K汰 - 夕凪ヶ原
〈────久しぶりぃ。元気にしてた、K汰?〉
モニターから声が流れた。何度も聞いた、無邪気にからかうみたいな、そんな男のヒトの声。あの夜、腕を掴まれた時のことが思い出されて、手首の辺りに寒気が走る。
圭は彼の言葉には応えずに、モニターを睨んでいる。左右に並んだ二つの画面のうち、右側のモニターは画面が割れたまま。小さな破片は床にも散っていて、部屋に差し込む夕日を受けて鋭いオレンジ色に反射している。圭は残された左のモニターに向かって、口を真一文字に引き結んでいた。
圭の言った通りだ。この圭の部屋に戻ってきて、モニターを付けて、1時間も経たないうちに男のヒトの方から接触してきた。
画面には前と同じように通話ウィンドウが表示されている。圭が触ってもいないのに勝手に起動する様は少し不気味だった。圭は、男のヒトは電子端末を自由に操れるかもしれない、と言っていたけれど。実際改めて目にすると、その異様さに不安が押し寄せる。
〈あ、そうだ。ボクの新曲は見てくれた? どうせボクが「にくたまうどん」本人だってことももう知っているんでしょ?〉
空気は張りつめていた。軽やかでありながらどこか嘲笑うような声で語りかけてくる男のヒトも、表情を変えないまま睨み続ける圭も。噛みつく機会を窺いあっているような、そんな空気をまとっていて。見ているだけのぼくも息苦しい。
〈なに? 自分から接続しておいて──こうしてボクが来るって分かった上でネットに繋げておいて、無視する気? それとも、家に引きこもりすぎて日本語すら忘れたクソニートさんなのかなぁ?〉
初めて圭がハッ、と鼻で笑う。
「なんだよ、分かってんじゃねえか。俺はここ数ヵ月仕事してねえただのクソニート様だ。んで? そんな奴にわざわざ注目されにこんな部屋まで来たのか? あんたも大概暇人だな、『かまってちゃん』?」
同じように言い返す圭。男のヒトの声音がすぐさま冷め切っていく。
〈さっさと用件言いなよ〉
「用があんのはそっちだろ?」
〈ボクには無いよ、おまえみたいなやつに用事なんて。前に言わなかったっけ? おまえになんか一ミリも興味もないんだよ〉
「他人の顔を勝手に晒して煽りやがったくせに、俺に言いたいことの一つもねえのか?」
〈ああ、アレ。ただの暇潰しだよ、本気にしちゃった? たまたま超有名なK汰様の貴重なお顔が撮れたから、みんなにお裾分けしようと思って。なんで怒るの? 有名になって嬉しいでしょ?〉
バキッ。
突然の破壊音。モニターの左上から、蜘蛛の巣みたいにパッと走る亀裂。
〈あ、やっぱり怒ってるじゃん! ほら落ち着いて落ち着いて〉
「……黙れ」低く唸る圭。
〈ていうか、その壊す異能って難儀だねぇ。メンタルの浮き沈みで勝手に発動するの? うわー、周りの人大変そー。ちょっとじゃれ合っただけで骨ボキボキ折られちゃったり? K汰、人殺しじゃん〉
「…………ッ!!」
嬉々として論う男のヒト。圭は怒りを鎮めようとしてか、必死に自分の腕をかき抱くように力を込めている。でも、たぶん抑えきれていない。
バキッ。ミシッ。バキンッ。
部屋のそこかしこで音が飛び跳ねる。床が歪む。テーブルの足が折れる。壁に穴が空いて。窓ガラスにヒビが入って。見えない獣が暴れ回るみたいに、壊れる音は次第に大きく、数を増していく。
〈アハハッ、ねえ見てよK汰! 部屋がどんどん壊れちゃう! ねえどうしよう!〉
圭の額に脂汗が浮かび始める。歯を食い縛って耐えようとしている。その反対に、部屋は無常にも傷ついていく。物陰から様子を窺っているぼくも次第に焦っていく。心臓の鼓動が早く、止まらなくなっていく。
どうしよう。どうすればいい。圭の合図はまだだ。モニターのカメラから映る範囲に入るな、って言われたけど。でも、このままじゃ。
「…………っ、圭!」
ぼくは、思わず飛び出した。
「! おい、やめろ出てくんなっ」
圭が叫ぶ。でも、その時にはもう圭の背中にしがみついていた。ぎゅっと強く首に縋る。砕けて散らばった破片を踏んだのか、膝が少し痛むけどかまわない。圭の体温と、少しの汗の匂い、その全てを圭の身体へ抑え込むように力を込める。
部屋を跳ね回る音は次第に収まり始め、ついには途絶えた。部屋はまた痛いほどの静けさに包まれる。
〈……なんだ。やっぱり居たんだね、君〉
わずかに力を抜いた男のヒトの声が聞こえた。ゆっくり目を開けて、圭の背中越しにモニターを見やる。ぼうっと淡く灯る画面に、無機質な通話用ウィンドウが一つ。
〈ねえK汰。さっき言ってたよね、『何か言いたいことはないのか』って。……あるよ、あるに決まってるじゃん。でも言わない。もうおまえとこれ以上会話することすら気色悪い〉
淡々と、冷めた口調で男のヒトは言葉を続ける。それと同時に、モニターの画面が波打った。
それは波紋のように画面上のアイコンを揺らし、揺らめき、ゆらゆらと震えた。そして、驚いた声を上げる間もなく、その波紋の中心から一本の腕がこちらに向かって伸びてきた。
〈君にお願いがある。『K汰から離れろ』。そして『ボクの元へ来てほしい』〉
画面を突き破って出てきた腕。その先の人差し指が、真っ直ぐにぼくを指さす。
〈怖がらせるようなことしてごめん。でも、前にも言ったけど、君にどうしても聞きたいことがあるんだ。お願い〉
どこか切なさをはらんだ、悲痛な声で男のヒトは言う。さっきとは違う柔らかな声音。細くも優しく伸ばされた腕。
〈大丈夫。電子海に潜るのも任せて。絶対に傷つけないって約束する。君に危害を加えたいわけじゃないんだもん。……ボクは君と話したいだけ。本当にそれだけ。だから、〉
その瞬間、圭が動いた。
「────────ッ!」
ぼくの腕の隙間をかいくぐって、部屋の隅に向かって一足飛びに移動し、とある線を引っこ抜いた。
数本の白や黒のケーブル。そのうちの一本を、圭はコンセントから抜いた。それは本当なら、物陰に隠れていたぼくが抜くはずだったもの。
そして、圭が考えた作戦の一つ。
〈…………ああ、そういうこと。この子を囮にするとか、やっぱりクソニートは考えることが違うね。最低〉
「ハッ、なんとでも言えよ」ケーブルの先をゆらゆら振り回しながら、勝ち誇ったように圭が笑う。「だが、そんな言い方をするってことは、やっぱり図星だな?」
圭の言う通りだった。あのケーブルを抜けば、この男のヒトは逃げられないんだ。数日前、圭がリズたちに作戦を明かしたときの言葉が脳裏を蘇る。
────あいつは、絶対におびき出せる。それからこれは賭けだが、タイミングさえあればあいつは閉じ込められるんじゃねえか? ネットに繋がっていないオフラインの端末にな。




