K汰 - 木偶の坊と呼ばれ
「────あ、もうこんな時間」
スマホの画面を見直したノアが声を上げた。
「ごめんね、二人共。わたしそろそろ学校に戻らなくちゃ」
「ん? 今日は自習してただけっつってなかったか?」と、圭。
「他のお友達と、このあと遊びに行く約束してるんだ。お互い自習が終わったら待ち合わせることになってるの」
「ああ、悪ぃ。案外遅くなっちまったか」
「ううん、気にしないで」
スカートの裾をぱんぱん、と軽くはたいてノアが立ち上がる。
「君達に出会えて嬉しかったよ。何か他に思い出せたり、変わったことが起こったらまた連絡するね」
ノアはそう言って、手元のスマホを軽く振った。さっき圭とノアが申請しあった「ディスコード」のアカウントのことだろう。
ノアがぼくに向かって微笑む。「貴方も、K汰君のアカウントからでいいから、いつでも連絡してね。わたしにできることは何でもするよ」
「うん、ありがとうノア」
ぼくが頷くと、ノアはもう一度にっこり笑って「それじゃあ」と公園の入口へ駆け出す。
突然、圭が急にノアの背中へ「おいっ」と声を掛けた。
ベンチの木漏れ日から軽やかに抜け出してふわり、と振り返ったノアが、蝉の大合唱に負けないように声を大きくして尋ね返した。
「なーにー?」
「最後に聞いとくが、あんた『五重奏』って集団について、なんか聞いたことあるか?」
ノアはしばし首を傾げていた。でもゆっくりと首を振った。
「ごめんね、わたしはよく分からないなぁ」
「……ならいい。呼び止めて悪かったな」
ノアはもう一度首を振り、高く手を掲げた。
「またね、二人共!」
夏のまばゆい陽射しの中で高く手を振るノアに、ぼくと圭も片手を上げる。ノアは輝くような笑顔をそのままに、今度こそ公園の生け垣の向こうに消えた。
ヒトの声が絶えた公園を、蝉の声が再び満たす。でも不思議とうるさくはない。むしろ柔らかいさざめきのように、寄せては返す波のように。
「────どうだ」
圭がぼくの隣にドサッと腰掛けた。「知らねえやつと、初めてここまで長話した気分は?」
ぼくはそっと自分の胸に手を当ててみる。心臓の音に、手の震え具合に、指先の温度に、意識を向けてみる。
「……まだ、少しドキドキしてる。手が強張っているし、何だかまだザワザワしてる」
初めてまともに話した他人。リズの時みたいに半強制的に環境が変わった訳じゃなく、初めて自分の意志で対話しようと決意した他人。たぶんリズが気を利かせて、ぼくが話しやすいように、ノアみたいな柔らかく優しいヒトを最初に引き合わせてくれたんだろうけど。それでもこの緊張は、指先の冷たさは、やっぱりどうしようもなかった。
だけど。
「だけど、やっぱり、会ってよかった。……踏み出せて、よかった」
たとえ自分の為だとしても。メグを探す為の出会いだったとしても。短い時間だったとしても。
ぼくは、他人と関わることが出来た。
そのことが何より嬉しくて、何より誇らしかった。
あの日。圭と初めて行ったあのスーパーで、心の奥底から溢れかえった理由の分からない恐怖をコントロールできなくて、圭にしがみつきながら、「ヒト」という存在を前にひたすら震えることしかできなかったぼくが。そこから少しでも前に進めたのなら。少しでも、違う景色が見られたのなら。
「────────ありがとう、圭。一緒に居てくれて」
それはきっと圭のおかげだ。
アサヒの、リズの、たまのおかげだ。
みんなのおかげで、ぼくは前に進めたんだ。
圭は座ったまま両手を少し後ろに突いて、何でもないことのように頭上の木洩れ日を見上げた。
「俺は大したこたぁしてねえよ。言ったろ、お前の好きにしろって。その結果だろうがよ」
「うん。そうだね」
「…………んでニコニコしてんだよ」
「大したことじゃないよ」
「さいで」
呆れたような顔で、圭はぼくと目を合わそうとしない。でもどこか優しくて、ぶっきらぼうな中に思いやりがあって、そこが本当に圭らしいと思った。
「まあともかく、ノアとの連絡手段は確保できた。とりあえずは上々だ」
「……圭が、ノアと連絡先を交換したのって、やっぱり」
「ああ、一応の保険だ、保険。あいつは『五重奏を知らない』って言ってたが、念には念を入れておくに越したこたぁねえだろ」
やっぱりそうだ。圭がノアとの連絡手段をスマホで交わしたのは、多分たまがいるからだ。
たまはインターネット上を自由に行き来できる。情報を集めるのも得意だ。相手とのインターネット上での連絡手段を確立できれば、たまの力を使って、確実に相手の情報を探れる。いまは圭から逃げないように部屋に留まってもらっているから、圭としては、たまに頼ることは最終手段なんだろうけど。
「あいつが五重奏のメンバーかどうかは分からねえ。そもそも俺たちが気を付けるべき相手が五重奏のメンバーだけとも限らねえ。だがまあ、リスクヘッジはやれるだけやっとけ、ってな」
「りすく、へっじ」
「用心深くしろ、って話だ」
圭の言葉に胸の奥が少しぐるぐるする。ノアの爽やかな笑顔が思い浮かぶ。
「……ノアは。ノアはぼくらのこと、『お友達』って、言ってた」
思わず感情がこぼれる。ノアはぼくらに「お友達」と言ってくれた。出会ってまだ数分の関係だけれど、そんな相手を最初から疑って、内緒で策を講じる。圭の考えも間違ってはいないんだろうけど、そのことにもやもやする自分がいる。
そんなぼくの考えを察したのか、圭の顔が少し曇った。
「……ここ来る前に全員で話し合ったろ。リズも否定してなかったし」
「そう、なんだけど……」
確かにリズは否定しなかった。むしろ「K汰チャンが気にするならそれも有りネ」と賛同してくれたほどだ。自惚れかもしれないけど、たぶんぼくを気遣ってくれたんだ。初めて出会う人がどんな人か分からない以上、ぼくが容認と拒否、どちらの選択も取れるように考えていてくれたんだと思う。
でも、それでも、この胸のもやもやはどうしても晴れなかった。
圭はしばらく黙ったあと、おもむろにスマホを取り出した。とんとん、と画面に触れ、スマホ側面のボタンをカチカチと数回押した。すると、暑気に騒ぐ蝉たちの声に混じって、スマホから音が流れ始めた。
────音楽だ。それも、聞いたことのある音楽だ。
ここに来る前。今日のことを色々話し合っていた時に聞いた、Novodyの「曲」だ。
澄んだ音。繊細で流れるような音。みんなが「ピアノ」や「ストリングス」と呼んでいた音。それらが緻密に織りなされて、綺麗で、でもどこか鋼のような固く冷めた感情が見え隠れするような。
恐ろしいほどの清らかさと、迫りくる威圧感。でもどこかで心の奥底をそっと撫でてくれるような一抹のやさしさがあって。
まるで、辛い中でも誰かを救おうとして偏執的なまでに塗り重ねられる、真っ白い絵の具のような。
そんな「曲」だと思った。
「Novodyの曲はすげえシンプルだ。心地いいうるささだとか、派手な技巧なんざ一ミリもねえ。俺からしたら物足りねえが、それでも全体としての厚みが半端ねえ。気取った言い方をするなら、あいつは引き算の美学を分かってるんだろうよ」
圭が口を開く。誰に言うでもなく、ただひたすらにスマホの画面を見ている。
「あとは歌詞だな。命だとか死だとか、よく分かんねえ哀しさとかがすげえ細かく描いてある。そういう感情をアンビエントっぽさとか、ポエトリーリーディング使って書き出してる。一から十まで俺とは真逆だな」
だが、と圭は言葉を切る。スマホの画面を見つめ続けるその頬を、淡い木洩れ日が音もなくなぞる。
「あいつは言った。自分の曲でみんなを救う、ってな。そこに嘘はねえ、と俺も思う」
「圭……」
「お前が嫌なら、しねえよ。なにしろこれはお前がやりたいって言ったことだしな、俺が首突っ込みすぎる話じゃねえ」
「うん。……ありがとう圭」
「その代わり! お前が納得いくまで悩め。どういう手段をとるか、お前がどう向き合うか、決めんのはお前だからな」
さて、と圭は腰を上げた。肩をほぐすように上半身を大きく反らしている。
「そんじゃそろそろ帰ろうぜ。こんな暑っちい所にこれ以上居てたまるか」
圭の言う通り、陽射しは衰えるところを知らないまま、ぼくと圭の頬には汗の粒がいくつもいくつも伝っている。初めてのヒトと長時間話したにしても、体力をかなり消耗したのが自分でも分かる。身体がぐったりとだるい。
ぼくも圭に頷く。
「そうだね、早く帰ろう」
「言われるまでもねえ」
さあ、再び道を歩かなければ。周りから人の声や生活音がしないとはいえ、ここは公園だ。ずっといればいずれ誰かが遊びに来る。既にズーンと疲れているのにこれ以上の疲労は避けたい。
ぼくも圭に倣って立ち上がった。
「帰ったらアイスでも食うか」
「! バニラ味、あるよね?」
「へえへえ、ごぜえますよ。お前の好みの味だって分かった途端、アサヒの奴が大量に買い込んできやがったからな。……んだよ2リットル入りって、何人家族だよ」
「でもいまは、たまがいるし。今日はリズもいる。みんなで食べよう」
「飽きねえの? 俺は飽きた」
「じゃあ圭は、圭が食べたい味を買えばいい」
「何でそんな冷てえんだよ……思春期か?」
そんな他愛のない会話をしつつ、圭と一緒に公園の出入口へ向かう。
そして。
「────────! おっと悪い!」
ちょうど公園に入ろうと生け垣の影から飛び出してきたヒトと、ぶつかりそうになった。
「!!」
避けようとして、反射的に身体を捻った。バランスを崩し、隣にいた圭にもたれかかる。不意打ちでヒトが出てきたことで、さらに心臓がバクバクとうるさく跳ね回る。
しかし、そのヒト──青年は、気にしすぎる素振りもないやんちゃな顔で、ぼくらに向かって言った。
「ごめんな、怪我してねーか? ぶつかってはないと思うんだけど、…………ん?」
そして男の子の視線は、ゆっくりとぼくらに焦点を合わせる。蝉の声が一層高まる。
「あんたらもしかして、────────『K汰』と『メグ』か?」




