K汰 - 負ケ去ヌ
「…………ん」
寝返りを打った。その動作で目が覚めてしまった。
視界は真っ暗。灯りはない。そうだ、ここは圭の部屋じゃないんだった。
低い天井。狭い空間。そこに敷き詰められた布団と、枕元を囲むようにいくつも転がっているぬいぐるみ達。リズはこのスペースを「ロフト」と呼んでいた。灯りがなければ塗りこめられたような暗闇がまとわりつくようで、けれどその暗さにどこか安心できた。
またもぞもぞと寝返ってみる。やっぱり目が覚めてしまったみたいだ。仕切りのカーテンから漏れる薄明りで、自分の手のひらがぼうっと浮かび上がる。
昼間の、圭の怒った顔を思い起こす。
「物分かりの良い面すんのも大概にしろよ、お前」。
圭はそう言っていた。あの時圭の目の中にあった怒りは、たぶん本物だった。
ぼくには、分からない。
自分の存在が分からない。記憶がないから確証がない。それでも、圭やアサヒやリズの話を聞く限り、ぼくは「メグ」というバーチャルシンガーかもしれないらしい。声優という職業の汐野日影という女性がいて、その人と声とぼくの声が全く同じで、圭とリズにとっては忘れていても頭の奥を揺さぶるような感覚にさせる声みたいで。
知らないうちに「メグ」の存在が成立していくことを、まだ他人事のようにしか思えない自分がいる。実感が湧かないからその奇妙さを理解できない。ただ一つ分かるのは、圭がそう信じているってことだ。そしてぼくは圭のことを信じている。だからきっと、ぼくは「メグ」なんだろう。
遠回しな自己認識はひどく空虚だけれど、それでも良かった。圭がそう言うのならそれが事実だと思うし、それが事実なら「メグ」はバーチャルシンガーだし、必然的に「ぼく」も架空の存在だ。それが事実なら別にそれでいい。事実に対して思うことなんてない。でも。
物分かりの良い面すんのも大概にしろよ、お前。
圭はどうして怒ったんだろう。事実は疑わなくていいのに。ぼくは何も感じていないのに。圭は、どうしてあんなに悲しそうな目で。
分からない。分からない。静かに、降り積もるような痛みで、胸の奥が重たくなっていく。
圭。
圭はいま起きているだろうか。圭の部屋に居た時は、よく夜中までパソコンを触っていたし。もしかしたら、リズとお話ししているかもしれない。
身体を起こした。仕切りのカーテンを引き、部屋の中を見渡し、
「うわっ!」
「…………え?」
目の前に知らないヒトがいた。
圭じゃない。リズじゃない。ここはリズの部屋なのに、知らないヒト。居なかったヒトが居る。少し小柄で、不思議そうにぼくを見ている、知らない男のヒト……?
誰?
一瞬何が起こっているのか分からなかった。ぼくもその男のヒトも、しばらく固まったまま動けなかった。
少しの後、先に動いたのは男のヒトだった。彼は焦りを抑えるような、思いつめたような表情で口を開いた。
「…………ねえ、君って、本当にメグなの?」
ぼくは答えられなかった。静かなパニックで、口を開けるほどの余裕がなかった。それでも男のヒトは気にしていない様子で独り、言葉を続ける。
「もしそうなら……、そうだとしたらボク、君に聞きたいことが、言いたいことがたくさんあって。いや、その前にここじゃ駄目だ……。あいつらはまだ外か、なら今のうちに、早く」
「……だ、」その時やっと声が出た。「だれ、なの?」
「後で名乗る。必ず名乗るよ。でもごめん、今は時間がないんだ。お願い、ボクと一緒に来て」
そして、彼がぼくの手首を掴んだ。ビクッと震えたのが自分でも分かるほどに心臓が跳ねた。冷たい指先がそっと肌を這って、背筋が寒くなる。咄嗟に腕を引いたけどびくともしない。男のヒトは細身なのに、力で敵わない。圭は、圭はどこに?
「だ、大丈夫だよ安心して。ちょっとだけ、ちょっとだけなんだ。少しだけゆっくり話したいだけで、君が戻りたいならすぐここに戻ってくるから」
「……い、いや、だ、はなし、て」首を振る。訴える。でも手首は動かない。
「怖がらないで、お願いだよ」男は懇願するように小声で繰り返す。「あいつ──K汰にはちゃんとボクから伝えるし君にも何もしない本当だ! だから、」
怖い。怖い。怖い。暗い部屋。知らない男。震える声がどっちの声かも分からないくらい、近くで、ぼくの手首を掴んで、圭、圭たすけて、
圭の声が、ないと、 っ、
「────────やだっ、はなしてッ!」
強張った喉を、振り絞って、やっと叫べた、その時。
「おい、どうしたッ!!」
────少し嗄れた、聴きなれた声がした。
「ちょ、お願いだよ、乱暴にしないから、──あ」
そう言いかけた男が再び固まった。圭と男の視線が暗い部屋の中でぶつかった。次の瞬間。
「────────ッ!!!!」
圭の言葉にならない激怒が夜を劈いた。空気が不自然なほどにキンとハウリングして、手首の辺りに悪寒がして思いっきり手を振りほどいて、
ドゴ────ッ!!
背後で轟音がした。ゆっくりと振り向くと。
男がぼくの手を掴んでいた空間の位置、その後ろの壁が大きく、大きく凹んでいた。まるで、何か大質量の物が、壁に激突したような。
「────やっぱり」
ぼくが手を振りほどいた拍子にロフトに掛かった梯子から滑り落ちた男は、ぼくと同じように壁の穴を仰ぎ見ながら、震える声を噛み殺すようにささやいた。
「やっぱり、おまえも異能持ってんじゃん。しかもけっこうヤバそうな異能をさ。それでよく『俺が知ってることならな』とかほざけたよね。絶対知ってるに決まってんじゃんこんなの」
「……な、なんの話、だ」
圭はなぜか疲れたように肩で息をしながらふらふらとしていたけれど、急にハッとしたように目を見開いた。
「待て。その声、あんたまさか……」
圭の言葉で、ぼくもようやく思い至った。この細くて弾むような声。皮肉を込めた時の神経質そうな言圧。聞き覚えがある。これはつい昨日、圭のパソコンを乗っ取った、あの。
「あ、思い出してくれた? もういいよ別に。おまえらにとっちゃ、どうせボクはただの一般人だもんな。かの有名なZIPANDA様と、伝説じみたK汰様と比べれば遠く及ばないカスみたいな奴だもんな。……でも。それでも」
片手で顔を覆いながら、男は不安定につらつらと言葉を連ねていたけれど、ふいにぼくの方を振り返った。光の消えた目が、垂れた前髪の向こうで、泣きそうなほどに揺れていた。
「────────ボクは、君に聞きたいことがあったんだ」
「……あなた、は」
その時、微かに男がえずいた。口元を抑え、顔を歪める。視線を一点に向けて、いやむしろ視線を逸らしているような……?
「アハハッ、でも今日はいいや。もう疲れちゃった。この状況もおもろくないし」
男はポケットからスマートフォンを取り出す。指が触れた端末が無機質なブルーライトを放ち、男の顔を青白く照らす。
「またねK汰。今度はちゃんと、丁寧に丁寧に下準備して、おまえの全部を晒してやる」
その言葉を最後に男は消えた。まさしくスマートフォンの画面に吸い込まれるように。
砕かれた壁からパラパラと粉の落ちる音が、静かに、静かに響いていた。