K汰 - サム
「────じゃあ、行くか」
圭がそっとつぶやく。その言葉にぼくはゆっくりと頷いて、深く、深く息を吸った。
暗い玄関。ドアスコープの向こうにちらつく真昼の光。その向こうにあるものを出来るだけ考えないようにしながら、抱えていた膝をほどいて立ち上がる。
頭が少し重たい。背筋を汗が伝う。でも。
ぼくは背負ったリュックの紐をぎゅっと握りしめる。それから自分の手で、玄関の扉をそっと押し開いた。
すぐさま真夏の熱気が押し寄せる。蒸した空気が喉を塞ぐようだ。蝉の大合唱がさざ波のように寄せては引いて、真っ青に晴れた夏の空には面白いほどに膨れ上がった入道雲がそびえていた。
玄関扉に鍵をかける圭。ガチャンという無機質な音。これですぐには部屋に逃げ帰れない。
アパートの長い廊下にゆっくりと踏み出す。ぼくの後ろを圭が歩く。
圭の家はアパートなんだと最近ようやく理解した(ちなみにリズの家はマンションと言うらしい)。それまで家の中の世界しかほとんど知らなかったぼくにしてみれば、なかなかの進歩だと思う。
そんなアパートの、少し古びたコンクリートの廊下を、ゆっくりと進んでいく。
ぼくらは無言のまま突き当たりまで歩き、外階段を降り、駐車場の脇を通る。
ふいに視界がくらっと揺れた。慌ててアパートの壁に手をつく。
「! おい、大丈夫か」
「う、うん。大丈夫」
圭の心配そうな顔。でも本当に大丈夫。少し暑さにやられただけ。それにここまではとても順調だった。ここ数日の成果とも言えた。
玄関の端に座り込んだまま小一時間動けなかった最初に比べれば、かなりの進歩だ。そこから少しずつ、玄関扉の取っ手、玄関の外、廊下の真ん中、外階段の二段目と距離を伸ばしてきた。ここまで「慣れ」が早く進んだのも、たぶんリズの家に居られたから。そして、みんなの助けがあったからだ。
だから。
アパートの壁、その脆くて冷たい壁からそっと手を離した。自分の靴先から目を離さないまま、ゆっくりと歩を進め、アパートの影から真夏の陽射しの下へ身を晒す。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
目の前に道路。ヒトの姿は見えない。熱せられたアスファルトの匂いと蝉の大合唱。乱立する幾つもの建物。抜けるような青い空。容赦ない陽射しが肌を焼いて、そのヒリヒリが、ぼくがちゃんとここに立てている証明のように感じられた。
みんなに相談して、「出かける練習」を始めて、八日目。
ぼくは初めて、一度も引き返さずに圭の部屋から出ることができた。
こめかみを水滴が伝う。でも大丈夫。これは汗だ、涙じゃない。リュックには水筒も入っているし、アサヒやリズに借りた帽子と眼鏡もある。ぼくはまだ行けるし、行かなきゃいけない。
再び大きく息を吸う。リュックの紐を握り締める。うん、大丈夫。そして圭を振り返る。
「────────行こう、圭」
静まり返った家々の間を縫うように伸びる道を、ゆっくりと自分のペースで歩いていく。
真っ青な空。じりじり照り付ける太陽。家の隙間からちらちら見える草地の緑が、鮮やかで眩しい。以前圭とこの道を通ってスーパーまで行ったことが、何だか遠い昔のことのようだ。前と違うのはぼくの服装、圭の服装、それから自分がヒトが苦手だと気付いたことくらいだろうか。
圭は以前とは違い、ぶ厚いパーカーを被っていない。白いワイシャツにゆったりとしたグレーのパンツを履いているし、靴もサンダルじゃなくて、淡いブルーのスニーカーだ(ほとんど全部リズに見繕ってもらっていた)。髪型も爽やかになったからか、何だか別人みたいだ。
「……んだよ、俺の顔になんか付いてるか」
長く見過ぎたらしい、圭がじろりと気まずそうに言った。
「ううん。なにも付いてない」
慌ててぼくも首を振り、また道の先を見据えることに専念する。
ぼくも前とは違い、アサヒに借りた服装を身に纏っている。帽子は陽射し対策でアサヒが貸してくれた。眼鏡の方はリズの私物を借りたもので、曰く「細身のメタルフレームなら品は残しつつ目立ちにくいし、大きいラウンド型で小顔効果もアップよォ。シャイニー!!」とのことらしい。髪型もリズが左右非対称に分け目を作って、ふんわりとさせてくれた。
そんな、前とは違う恰好で、ぼくらは歩く。真夏日の下をぼくらのペースで歩いていく。
リズが紹介してくれたPに、会いに行くために。
ぼくはポケットからスマホを取り出して(これはたまから借りたやつ)、写真を見直す。画面に映った地図の写真、その上に引かれた青い線と、現実の風景を見比べる。ぼくが「出かける練習」をしている間にみんなが実際に歩いて確かめてくれた、人通りの少ない道順だ。時間帯と天気にさえ気を付ければヒトに会うことはまず無い、とみんなが太鼓判を押してくれた。
みんなの優しさが詰まった、ぼくのための地図。
この地図に集中しているおかげか、周囲の家々をあまり気にせずに済んでいる。ヒトの声も気配もない。蝉の声と、時折吹く蒸し暑い風。家の何処からか風鈴の音色が涼やかだ。胸に手を当てたけれど、心にはほとんど波風立っていない。心臓の音も正常。みんなのおかげ。
だからこそ、ぼくはスマホをポケットにしまい、また歩き出す。圭も見守るようにぼくの後ろにずっと付き添ってくれている。
目的地はもうそろそろ見えるようだけど、どの辺りだろう。
その時、遠くに鮮やかな緑が見えた。
「……あれ、かな」
圭を振り返る。額の汗を拭っていた圭が、ぼくを励ますように笑ってくれる。
「ああ。あそこだ。────辿り着けたな、ここまで」
胸の奥がきゅっと心地よく締め付けられる。
思わず歩を進める速度が上がる。
進むにつれ、緑の生け垣がはっきりと見えだした。鮮やかな緑、草木の匂いが鼻先を掠める。蝉の声が次第に大きくなる。そして生け垣の切れ目が現れ、ぼくはその中を覗き込んだ。
蒼々とした樹木。レンガ道の上を揺らめく木洩れ日。等間隔に並んだベンチ。陽射しの中で静かに佇む幾つかの遊具。
人気のない静かな公園。
圭に付き添ってもらってではあるけど、ぼくが初めて、自分の脚で辿り着けた「外」。
一瞬暑さを忘れて、ぼくは公園の入口で立ち止まっていた。安堵に似た感情が胸を満たしていた。ぼくは、ここまで来れたんだ。
後ろからポンッと頭に手を置かれた。圭だった。
「なに突っ立ってんだよ。さっさと影にでも行って水分補給すんぞ。干上がっちまう」
「う、うん」
圭に促されて、公園の隅にある木陰のベンチに足を向けた。
「────あれ」
でも、そこには既に先客がいた。
「もしかして君達かな、ZIPANDAちゃんが言ってた二人組って?」
落ち着いて透き通った声が、木洩れ日の下で鈴のように響いた。
程なくして声の主がベンチから腰を上げた。茶色いチェックスカート、白い半袖のブラウス、胸元の赤いネクタイ。蒸し暑い風にふわりとなびく短い黒髪の合間から、赤みがかった茶色い瞳がぼくをじっと見つめている。浮かべた笑みは涼やかで、まるで彼女の場所だけ暑さが消えたようにみえた。
知らない少女が、ぼくを見ていた。
一瞬だけ、緊張で喉が絞まる。
知らないヒト。知らない顔。知らない瞳。だけど、
きっ、と顔を上げる。ぼくはもう怖がらない。怖くない。
少なくともリズが紹介してくれたヒトだ。だから名前も知っている。大丈夫。
ぼくはそっと肩の力を抜いて、少しだけ震えた声で、蝉の声に負けないように、彼女の名を呼んだ。
「────────あなたが、『Novody』?」
ぼくの言葉に少女は微笑む。涼やかに、柔らかに、まるで神様みたいに。
「そうだよ、初めまして。でもごめんね、『Novody』って言いにくいでしょ? 良かったら、わたしのことは『ノア』って呼んでくれると嬉しいな」
「『ノア』?」
思わず聞き返す。少女が微笑む。
「うん、わたしの本名なんだ。『希望』の『希』に、草花の『葵』で『希葵』。こっちの方が呼び易いでしょ。よろしくね、メグちゃん?」




