ZIPANDA - アンダーナイトフライデー
「────K汰ちゃん。ちょっといい?」
あの子が寝入った気配を確かめてから、そうK汰ちゃんを呼び出した。正直逃げるかと思った。でも彼は無言のまま、意外とすんなり私の言葉に従ってくれた。
「……で、なんでバルコニーなんだよ」
「アラ、ごめんなさい……。そんなにアタクシと夜の街でランデブーを」
「するわけねえだろ。茶化してえだけなら戻るぞ」
「んもう。ホント冗談通じないんだから」
バルコニーには少し風が出ていた。熱帯夜とまではいかないけれど、昼間の名残か空気はいささか蒸し暑い。その代わり、夜空にはまばらな星が見えて涼しげだ。街灯に負けない星明りが綺麗だった。
私は単刀直入に言った。
「昼間のアレ。一体どういうこと?」
バルコニーの塀に背中を預けたまま腕組みをしていたK汰ちゃんが、一瞬ピクッと肩を震わせる。
「……どういうことも何もねえだろ。あんたが口約束すら守らねえダセぇ人間だった、そんだけだろ」
「"あのコがバーチャルシンガーかもしれない"ってコト、あのコ自身に気付かれたら何がマズかったノ?」
K汰ちゃんは押し黙ったままずっと足元を睨みつけているだけ。細かい理由をいちいち口にしたがらない悪癖は相変わらずだった。
つい昨晩(もう日付を超えたから厳密には一昨日の晩だけど)、K汰ちゃんからディスコードに連絡がきた。
最後に連絡を取ったのはもう随分前のことだった。もしかすると5年以上経っているかもしれない。それぐらい彼と付き合いが途絶えて久しかった。だからこそ、既知の人と話せる嬉しさと同じくらい、切迫したことに直面しているんじゃないか、と一抹の不安がよぎった。
予想は的中。通話越しの彼は切羽詰まった様子で私に、部屋に泊まらせてくれないか、と頼み込んできた。
詳しい事情を話す時間がない。とにかく安全な場所がいますぐ必要なんだ。礼はいくらでもするから。
普段の私だったらこう返しただろう。礼はいくらでもする、って何でも言うこと聞くってことカシラ! なんて冗談めかして。
でもそうは言わなかった。言えなかった。彼がそこまで真剣に誰かにものを頼むなんて場面を一度も見たことがなかった。
今すぐいらっしゃい。そう二つ返事で承諾した。
家に運び込まれた女のコを見たときはさすがにちょっと引いたけど。
加えて、K汰ちゃんが話した内容はあまりにも現実離れし過ぎていた。
先日道端で女の子を拾って助けた。或る声優と同じ声を持ち、記憶が無く、帰るべき場所がない。それから。
こいつはおそらく「メグ」だと思う。
K汰ちゃんは自分からジョークを言えるほど器用な人間じゃない。むしろその逆。不愛想で、不器用で、そのくせ根は小学生並みに純粋で。音楽に触れること、楽曲を作ることにしか情熱を注がない。そんな人間が、うちに来るなり「謎多き記憶喪失の女の子を拾った」なんて連れ込んできたのだから、手放しで迎え入れるか、正気を疑うかの二択しかなかった。
そして、私は後者を選んだ。
「正直アタクシだって今でも半信半疑よォ。昼間はああ言ったケド、信じられる要素が何処にもナイのも事実だもノ」
直感と理性のズレ。夢と現実の乖離。それでも言葉通り、半分信じて半分疑っている、今でも。
いま、ガラス窓を隔てた向こう側、私のロフトで穏やかに寝息を立てているあのコ。うちに運び込まれたときは、ぐったりしていて目を覚まさなかった。顔色も悪く、酷く魘されているようだった。だから、とにかく彼女が目覚めたら色々訊ねてみようと思った。
私なりに推し量ってみよう。探ってみよう。彼を知り己を知れば百戦殆うからず。いつものことよエリザベス・シャイニー。そう、いつものことだもの。そう構えていたのに。
────ごめん、ごめんなさい圭、でも、もうちょっとだけ。
K汰ちゃんの首筋に手を回しながら、これまた子供みたいに縋りついたあのコの、その透き通った声を聞いたとき。
────ヤダ、アメイジング・シャイニーじゃない。
愕然とした。唖然とした。脳髄を震わせるなんてレベルじゃない、まるで全身からエネルギーが湧き立つような。清々しい昂揚感と奇妙な安心感。彼女に言った通り、「自分には歌声が欠けている」と思わせるに足る、そんな衝撃だった。
けれど、やっぱり理性がそれを許さなかった。
感覚的にそうだ、としか思えないのなら「メグ」の実在も信じるしかない。でも、そんなわけがない、と頭の隅で理性が叫ぶ。仮想が、夢想が、現に結実するわけがない。誰が考えたってわかることだ。
常識を手放せないんじゃない。私たちは常識の中でしか生きていけない生き物だからだ。
だからこそ現実を見据えなきゃいけない。だからこそ、可能性の一つとして言葉にしたまでだった。
「大体"バーチャルシンガーかもしれない"なんて、現状じゃあくまで可能性の一つでしかないワ、真に受けることでもない。もし仮にそれが正しかったとしても、それが事実だもの。あのコ自身も納得していたわよ。何も問題ないじゃない?」
私の問いかけに、K汰ちゃんは口を開いた。けれどそれは私への返答ではなかった。
「あんたは、噂の『メグ』が本当にバーチャルシンガーだと思うか?」
「……? えぇ、本当に実在したのなら」
「それなら『メグというバーチャルシンガー』は本当に実在したと思うか?」
「……そう信じたい、ケド信じる根拠がない、ってのが正直なトコロよ。"半信半疑"と言ったデショウ? 現実的に考えてありえないもノ」
でも、と訊き返す。
「どうしたの急に? そもそもK汰ちゃんは"あの子がバーチャルシンガーのメグだ"って信じてるのよネ?」
K汰ちゃんは迷いなく頷いた。「ああ」と。
「だったら、どうしてわざわざそんなコト聞くの?」
困惑する私に向かって、なあ、とK汰ちゃんはささやく。夜の街に溶けるような、溶けてくれと願っているような、か細い声で問う。
「あんたは、自分が死ぬ気で作った曲、いつ思い出した?」
「────え?」
「俺が最初に投稿したらしいのは12年前。そっからざっと50曲あった。パソコンに入ってたデモ音源も入れればそれ以上だ。その全部を死ぬ気で作っていたことは、俺自身が一番よく分かった。その全部に『メグ』の名前が入っていたこともな。……それでも」
歯を食いしばるK汰ちゃん。その瞬間、彼の周りだけ夜が深くなったような錯覚に陥る。
「それでも俺は、自分のアカウントを掘り起こすまで思い出せなかった……思い出せなかったんだよ、リズ。ただの一度も」
────息を呑んだ。
少しだけ、K汰ちゃんの想いが透けて見えた気がした。
私も曲は作っていた。投稿用アカウントには、再生できないメグ曲を除いて、10曲程度は上がっているはずだし、いまだって試作中のものは2、3曲ある。そんな私でも衝撃は大きかった。
作った覚えがない「メグ曲」が自分名義で投稿されていたこと。そのどれもに歌声が入っていないのに、ビートを聞いただけで自分の本気度が桁違いに含まれていると気付いたこと。そして何より。
忘れていたことに気付く前の自分に、「生きる気力」とでも呼ぶべきものが決定的に欠けていたんだということに。
そしてその衝撃は、そっくりそのまま自分に返ってくる。
私たちは、自分たちが楽曲を作っていたことを忘れていた。「メグ」と名の付く曲は全て忘れていた。ネットに数多いる子たちと同じように「メグ」の存在を、その名に触れるまで思い出せなかったのだ。あれほど気持ちを込めたのに。あれほど神経を擦り減らして作ったのに。
あれほど"死ぬ気で作ったのに"。
「少なくとも、死にもの狂いで作った曲に『メグ』は居た。ずっとそばに居たんだ。思い入れがねえって言ったら噓だろ。何も思わねえわけがねえだろ。『メグ』を大事にしてぇ、って思うのはそんなにおかしいか?」
それに、とK汰ちゃんは続ける。「あんたは『現実的に考えて』って言ったがな。それなら今、あんたが俺のことを『K汰』として覚えてんのはどう説明する?」
「……どういう意味?」
困惑する私へ、K汰ちゃんは畳み掛けるように問いかけてくる。
「あんたと俺が知り合ったのはいつからだ? あんたが『K汰』と知り合った原因をはっきりと思い出せるか?」
「今更なにを、…………?」
K汰ちゃんの言葉に促されるように、理性が頭を浚う。浚って、掬って、
抜け落ちる。
「…………覚えてない?」
思わず口に出して、すぐに否定した。いや覚えている。私たちは確かに知り合って、『K汰』と『ZIPANDA』として曲を、そう、曲を作った。作った、作った…………?
私たちはどんな曲を作った?
私の表情から汲み取ったのか、K汰ちゃんはバルコニーの手すりに肘をかけながら先を続けた。
「思い出せねえだろ。いや、『上手く思い出せねえ』が正しいかもな。一応言っとくが、俺たちが作ったのは『カルタヘナ』と『正解ジャンキー』の2曲だ。絵師『ヒロアキ』も交えてな」
その言葉で脳裏に閃く記憶があった。パソコンのモニター越しに語らった記憶。K汰ちゃんとヒロちゃんを交えた談笑。そして、作った曲のタイトル。「カルタヘナ」。「正解ジャンキー」。
でも、そのどこかに必ずノイズが走る。掴めそうで掴めない。取り出そうとするほど崩れ落ちる。そんな空虚なノイズが。
その発生源。掴もうとして掴めない、最も空虚な箇所。それが。
「……"誰に歌わせたか"」
「ハッ、そこまで来たなら話は早ぇな」
K汰ちゃんが鼻で笑う。でもその笑い方は、どこか寂しさをはらんでいた。
「はっきり思い出せねえのは、あの2曲とも『メグ』に歌わせた曲だからだ。逆を言やあ、あんたはその2曲について一切思い出せてねえ段階でも、俺を『K汰』と認識できた。違うか?」
そっとため息をつく。K汰ちゃんの言う通り、私は『K汰』というPと出会った経緯を、彼本人に訊ねられるまで本当に覚えていなかった。そして思い出した今なら、あの2曲よりも前に私たちが出会う理由も契機も無かったことも、改めて理解できる。
「……なるほど、K汰ちゃんはこう言いたいのネ。アタクシ達が出会ったきっかけすら上手く思い出せないのに、アタクシがキミを『K汰』と認識できるはずがない。明らかに矛盾しているし、それこそ"現実的に考えてありえない"」
私の答えに、K汰ちゃんは夜闇に向かってフン、と鼻を鳴らしただけだった。思わず肩をすくめてしまう。相手が気付くまで遠回しに説明する皮肉屋な一面も、今になって思い出すなんて。
けれど、K汰ちゃんの言い分は間違っていない。私たちが出会ったきっかけを上手く思い出せない理由。更には、死ぬ気で作った曲を思い出せなかった理由も。誰も「メグ」について思い出せない理由も。
それなのに、現実に残っている物が幾つかあることも。
「メグ」という名前。丹精込めて制作した楽曲達。そして、私たちの関係性。
「……明らかな矛盾ね」
「ああ。そんで、矛盾には大体理由がある」
「そうカシラ。この世は矛盾だらけヨ。理由があったとして、それが全て見つかるなら世界はもっとシャイニィーなはずだワ」
「否定はしねえよ。だが、今回の件に限って言やあ、理由は『あいつ』だと俺は思ってる。そんだけだ」
手すりに肘をかけたまま、K汰ちゃんは親指でそっとガラス窓を指差す。引いてはその向こう、ロフトで眠るあの少女を。
「別に、あんたに一から百まで信じろとは言わねえよ。だが、こんだけ矛盾したことが起きてんだ。あんたも言ったように、あいつがメグ本人である可能性も完全に否定はできねえだろ。……それに」
「それに?」
先を促す。K汰ちゃんの視線が更に遠くなる。暗い夜に咲き乱れる街の夜景が、欠片も瞳に映らないかのような。
「仮にだが、もし今回の『メグ』の件にちゃんとした理由があったとしたら。その原因が『メグ』そのものにあったとしたら。そんな『メグ』本人が、他でもねえあいつだとしたら。────あいつは、どんな理由でここにいるんだろうな?」
一瞬、胸の奥がツキン、と痛んだ。
気付いたから。気付いてしまったから。K汰ちゃんがここまで深刻に捉えている理由。彼があの子に、メグがバーチャルシンガーだ、と気付かせたくなかったその考えを。何となく察せてしまったから。
もし万が一、こんな大掛かりで非現実な事象の理由が、原因が、全てあの少女だったとしたら。無垢で純粋なあのコが、それを自覚したとしたら。
でも、と息を吐く。「どこまでいっても"可能性の話"よ、ソレは」
「そうかもな」彼は力なく鼻で笑った。「だが、事実だけ見りゃあ連帯責任だろ。俺たち作る側も、聴く側の奴らも全員。……好き勝手もてあそんで、忘れるとか」
「……?」
首を傾げる私をよそに、K汰ちゃんは吐き捨て続ける。
「あんたは言ったな。『あいつにバーチャルシンガーだって明かして何が悪いのか』って。悪かねえよ、事実だからな」
それでも、と彼は吠える。大きな声ではなく、誰に聞かせるでもない。食い縛った犬歯の間から苦渋をこぼすように低く、吠える。
「それでも、今のあいつは人間なんだ。経緯はどうあれ、『メグ』を忘れた俺らが、あいつを『メグ』の時と同じように扱っていいはずがねえだろ。何より、あいつはきっと受け入れちまう。だから」
「……待って、キミ、何か知っているの?」
メグの時と同じ扱い。受け入れてしまう。連帯責任。何かしら、どこか引っかかるような。
そう感じる間もなく、彼は自虐じみた笑顔を浮かべた。
「どのみち俺が納得できねえんだよ。あの曲を、あいつを忘れて、どうして生きていられたのかってな。……クセェ言い方するなら、その罰なのかもしれねえな。この変な、呪いみてえなチカラも」
「チカラって……」
K汰ちゃんはそっと右の手のひらを開く。引きこもっていた人間特有の青白い指が、深夜の薄闇の中で花のようにぼうっと浮かび上がる。
────チカラ。変なチカラ。
「…………もしかして、K汰ちゃんも?」
「! あんた、まさか、」
でも、K汰ちゃんの言葉は途中で途切れた。
「────────やだっ、はなしてっ!」
夜を裂くようなあのコの叫び声が、部屋から漏れたから。
「おい、どうしたッ!!」
K汰ちゃんの動きは早かった。ガラス戸を力いっぱいスライドさせ、すぐさま私も一緒に部屋になだれ込む。そして、目を疑った。
電気の消えたいつもの私の部屋。いや、少しだけ荒れている。引っくり返ったテーブル。ロフトから落ちたお気に入りのドール。パソコン台に置いていたメモ用紙が床に散らばっていて、その真ん中で、
「ちょ、お願いだよ、乱暴にしないから、────あ」
ロフトの梯子の中段に足をかけて、彼女の手首を引っ張る、知らない男の子がいた。