影が飛び出した。
声を発する間もなく、飛び出してきた影は腕を伸ばし、ぼくの腕を鷲掴んだ。
「────なッ!?」
ぼくのもう片方の腕を掴んでいた圭もつられて失速する。影は、さっき公園前で道を塞いでいたフードの二人と同じ見た目をしていた。
「痛ッ……!」
両方から引っ張られて、影に掴まれた腕が悲鳴を上げる。
どうして。さっきの二人はもっと後ろにいるはず。追いつかれた? どうやって? それにこの影の腕、ヒトの腕じゃない。
これは、蹄────?
考えている間にも影の力は強まる。ぼくの手首にギリギリと食い込む硬い腕。絶対に逃さない、という執念。
「う、あっ……」
怖い。怖い、怖い怖い怖い。やだ、いやだ、
「離せッ!!」
圭の声。
ドンッ
そして鈍い音。と同時に影が吹き飛ばされる。
真っ黒なそれは不自然なほどに宙を舞い、重い音とともにアスファルトへ落下した。数メートルほどゴロゴロと転がり。
そして、動かなくなった。
「……け、圭…………、」
乱れた息でまともに口が回らない、けど圭を振り返ると。
圭が、膝から崩れ落ちた。
「────! 圭っ!?」
すぐさま圭に駆け寄る。圭は「ぜぇ……ぜぇ……」と喉を不規則に震わせ、時折咳き込んでもいる。全力疾走したからだろうか。
目の焦点が定まっていない。咳が止まらない。汗が文字通り滝のように額を流れ落ち、熱したアスファルトに黒い染みを作っていく。
「け、圭、だいじょうぶ、ど、どこか痛いの、ねえ、圭、しっかりして、」
ぼくも息が上がっていて、声が震える。指先がぶるぶると無様に震える。苦しそうな圭に何もしてあげれない、自分。
どうしよう。圭が苦しそう。どうすればいい?
そうこうする内に、離れたところからバタバタと足音が鳴り響き始めた。ふらふらする頭をもたげると、道の向こうから走り寄ってくるさっきの青年。そして黒いフードの二つの影。次第に大きくなる彼等の足音。
どうしよう? どうしなきゃいけない? どうすれば圭は、ぼくは。
息がまともに吸えない。意識が霧散していく。来る。彼等が来る。ぼくと圭を捕まえに。
ぼくが迷っている間に、圭は歯を食いしばって膝に力を込めた。ゆらり、と立ち上がって再びぼくの手首を優しく掴む。
「………………行くぞ」
「で、でも、圭、苦しそうで、」
「んなの後回しだ。……げほっ」
圭は咳き込みながらも再び走り出す。さっきまでの速さはないけれど、足を引きずり、何とか近くの家の物陰に腰を下ろした。
「とりあえず、ここで、…………げほっ」
息が続かずに咳き込む圭。慌てて圭に声をかけようとしたけど、圭はぼくの口をそっと覆った。
直後、隠れた物陰の塀の向こうをバタバタと誰かが駆けていく足音が響き渡った。少し通り過ぎた後、小声で何かを話し、やがてまた去っていった。けれどまだ近くには居るようで、家々の向こう側でも時折パタパタ……、と足音は鳴り止まない。それに心なしかさっきよりも足音の数が多い気がする。
「あいつら、まだ諦めねえのかよ……。数の暴力使いやがって……、インドアPのスペックの低さ舐めんなよ……」
「け、圭、しゃべらなくていいから、息して、しっかり、」
まだ声の震えが収まらない。自分の声じゃないみたいにみっともない。
よく分からない状況。それでも追われる恐怖。知らない環境。苦しそうな圭。思考が落ち着かない。頭が真っ白で何も考えられない。そんな自分が、どうしようもなく悔しい。
こうして、圭の身体に縋って、そのくせ何もできないちっぽけなぼくが、本当に。
でも圭はそんなぼくに手を伸ばし、頭を撫でた。ゆっくり、ゆっくりとリズミカルに。心地よく。
「んなこの世の終わりみてえな顔すんなって……。走って疲れただけだ……。大したことねえよ」
手をそのままに、圭は背後の塀に凭れかかる。「にしてもお前、結構走れんのな。若さか? やだねぇ歳取るって」
いつものように悪態をつく圭。次第に呼吸音も戻っていく。その様子と、圭の手のあたたかさに、ぼくの心臓も段々落ち着いていく。
「落ち着いたか?」
「……うん」
「ったく、俺より辛そうな顔してんじゃねえよ。……だが、このまま家に帰るわけにもいかねえな」
圭の言う通りだ。ぼくらが居た家は、距離からしてもう目と鼻の先だろうけど。近いとはいえ、あの足音の多さからして、彼等の目をかいくぐれるとは思えない。
「……でも、それじゃあ、どうすれば」
圭は少し考え込む素振りを見せた。それからとても真剣な表情で、口を開いた。
「どっちか選べ」
「え……?」
「一つ。この辺りを逃げ回りながら家へ帰る機会を待つ。あいつらもずっと探し回るほど暇じゃねえだろ。体力的に疲れはするが、悪い手じゃねえ。ただ、この辺りの住人が帰って来始めたら、こうやって家の陰に隠れんのは難しいだろうな……それともう一つ」
圭は逡巡したのち、もう一つを提案した。
「こっから家へ向かうのとは反対方向に、でけえショッピングモールがある」
「ショッピングモール……」
「ああ。『葉を隠すなら森の中』ってな。────人混みに紛れてあいつらをまく」
背筋に寒気が走った。
圭と初めて出会った日、スーパーの前で過呼吸になった、あの時の感覚がまざまざと脳裏に蘇る。
人混み。ヒト混み。
ヒトが、たくさんいるところ。
「もちろん、お前のことを考えりゃあ最善手じゃねえ。あくまで一つの方法だ。さっきの方法だって悪かねえ、俺ら二人ぐらいなら何とかなるだろ」
圭は軽い調子でそう囁きつつ、だが、と付け加えた。
「だが、モール側に逃げる方が逃げ切れる確率が高えのも事実だ。夜遅くなっても店舗が開いてりゃなんとかなるし、このクソ暑ぃ中走り回る事もねえ。体力温存しながら、リズにでも連絡取りゃあサポートしてくれるだろうさ」
そして圭は、いいか、と再びぼくの目を見る。
「お前が生きやすい方を選べ。俺はそれを手伝うまでだ」
思わず俯く。目を閉じて、そして想像する。
ヒトがいるところ。そこに自分が立っている光景を。
たくさんのヒトがぼくを見つめている光景を。
だめだ。想像しただけで、仮定しただけで、こんなにも心臓が痛い。肺が握り潰されそうなほど縮んで、脂汗がこめかみを伝う。無理だ。外に出られたって、ここまで来られたって、この怖さの理由も分からないのに行けるわけがない。
────だけど。
圭の横顔を見る。疲労の滲んだ瞳。息をするたび苦しそうに動く肩。何度拭っても滴り落ちる汗。それから、ぼくが圭に対して何もしてあげられないという、悔しさと恐怖。
息を整える。頭の中で三つ数える。
ぼくがここまで来た理由を。今日初めて自分から誰かに会った、その理由を思い出す。
そして圭の言葉を思い出す。
ぼくが、生きやすい方を、選ぶ。
だからぼくは、そっと目を開けた。
「────圭、連れてって。ショッピングモールへ」




