K汰 - きっと歩けば
「『己』を知ったなら──イマの『好き』を知ったなら、もう怖い物なんてないワ」
リズがたまにそう言ってウィンクする様を、ぼくはリズの隣で見入っていた。
イマの好きを知る。今のぼくを知る。ぼくはそれと似たようなことを、言われたことがある。
────現在、現実にいるお前を、お前自身が蔑ろにすんなよ。
あの夜、リズの家のバルコニーで、圭にそう言ってもらえたこと。今のぼくを、ぼく自身が投げ出さないこと。そして、圭にそう言ってもらえたとき胸にこみ上げた「ありがとう」の感情。
リズは、たまに対して同じことを伝えようとしているんだ。
「…………ボクの、好き、か」
たまが呟く。その声音にはもう苛立ちはなかった。静かに自分へ問いかけるような、そんな穏やかな声で、たまは笑みをこぼした。
「アハハ。────そんなの簡単に見つかるわけない。ボク、嫌いなものの方が多いんだけど」
たまの笑みに、リズも落ち着いた笑みを返した。
「ンフフ。そうね、簡単には見つからないワァ。それこそ、他人の目を気にしてるヒマなんか無いくらいにネ?」
それから後は、また少しドタバタした。
まず圭は、近隣に住んでいる人たちに「挨拶回り」というものをしに出て行った。以前リズの部屋であったのと同じように、今回も部屋で大きな音をたくさん出したからだ。床や壁も削れたり壊れたりしてしまったし、その反動で発生した騒音について一応近所の人に謝りに行く、らしい。
「挨拶回り」が終わったら、休む間もなく、今度はたまの部屋の場所を確認しに出かけた。この圭の部屋から少し離れた場所にあるらしく、時間的に今晩中には戻ってこられないらしい。明日アサヒの車を借りたらどうだ、という話も出たけれど、圭は「夜に独りで出歩く方が都合がいい」とだけ言って、さっさと出かけてしまった。ついでに、たまのスマホも勝手に持って行った。
残ったのは、ぼくとリズとたまの三人だ。
「じゃあボクはこのパソコンを借りるよ」
たまはそう言って、圭のパソコンのモニターの電源を勝手に付けた。
「アラ。ソレ、オフラインでしょ。潜ったところで逃げられないわヨ?」と、リズ。
「逃げやしないよ」たまは不服そうだ。「言質録られてんのに逃げるほどボクは馬鹿じゃない。単純に、パソコンの中の方が過ごしやすいだけ」
「過ごしやすい?」と、ぼく。
「うん。この中だとお腹も空かないし、眠くもならないんだ。体内時間が止まってる、みたいな感じかな。どうせK汰が帰ってくるまで解放されないんだし、だったら部屋の中だろうとパソコンの中だろうと一緒でしょ?」
「で、でも……。一緒にごはん、食べないの?」
圭と食べたオムライスの味。アサヒと食べたアイスの味。リズの部屋で過ごしてた時の、みんなで囲んだテーブルの心地よさ。あの心地よさが無くなったら、ぼくだったら寂しくなる。
たまはしばらく迷ったようだったけれど、やがて「ごめん」と目を伏せた。
「今はいいや。……でも、ありがと」
そう言うが早いか、たまはモニターの画面に触れ、身体は溶けるようにモニターへ吸い込まれていった。
「ンもう。ホント、素直じゃないわねェ。オトコノコってみんなそうなのかしらァ」
リズが呆れたように肩をすくめる。
「とりあえず貴女の言う通り、晩御飯のコトを考えなきゃいけないわネ。何か買ってこようかしらァ。冷蔵庫の中身を勝手に使っていいなら、」
「……あ、リズ」
思案しているリズに声を掛けた。
「ごめん。ぼく、リズに聞きたいことがあって」
「アラ? 何かしら」
目線を合わせてくれるリズに、ぼくは問う。
「どうしたら、イマの『好き』を知ることができるの?」
「ン―、そうねェ」リズは楽しそうに首を傾げた。「方法は色々あると思うケド……。一番は、自分の心の動きに素直になることカシラ」
「心の、動き……」
「そ。何かを見たり聞いたりして、その結果、貴女の胸の奥がどう動くか。イイと思うのか、イヤと思うのか。ソレを見逃さないことネ。貴女が感じた『シャイニー』はその瞬間だけの、大切なものだものォ。理由は後回しでいいノ。誤魔化したり見て見ぬふりしたり、ソンなことしちゃったら勿体ないワ」
リズはそう言ってウィンクする。綺麗なアイシャドーが、キラリと煌めく。
「貴女の『好き』を信じてあげて。ソレはきっと、必ず貴女の糧になるってアタクシは信じてる」
そう言うリズは、何だかとても輝いて見えた。ただの輝きじゃない。それはまるで、暗い夜空の中でも瞬く、独つの星粒のように。
ぼくの「好き」を信じる。ぼくの心が、動いたことを。
「……ぼくが、好きな、ものは」
口に出す。声に出す。
ぼくは何も憶えていないけれど。この先何も思い出せないかもしれないけれど。
ぼくの心が動いたことを、圭もリズも否定しない。むしろそっと寄り添ってくれる。許して、励ましてくれる。
だから。
「ぼく、圭が好き」
「……アラ」
「アサヒが好き。アイスクリームも好き。オムライスも好き。扇風機の風も好きだし、シャワーも気持ちよかった。外は暑いし、スーパーマーケットはヒトが居て怖かったけど。蝉の声は嫌じゃない」
「アラアラ」
ぼくの好きを聞いて、本当に楽しそうに笑うリズ。その瞳を見て、また想う。
「それから、リズが好き」
「────────え」
少しだけ、リズが驚いたような顔をした。
「ご、ごめん。イヤだった……?」
「ノ、ノンノンノン! そんなことないわよォ、とっても嬉しいワァ。アタクシの方こそごめんなさい、……ちょっとビックリしちゃって」
「ビックリ」? どうしてだろう。
「だって、リズはとってもキラキラしてる。それに、他の人をキラキラさせることもできる。リズと話してると、ぼくも心の奥がキラキラするんだ。それってとっても、とっても凄いことだと思う。リズはキラキラを分けてくれる、強いヒトだと思う。だから、」
そう。だから、ぼくも。
「────────ぼくも、リズみたいなヒトに、なりたい」
リズは目を見開いていた。真っ直ぐにぼくを見つめる、その瞳が少しだけ水面のようにキラリと煌めいた。
リズはそっとぼくに手を伸ばそうとして、躊躇ったようにすぐ引っ込めた。
ぼくは不思議に思って、引っ込めたリズの手を握った。大きくて、あったかい。力強くて綺麗な手だった。
「────────ンフフフッ」
ふいに、リズが微笑んだ。はにかむ表情は何だか、小さな女の子のように見えた。
「やっぱり、貴女には敵わないワァ」
「かなわない?」と、ぼくは首を傾げる。
「ええ、本当に」リズがぼくの手を握り返す。「……アタクシね、強くなりたかったの。ブレずに、力強く、それこそ自分の道を一人で歩けるくらいに」
そう言いつつ、リズは目を伏せる。何かを思い出すように。
「アタクシは自分の『好き』を信じたくて。そんなアタクシを大事にしたくて。だから、強くなりたかった。『好き』と感じた自分を守りたかった。……貫き通すって決めたからこそ、その責任に誰かを巻き込んじゃいけないって。たとえアタクシだけだったとしても、って」
でも、とリズは顔を上げる。晴れやかな、本当に美しい笑顔で。
「でも、そっか。同じ方向を見て、一緒に歩いてくれる人もいたのネ。────私、一人じゃなかったのね」
ねえ、とリズがつぶやく。「少しだけ、抱きしめてもいいかしら。……もちろん、貴女さえ良ければダケド」
ぼくはまた首を傾げる。どうして聞くんだろう? 聞かなくたって。
ぼくはリズの背中に手を回す。少し遅れて、リズもそっとぼくの背中に手を回した。
「……ありがとう。アタクシも、貴女が大好きよ」
耳元で心地よく震える声がくすぐったい。その心地よさに、ちょっとだけ意地悪なことを聞きたくなる。
「それって、ぼくが『メグ』だから?」
ぼくの意地悪を汲み取ったのか、リズはいつもみたいに「ンフフ」と笑った。
「まさか。貴女が、貴女だからヨ」
あたたかさが胸の奥を満たしていく。それは圭に言葉を貰った時と同じく。それはアサヒに抱きしめられた時と同じく。
ふいに咳払いが聞こえた。
〈……取り込み中に悪いんだけど〉たまの声だった。
「アラ? 盗み聞きとはステキなご趣味だこと」
〈馬鹿言わないでよ、ボクだって最初から居たじゃん。電子海に潜ってるやつは存在しないって? はい差別ー〉
「ホント卑屈ねェ。素直に、『ボクには好きって言ってくれないの』って言えばイイじゃない」
〈ちがッ……! そんなこと一言も言ってないんですけどそうやって他人の心を勝手に妄想して満足ですか嗚呼そうですかこれだから自意識過剰は、〉
なぜか早口になるたま。ぼくは慌てて遮る。
「ぼ、ぼく、たまも好きだよ?」
〈……別に良いよ。わざわざ付け加えなくたって。ボクはさっきまで、〉
「ううん。本当だよ。確かに、たまとはまだ少ししか話せてない、けど。でも好きだ。自分を探して頑張ってるところ、ぼくも同じだから。一緒に探す仲間、みたいで」
〈……………………〉
「ンフフ、素直に喜んだ方が楽よォ?」
〈あーもううるさいなぁ!!〉
何かを振り払うように、たまは声を大きくした。それからまた咳払いを一つして声を落とした。
〈いいから本題。君らに伝えなくちゃいけないことがある〉
「伝えたいこと?」
「何かしらァ」
リズとぼくの疑問の声。それに対して、たまは深刻な声で言った。
〈────『メグ』のことを探している、奴らについて〉




